オーストリア・フランス・ドイツの共同制作映画「ルルドの泉で」。2009年のヴェネチア国際映画祭で5部門受賞の作品だ。
ルルドとはピレネー山脈のふもとにある小さな町。1858年に貧しい少女ベルナデッタの前に聖母マリアが出現した。そのとき泉が湧きだし、その水には病を癒す「奇跡」の力があるという噂が広まった。今ではカトリックの聖地になっている。年間600万人もの人たちが、ヨーロッパ中から、そして日本からも訪れる。
本作は、そのような巡礼者の一人、不治の病により車椅子生活を余儀なくされているクリスティーヌの物語だ。クリスティーヌはルルド巡礼のツァーに参加して、洞窟めぐり、水浴、告解、ミサ、夜の蝋燭行列などのプログラムに沿って数日間を過ごす。そのとき「奇跡」が起きる。車椅子から離れて、杖を使って歩くことができるようになるのだ。戸惑いながらも素直に喜びを表すクリスティーヌ。祝福しながらも嫉妬を隠せない同行者たち。
「奇跡」は起きたのか、それとも一時的な快復なのか、そもそも「奇跡」という超常現象はあるのか――そういった関心は本作にはない。むしろ「奇跡」を求めて集まってくる人々の、各人各様の心象風景、神との対話、俗世間そのものの人間関係――そのような点に関心がある。
ラストの数分間は感動的だ。具体的な記述は控えるが、再び車椅子にすわったクリスティーヌの穏やかな微笑み。その美しさは人生にたいして肯定的になれた証だ。
わたしのような者がこういうことをいうのは、ほんとうは憚られるのだが、あの穏やかな微笑みは、神の光がさしたのかもしれないと、帰宅後、思った。そう思ったら、眠れなくなった。
残念ながらわたしは信仰がないままに何十年も生きてきた。けれども、信仰はないものの、宗教的な感情は、人並みとはいえないまでも、少しはあるのかもしれない、と思うことがある。たとえばメシアンの音楽を聴いて心が震えるときなど、それを感じる。そういう意味では、信仰は一生の問題だ。本作はその問題に触れる作品だ。
なんの予備知識もなく観た映画だが、プログラムによると、監督はジェシカ・ハウスナーという女性。なるほどと思った。なにかを構築するよりも、淡い色の光が交錯しながら何本も流れていくような感触だ。クリスティーヌ役はシルヴィー・デステューという人。すばらしく透明感のある俳優だ。
(2012.1.12.シアター・イメージフォーラム)
ルルドとはピレネー山脈のふもとにある小さな町。1858年に貧しい少女ベルナデッタの前に聖母マリアが出現した。そのとき泉が湧きだし、その水には病を癒す「奇跡」の力があるという噂が広まった。今ではカトリックの聖地になっている。年間600万人もの人たちが、ヨーロッパ中から、そして日本からも訪れる。
本作は、そのような巡礼者の一人、不治の病により車椅子生活を余儀なくされているクリスティーヌの物語だ。クリスティーヌはルルド巡礼のツァーに参加して、洞窟めぐり、水浴、告解、ミサ、夜の蝋燭行列などのプログラムに沿って数日間を過ごす。そのとき「奇跡」が起きる。車椅子から離れて、杖を使って歩くことができるようになるのだ。戸惑いながらも素直に喜びを表すクリスティーヌ。祝福しながらも嫉妬を隠せない同行者たち。
「奇跡」は起きたのか、それとも一時的な快復なのか、そもそも「奇跡」という超常現象はあるのか――そういった関心は本作にはない。むしろ「奇跡」を求めて集まってくる人々の、各人各様の心象風景、神との対話、俗世間そのものの人間関係――そのような点に関心がある。
ラストの数分間は感動的だ。具体的な記述は控えるが、再び車椅子にすわったクリスティーヌの穏やかな微笑み。その美しさは人生にたいして肯定的になれた証だ。
わたしのような者がこういうことをいうのは、ほんとうは憚られるのだが、あの穏やかな微笑みは、神の光がさしたのかもしれないと、帰宅後、思った。そう思ったら、眠れなくなった。
残念ながらわたしは信仰がないままに何十年も生きてきた。けれども、信仰はないものの、宗教的な感情は、人並みとはいえないまでも、少しはあるのかもしれない、と思うことがある。たとえばメシアンの音楽を聴いて心が震えるときなど、それを感じる。そういう意味では、信仰は一生の問題だ。本作はその問題に触れる作品だ。
なんの予備知識もなく観た映画だが、プログラムによると、監督はジェシカ・ハウスナーという女性。なるほどと思った。なにかを構築するよりも、淡い色の光が交錯しながら何本も流れていくような感触だ。クリスティーヌ役はシルヴィー・デステューという人。すばらしく透明感のある俳優だ。
(2012.1.12.シアター・イメージフォーラム)