Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ルイージ/N響

2024年09月16日 | 音楽
 ファビオ・ルイージ指揮N響の定期演奏会Aプロ。曲目はブルックナーの交響曲第8番(初稿/1887年)。第8番の初稿は、先日、高関健指揮東京シティ・フィルで聴いたばかりだ。そのときはホークショー版と明記されていた。今回はとくに記載がない。ノヴァーク版なのか、それともルイージが多少手を入れているのか。

 その詮索はともかく、ルイージ指揮N響の演奏は見事だった。わたしは初めて第8番の初稿の自然な流れを聴いた思いがした。ブルックナーの頭の中で鳴っていたこの曲の姿を初めて聴くことができた。ブルックナーは作曲当時、第7番の初演が成功して、すでに大家になっていた。脂の乗りきったブルックナーの筆から流れ出た初稿だ。そこにはブルックナー独自の論理があった。それが今回の演奏で音になった。

 話が脇道にそれるが、わたしが第8番の初稿を聴くのは今回で3度目だ。最初はインバル指揮都響、2度目が高関健指揮東京シティ・フィルだった。それらの演奏は第2稿との差異を強調したり(インバル)、初稿の音の動きを検証したりする(高関健)演奏だった。だが今回のルイージ指揮N響の演奏は、初稿に全幅の信頼をおき、その音の世界を表現しようとするものだった。

 具体的な箇所をいえば、第2稿とは大きく異なる第2楽章のトリオが、今回はクリアな輪郭をもって聴こえた。第2稿のトリオはたしかにすばらしいが、初稿のトリオもそれなりの音の流れがあるのだと納得した。また第3楽章の末尾で「転調の末に高らかなハ長調(引用者注:第2稿では変ホ長調)の頂点に辿り着いた」(高松佑介氏のプログラムノート)ときの金管楽器のハーモニーが、今回ほど輝かしく聴こえたことはない。

 今更いうまでもないが、初稿の第3楽章と第4楽章は、第2稿と比べても長大だ(第2稿でさえ一般的には長大と感じる人がいるわけだが、それよりも長大だ)。だがその長大さが必要だったのだと今回の演奏で実感した。ブルックナーにはブルックナーの論理があり、それがある結論に至るには長大な展開が必要だったのだと。第8番にかぎらず第2稿・第3稿のとくに第4楽章の物足りなさは(その顕著な例は第3番だ)、ブルックナーの論理を追っていないからだ。

 初稿では木管楽器は第3楽章までは2管編成だが、第4楽章は3管編成となる、一方、第2稿では(弟子たちの進言により)全楽章が3管編成で書かれている――と説明されるが、高関健指揮東京シティ・フィルのときは、第1楽章から3番奏者も吹いていた。今回はたしかに3番奏者の出番は第4楽章だけだった。その効果はたしかにあった。また高関健のときはハープが3台だったが、今回は2台だった。
(2024.9.15.NHKホール)

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