Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

フェルメールからのラブレター展

2012年01月10日 | 美術
 今年はフェルメールの当たり年だ。今開催中の「フェルメールからのラブレター展」では3点来ているし、今後は「ベルリン国立美術館展」で1点、「マウリッツハイス美術館展」で2点来る。

 新年早々、金曜日の夜間開館の時間帯に「フェルメールからのラブレター展」に行ってきた。人が少なくてゆっくり観ることができた。作品数も40点あまりと少ないことも幸いだった。

 本展はフェルメールの時代に急速に発達した手紙によるコミュニケーションをテーマに構成されている。手紙によって遠隔の地にいる恋人あるいは夫や妻に感情を伝えることができることは、劇的な変化だった。そこに生じる感情のドラマを追ったのが本展だ。

 そうではあるのだが、見方を変えると、本展には「フェルメールとその時代」という性格もある。フェルメールはどういう時代に出てきたのか、もっと限定的にいえば、フェルメールが生きた時代のデルフトという街はどういう芸術的環境だったのかを、本展は示している。

 本展でわかることは、フェルメールの同時代人(とくに今ではデルフト派といわれる画家たち)は、みんな同じように室内画を描いたし、日常生活のあれこれを描いたということだ。フェルメールもそのような環境のなかにいた一人だ。

 けれども他の画家たちの作品を観た後でフェルメールの作品を観ると、明るさというか、輝きというか、作品から発するなにか言葉にならない力に打たれて、ハッとする。「手紙を書く女」の場合は輝くばかりの光の反射が、「手紙を読む青衣の女」の場合は室内の静謐さが、「手紙を書く女と召使い」の場合は光と影の強いコントラストが、それぞれ特別なのだ。

 同時代人とのこのような関係はモーツァルトに似ていると思った。モーツァルトもけっして単独で出てきたわけではない。モーツァルトと同じような曲を書いていた同時代人はたくさんいた。たとえばサン=ジョルジュの作品など、黙って聴かせられたら、モーツァルトだと思ってしまうだろう。そのような環境から出てきたが、モーツァルトには特別な明るさ、あるいは輝きがあるのもまた事実だ。

 技術的な違いはわずかかもしれない。けれどもその違いがフェルメールを作り、モーツァルトを作ったのだ。

 本展はこのようなフェルメール、あるいはモーツァルトの天分のあり方について、あれこれ思いを巡らす機会になった。
(2012.1.6.Bunkamuraザ・ミュージアム)
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