Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

デプリースト&都響

2009年12月21日 | 音楽
 都響の12月定期は前常任指揮者のジェイムズ・デプリーストを指揮者に迎えてA、B両シリーズとも次のプログラムが組まれた。
(1)シューマン:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:イザベル・ファウスト)
(2)ブルックナー:交響曲第7番

 シューマンのヴァイオリン協奏曲はめったに演奏されず、私は生できいた記憶がない。これはシューマン最晩年の作品。当日のプログラム誌によると、作曲年代は1853年9月21日~10月3日とのこと。
 若きブラームスがシューマンのもとを訪れたのが同年9月30日だったので、その運命的な出会いをはさんで作曲されたことになる。翌年2月27日にはライン川に投身自殺を図っている――なので、この時期のシューマンの内面はかなり行き詰っていたと思われる。

 その内面にあったものはなんであったかを、ききとることができるかどうかが、当日の私の最大の関心事であった。

 イザベル・ファウストのヴァイオリンは、シューマンの内面にたしかに触れているように感じられた。その内面の声は、個性のきらめきも、精神の高揚も、あるいは闘争も、すべてを放棄して、ただ穏やかさだけを求めているようであった。あえて言うなら、「私は疲れた、休みたい」と言っているような――。

 思えばシューマンは、最初期のピアノ曲のころから、だれも踏み込んだことのない感性の微細な領域に踏み込んでいった。その緊張がついに限界にきたのだろうか。あるいは、別の言い方をするなら、音楽史がシューマンに強いた緊張が、ついにシューマンの容量の限界にきてしまったのだろうか。

 都響の演奏は――この曲ではオーケストラにできることは限られているものの――シューマンの内面の声に耳を傾けようとしているように、私には感じられた。これにはデプリーストの存在が大きかったのではないかと思う。

 ブルックナーの交響曲第7番では、明るく温かいデプリーストの音が(昨年3月の退任以来久しぶりに)蘇った。明快で引きずることのないフレージングによる、見通しのよい演奏。反面、音にたいする陶酔感はないので、物足りない人もいるだろう。けれども、たとえば第4楽章の終結部のような金管の咆哮でも、けっして音が濁らない。11月に現常任指揮者の棒できいたブルックナーの第5番が、アンサンブルに粗さがあって困惑したのに比べて、こちらのほうが常任指揮者らしかった。
(2009.12.18.サントリーホール)
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