日曜日は各地で雪が降ったが、東京は快晴だった。気持ちのいい青空のもと、久しぶりにバスに乗って、大田区立郷土博物館に出かけた。「馬込時代の川瀬巴水」展を観るためだ。
川瀬巴水は1883年(明治16年)生まれ。浮世絵の流れをくむ新版画の絵師だ。抒情的な風景版画で知られ、今でもファンが多い。わたしもその一人だ。巴水は1926年(大正15年)に現・東京都大田区に引っ越した。以降、戦中に栃木県塩原に疎開した以外は、大田区内に住み続けた。1957年(昭和32年)没。
このような縁あってか、同館では巴水の版画を多く所蔵しているようだ。全94点の充実した展示。しかも、ありがたいことに無料だ。
巴水の作品は同展のホームページでも見られるし、江戸東京博物館のホームページには膨大なデータベースがあるので、自宅でいくらでも見ることができる。だが、現物には及ばない、というのが実感だ。色、とくに藍色は、画像では想像もできない深みがあった。
チラシ(↑)に使われている作品は「馬込の月」。昭和5年作。えっ、当時の馬込はこんな風景だったのか、と驚く。昭和5年というと1930年、今から80年ほど前だ。80年たてば風景が変わるのは当たり前かもしれないが、その変貌ぶりには驚きを禁じえない。
今、馬込は閑静な住宅街だ。馬込には、わたしは多少縁がある――昔、父が通っていた町工場があった。今から50年ほど前の話だ。父は羽田の家から自転車で通っていた。雨の日は雨合羽を着て自転車をこいだ。子ども心に、なぜ電車で通わないのかと思った。父にきいた記憶がある。多分あいまいな返事だったろう。今考えると、お金がなかったからだ。通勤手当が出るような工場ではなかった。
その町工場に、わたしは年に一度、母に連れられて挨拶に行った。JR(当時は国電といった)の大森駅からバスに乗り、万福寺前というバス停で降りた。そのバス停こそ、今、大田区立郷土博物館のあるところだ。懐かしさのあまり、町工場があった場所を探してみた。だが、見つからなかった。バス停からの下り坂が記憶にあるくらいだ。深い谷のような記憶だったが、今見ると、坂ともいえないゆるい坂だ。町工場に着くと、座敷に通された。神妙に挨拶した。お茶とお菓子をご馳走になった。
遠い記憶のなかにある場所がこんなに近くだったとは――と、不思議な気分だった。
(2012.12.9.大田区立郷土博物館)
川瀬巴水は1883年(明治16年)生まれ。浮世絵の流れをくむ新版画の絵師だ。抒情的な風景版画で知られ、今でもファンが多い。わたしもその一人だ。巴水は1926年(大正15年)に現・東京都大田区に引っ越した。以降、戦中に栃木県塩原に疎開した以外は、大田区内に住み続けた。1957年(昭和32年)没。
このような縁あってか、同館では巴水の版画を多く所蔵しているようだ。全94点の充実した展示。しかも、ありがたいことに無料だ。
巴水の作品は同展のホームページでも見られるし、江戸東京博物館のホームページには膨大なデータベースがあるので、自宅でいくらでも見ることができる。だが、現物には及ばない、というのが実感だ。色、とくに藍色は、画像では想像もできない深みがあった。
チラシ(↑)に使われている作品は「馬込の月」。昭和5年作。えっ、当時の馬込はこんな風景だったのか、と驚く。昭和5年というと1930年、今から80年ほど前だ。80年たてば風景が変わるのは当たり前かもしれないが、その変貌ぶりには驚きを禁じえない。
今、馬込は閑静な住宅街だ。馬込には、わたしは多少縁がある――昔、父が通っていた町工場があった。今から50年ほど前の話だ。父は羽田の家から自転車で通っていた。雨の日は雨合羽を着て自転車をこいだ。子ども心に、なぜ電車で通わないのかと思った。父にきいた記憶がある。多分あいまいな返事だったろう。今考えると、お金がなかったからだ。通勤手当が出るような工場ではなかった。
その町工場に、わたしは年に一度、母に連れられて挨拶に行った。JR(当時は国電といった)の大森駅からバスに乗り、万福寺前というバス停で降りた。そのバス停こそ、今、大田区立郷土博物館のあるところだ。懐かしさのあまり、町工場があった場所を探してみた。だが、見つからなかった。バス停からの下り坂が記憶にあるくらいだ。深い谷のような記憶だったが、今見ると、坂ともいえないゆるい坂だ。町工場に着くと、座敷に通された。神妙に挨拶した。お茶とお菓子をご馳走になった。
遠い記憶のなかにある場所がこんなに近くだったとは――と、不思議な気分だった。
(2012.12.9.大田区立郷土博物館)