都響の3月定期はプリンシパル・コンダクターのインバルの指揮。昨日はAシリーズの定期があった。曲目はブルックナーの交響曲第8番。インバルは昔から初稿を演奏しているが、この日も初稿による演奏。実は私は初稿をきくのは初めて。シモーネ・ヤングの評判のCDもきいたことがない。私としては念願の初稿初体験だった。
初稿と改訂稿とのちがいはいまさらいうまでもないだろうが、念のためにプログラム・ノートから「特に目立った改変点」を引用しておくと、次のとおり。
(1)初稿→改訂稿「第1楽章最後の輝かしいfffによる終結部のカット」
(2)同「第2楽章のトリオの差し替え」
(3)同「第3楽章における調構成の変更」
以上の3点は私もどこかで目にしたことがあり、記憶に残っていたが、実際に演奏をきいてみると、改訂稿とはまったくちがう曲だと思った。
ざっくりいうと、曲のあちこちに、今まできいたことのない楽句がはさみ込まれていて、それらの構成体としての全曲を通した聴後感は、ドキッとするくらい異なる。
また、インバルがことさらに強調していたのかもしれないが、弦、木管、金管が今まできいたことのない動きをしていて、それらを追うのも忙しかった。そのもっともショッキングで、あからさまなちがいは、第3楽章アダージョのクライマックスでシンバルが何度も(!)打ち鳴らされること。私は、正直にいうと、なにかの冗談かと思った。
結局のところ、初稿の演奏価値がどのくらいあるのか、私にはつかみかねた。興行的な計算があるのは事実だろうが――もっと品よくいえば、聴衆の興味に応える意味は十分に理解できるが――、音楽的にはどうなのだろう。
もっとも、昨日の演奏をきいただけで、結論めいた感想をもってしまうのは時期尚早だと思う。例のシモーネ・ヤングのCDをきけば、また異なる感想をもつかもしれない。その意味では、昨日の演奏は今後の興味のきっかけになってくれた――そう考えて、感謝すべきだろう。
インバルのブルックナーは、昨年11月の第5番もきいたが、基本的にはそのときの印象と変わらなかった。鋭角的なアクセントをもち、弦も木管も金管も渾身の力をこめて音を絞りだす演奏。マーラーではあれほど色彩感にこだわり、総体としての音響を磨きぬくインバルだが、ブルックナーではまったく異なるアプローチをする。私はマーラーでは感心し、ブルックナーでは苦手意識をもってしまう。
(2010.3.25.東京文化会館)
初稿と改訂稿とのちがいはいまさらいうまでもないだろうが、念のためにプログラム・ノートから「特に目立った改変点」を引用しておくと、次のとおり。
(1)初稿→改訂稿「第1楽章最後の輝かしいfffによる終結部のカット」
(2)同「第2楽章のトリオの差し替え」
(3)同「第3楽章における調構成の変更」
以上の3点は私もどこかで目にしたことがあり、記憶に残っていたが、実際に演奏をきいてみると、改訂稿とはまったくちがう曲だと思った。
ざっくりいうと、曲のあちこちに、今まできいたことのない楽句がはさみ込まれていて、それらの構成体としての全曲を通した聴後感は、ドキッとするくらい異なる。
また、インバルがことさらに強調していたのかもしれないが、弦、木管、金管が今まできいたことのない動きをしていて、それらを追うのも忙しかった。そのもっともショッキングで、あからさまなちがいは、第3楽章アダージョのクライマックスでシンバルが何度も(!)打ち鳴らされること。私は、正直にいうと、なにかの冗談かと思った。
結局のところ、初稿の演奏価値がどのくらいあるのか、私にはつかみかねた。興行的な計算があるのは事実だろうが――もっと品よくいえば、聴衆の興味に応える意味は十分に理解できるが――、音楽的にはどうなのだろう。
もっとも、昨日の演奏をきいただけで、結論めいた感想をもってしまうのは時期尚早だと思う。例のシモーネ・ヤングのCDをきけば、また異なる感想をもつかもしれない。その意味では、昨日の演奏は今後の興味のきっかけになってくれた――そう考えて、感謝すべきだろう。
インバルのブルックナーは、昨年11月の第5番もきいたが、基本的にはそのときの印象と変わらなかった。鋭角的なアクセントをもち、弦も木管も金管も渾身の力をこめて音を絞りだす演奏。マーラーではあれほど色彩感にこだわり、総体としての音響を磨きぬくインバルだが、ブルックナーではまったく異なるアプローチをする。私はマーラーでは感心し、ブルックナーでは苦手意識をもってしまう。
(2010.3.25.東京文化会館)