先日、博多に行ってきました。職場の友人が転勤していて、いろいろ苦労している話が伝わってきたので、心配になっていたからです。もっとも、私の立場ではなにもできず、ただ話をきくだけでしたが、それでも私の訪問を喜んでくれたようです。かれの行きつけの居酒屋で一杯やり、博多ラーメンで締めました。
それはさておき――、当日はお昼に博多に着き、待ち合わせは夕方だったので、空いている時間で福岡県立美術館に行ってみました。事前にホームページをみてみたら、企画展として高島野十郎(たかしま・やじゅうろう)展をやっていたからです。
ご存知のかたも多いと思いますが、高島野十郎は1890年(明治23年)生まれの洋画家です。若いころは坂本繁二郎などとの交流もありましたが、その後は画壇との関係をもたず、孤高の人生を送りました。無名のまま1975年(昭和50年)に亡くなりましたが、最近ではその画風および生き方にたいする関心が高まっているようです。
私もある展覧会でその作品にふれて以来、気にかかっていました。
今回の企画展は同館の所蔵する作品50点余りで構成され、この画家のテーマが一望できるものでした。若いころの自画像、果物を中心とした静物画、風景画、月を描いた夜景、そしてこの画家の代名詞ともいえる蝋燭の絵。これらの作品は西洋の画家とはまったくちがう日本人固有の自然観や人生観を感じさせるものでした。
では、日本人固有の自然観や人生観とは、どのようなものでしょうか。幸いにも同館の作った「旅する野十郎」という小冊子があり、野十郎の残した言葉がのっているので、参考までにいくつか引用してみます。
「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」
これは風景画を描くときの心構えを語った言葉です。砂粒一つを神とみる感性は、西洋人にはないものでしょう。
「天体までのきょりは言語を絶する/眼前一尺のきょりも又然り」
これは静物画を描くときの心構えですが、目の前のものとの距離を天体までの距離になぞらえる感性も、西洋人にはないものでしょう。
野十郎は1960年(昭和35年)以降、千葉県柏市に住んでいたとのこと。畑の一角に小屋を建て、電気もガスも水道も引かずに、井戸を掘り、七輪で煮炊きをする生活をしていたそうです。企画展にはそのころの写真が展示されていましたが、文字通りの小屋です。そこで70歳の男が一人暮らしをし、絵を描いていた――。本人はこのうえもなく幸せだったろうと思います。
それはさておき――、当日はお昼に博多に着き、待ち合わせは夕方だったので、空いている時間で福岡県立美術館に行ってみました。事前にホームページをみてみたら、企画展として高島野十郎(たかしま・やじゅうろう)展をやっていたからです。
ご存知のかたも多いと思いますが、高島野十郎は1890年(明治23年)生まれの洋画家です。若いころは坂本繁二郎などとの交流もありましたが、その後は画壇との関係をもたず、孤高の人生を送りました。無名のまま1975年(昭和50年)に亡くなりましたが、最近ではその画風および生き方にたいする関心が高まっているようです。
私もある展覧会でその作品にふれて以来、気にかかっていました。
今回の企画展は同館の所蔵する作品50点余りで構成され、この画家のテーマが一望できるものでした。若いころの自画像、果物を中心とした静物画、風景画、月を描いた夜景、そしてこの画家の代名詞ともいえる蝋燭の絵。これらの作品は西洋の画家とはまったくちがう日本人固有の自然観や人生観を感じさせるものでした。
では、日本人固有の自然観や人生観とは、どのようなものでしょうか。幸いにも同館の作った「旅する野十郎」という小冊子があり、野十郎の残した言葉がのっているので、参考までにいくつか引用してみます。
「花一つを、砂一粒を人間と同物に見る事、神と見る事」
これは風景画を描くときの心構えを語った言葉です。砂粒一つを神とみる感性は、西洋人にはないものでしょう。
「天体までのきょりは言語を絶する/眼前一尺のきょりも又然り」
これは静物画を描くときの心構えですが、目の前のものとの距離を天体までの距離になぞらえる感性も、西洋人にはないものでしょう。
野十郎は1960年(昭和35年)以降、千葉県柏市に住んでいたとのこと。畑の一角に小屋を建て、電気もガスも水道も引かずに、井戸を掘り、七輪で煮炊きをする生活をしていたそうです。企画展にはそのころの写真が展示されていましたが、文字通りの小屋です。そこで70歳の男が一人暮らしをし、絵を描いていた――。本人はこのうえもなく幸せだったろうと思います。