Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

国際イプセン演劇祭

2010年12月08日 | 演劇
 国際イプセン演劇祭が催された。日本では初の試み。ノルウェー、ベトナム、ドイツ、日本の各国から1団体ずつ参加。文字どおり「国際」の名にふさわしい内容になった。ノルウェー国立劇場の「人民の敵」とベルリン・ドイツ座の「野がも」をみた。

 「人民の敵」はノルウェーの田舎町が舞台。町の経済をささえる温泉が汚染されていることに気づいた医師が、温泉のため、そして町のために、事実を公表しようとする。けれども、実兄である町長をはじめ、町の保守層から圧力がかかる。そのうち、最初はリベラルにみえた中間層も離れていく。最後には急進的な左派からも攻撃される。孤立無援の医師は「人民の敵」というレッテルをはられる。

 喜劇仕立ての芝居だが、喜劇の枠内には収まりきらないものがある。会場で配布された駐日ノルウェー王国大使館の「イプセン・ハンドブック」には、イプセン自身の次のような言葉が紹介されていた。

 「これを喜劇と呼ぶべきなのか悲劇と呼ぶべきか、まだ迷っています。喜劇的性格にあふれていますが、底流に横たわる主題は真面目なものだからです。」

 この言葉にある「悲劇」に着目するなら、この芝居にはギリシャ悲劇の「アンティゴネー」的な側面があると感じる。自ら信じる真実を主張すれば、社会から煙たがられ、ついには抹殺される、そういうドラマを、ギリシャ悲劇は骨太の悲劇として描き、近代劇のイプセンは喜劇として描いた、ということではないだろうか。

 演出は1970年生まれのルーナル・ホドネRunar Hodne。舞台にはなにもなく、ガランとしている。普段着の役者たちが入ってきて、稽古でも始めるように始まる。音楽もない。あるのはPAから流れてくるビート音だけ。原作は長大だが、ディテールをばっさり切り落として、1時間40分の舞台に凝縮していた。

 「野がも」は「人民の敵」の次の作品。長くなるので作品紹介は控えるが、主題は似ているといえなくもない。「人民の敵」は社会派だが、「野がも」は家庭劇なので、心理的な側面が強くなっている。そこに詩的な要素が加わっているのが特徴だ。

 演出は1965年生まれのミヒャエル・タールハイマーMichael Thalheimer。舞台の中央には巨大な白い円筒がある。抽象性の高い舞台だ。役者たちはほとんど直立したまま台詞をしゃべる。台詞には明確な緩急と、沈黙の間がつけられている。作品のシンボルである野がもは、役者の口笛で表現される。口笛のかすかな音が今でも耳に残っている。この演出も大胆に切り詰めて、1時間40分ほどに凝縮していた。
(2010.11.17「人民の敵」&26「野がも」.あうるすぽっと)
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