金曜日の夜間開館時間にメトロポリタン美術館展へ。午後6時に着いたらライブ・コンサートを待つ人たちの列があった。以前、別の美術館でひどい目に遭ったので(騒音に悩まされた)、音を心配したが、そのフロアー(ロビー階)は多少音が漏れてきたものの、1階と2階はまったく問題なかった。まずは一安心。
本展はメトロポリタン美術館の膨大な収蔵品のなかから「自然」をテーマに選んで構成したもの。ホームページを見ると、大地や海や空といった要素を縦軸に、古代から近代までの時間の流れを横軸に組んだ表のなかに各作品が置かれている。これは本展の性格をよく表している。「自然」というピンポイントで再現されたミニ・メトロポリタン美術館というわけだ。
だから、というべきか、これは思いっ切りわがままに観てみようと思った。まずざっと全体を観て、ピンとくる作品をチェックし、もう一度そこに戻って、なにがピンときたのかを考えた。そうしているうちに、最初はあまり気に留めなかった作品にも興味を抱く場合があり、結果的に本展をじっくり楽しんだ。
マイベストというか、本展でもっとも感銘を受けた作品は、ミレーの「麦穂の山:秋」だった(↑copyright:The Metropolitan Museum of Art)。刈り入れが終わった畑、手前には羊の群れ、その向こうに麦穂の山が三つ、それらの麦穂の山は巨大だ。羊飼いの女の4~5倍の高さ。遠景には黒い雲が広がっている。
ミレーというと「晩鐘」や「落穂拾い」が想い出される。神への感謝に満ちた、慎ましく、調和のとれた農民画。ところが本作にはそれらとは異なる不穏なものが感じられた。
これはミレーの死の前年に描かれた(1874年)。だとすれば、黒い雲は「死」だろうか、と思いたくなった。ひそかに迫る「死」の予感。手前の羊が、こちらを向いて、なにも知らずに落穂を食んでいる。この羊はミレー自身だろうか。では、巨大な麦穂の山はなんだろうか。なにかモニュメンタルな象徴性が感じられる。これは、ミレーが信じていたもの、つまりは「死」に抗うものだろうか。具体的にはなんだろう。芸術の永遠性だろうか。いや、答えを性急に出すのは止めよう、答えが見つからない問いとして、しばらく抱えていようと思った。
ミレーのことはよく知っているつもりだったが、実はなにも知らなかった。そのことがよくわかった。
(2012.11.30.東京都美術館)
本展はメトロポリタン美術館の膨大な収蔵品のなかから「自然」をテーマに選んで構成したもの。ホームページを見ると、大地や海や空といった要素を縦軸に、古代から近代までの時間の流れを横軸に組んだ表のなかに各作品が置かれている。これは本展の性格をよく表している。「自然」というピンポイントで再現されたミニ・メトロポリタン美術館というわけだ。
だから、というべきか、これは思いっ切りわがままに観てみようと思った。まずざっと全体を観て、ピンとくる作品をチェックし、もう一度そこに戻って、なにがピンときたのかを考えた。そうしているうちに、最初はあまり気に留めなかった作品にも興味を抱く場合があり、結果的に本展をじっくり楽しんだ。
マイベストというか、本展でもっとも感銘を受けた作品は、ミレーの「麦穂の山:秋」だった(↑copyright:The Metropolitan Museum of Art)。刈り入れが終わった畑、手前には羊の群れ、その向こうに麦穂の山が三つ、それらの麦穂の山は巨大だ。羊飼いの女の4~5倍の高さ。遠景には黒い雲が広がっている。
ミレーというと「晩鐘」や「落穂拾い」が想い出される。神への感謝に満ちた、慎ましく、調和のとれた農民画。ところが本作にはそれらとは異なる不穏なものが感じられた。
これはミレーの死の前年に描かれた(1874年)。だとすれば、黒い雲は「死」だろうか、と思いたくなった。ひそかに迫る「死」の予感。手前の羊が、こちらを向いて、なにも知らずに落穂を食んでいる。この羊はミレー自身だろうか。では、巨大な麦穂の山はなんだろうか。なにかモニュメンタルな象徴性が感じられる。これは、ミレーが信じていたもの、つまりは「死」に抗うものだろうか。具体的にはなんだろう。芸術の永遠性だろうか。いや、答えを性急に出すのは止めよう、答えが見つからない問いとして、しばらく抱えていようと思った。
ミレーのことはよく知っているつもりだったが、実はなにも知らなかった。そのことがよくわかった。
(2012.11.30.東京都美術館)