Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

マクベス

2013年05月02日 | 音楽
 東京二期会の「マクベス」を観た。昨日が初日で、これからまだ公演があるから、具体的なことは書かずに感想のみを。

 ペーター・コンヴィチュニーの演出。東京二期会がコンヴィチュニーと組むのはこれで4度目だ。今度こそコンヴィチュニーの舞台になっている、という感慨をもった。以前の未消化な感触や、なんだか照れているような感触を払しょくして、今回はこの舞台を楽しんでいる雰囲気があった。

 タイトルロールの小森輝彦の存在が大きかったのだろうと思う。さすがにドイツの歌劇場で鍛えられているだけある。コンヴィチュニーの演出に臆することなく、むしろ当たり前のようにやっていた。そのことが周囲に与えた影響(=効果)は大きかったろうと想像する。もちろん歌唱もすばらしかった。声も、その安定感も。

 このように核になる人がいたおかげで、コンヴィチュニーの舞台として、一応そういえる水準にまで、今回は達していた。実感をいうと、新国立劇場の舞台よりも面白かった、というのが正直なところ。

 そう思ったもう一つの理由は、オーケストラだ。ピットに入ったのは東京交響楽団で、新国立劇場でもピットに入っているが、新国立劇場では聴いたことがない歯切れのよい演奏をしていた。なぜだろう。指揮者のためか。今回の指揮者アレクサンドル・ヴェデルニコフは、積極的にリスクをとって、ドラマに踏み込んでいたから。

 もう一度演出に戻るが、コンヴィチュニーの演出に既視感が漂うといわれるようになって久しい(気がする)。たしかに細部のアイディアにはそういう面がある。でも、それは表層的なことだ。コンヴィチュニーの本質はそんなところにはない、そしてその本質は健在だ、と思った。

 その本質とは、今回の場合、魔女の扱いだ。魔女とはなにか。シェイクスピアの原作にも登場し、それがそのままヴェルディに引き継がれている魔女とは――。たぶんコンヴィチュニーはこれを徹底的に考えたはずだ。そして出した答えがこの舞台だ。魔女を魔女としてなんとなく(なにも考えないで)舞台にのせるのではなく、よく考えるとちょっとひっかかる魔女というものを、徹底的に考えて、自分なりの答えを出すのがコンヴィチュニーの流儀だ。

 その答えは「演出ノート」に書かれているが、「演出ノート」を読まなくても、コンヴィチュニーの意図は伝わってきた。面白い。コンヴィチュニー好調だ。
(2013.5.1.東京文化会館)
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