Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

十九歳のジェイコブ

2014年06月12日 | 演劇
 中上健次の小説「十九歳のジェイコブ」の舞台化。脚本は松井周、1972年生まれ。演出は松本雄吉、中上健次と同い年の1946年生まれ。俳優はもちろん若い人たち。演出の松本雄吉と若い人たちとの世代間交流のような公演だ。

 結果、どうなったかというと、当時を象徴する小道具の赤電話と、時々出てくる「それ、やばくない?」といったかどうか、ともかくそんな現代的なイントネーションとの奇妙な混淆に、どっちつかずの、すわりの悪い思いがした。

 一言でいって、中上健次の泥臭い世界が、今の時代に舞台化されると、ずいぶんスマートに、スタイリッシュになるのだなと思った。それはそれでいいのだが、それならそれで、さらに突き抜けたものがほしかった。これだったらむしろ、演出をふくめて、若い人たちだけでやったらどうなったか――。

 もう一つ感じたことは、ジェイコブを演じた役者のカリスマ性の不足だ。中上健次のこの小説は、主人公ジェイコブのカリスマ性がリアリティを支えている。中上健次のその造形は見事だ。それを舞台化した場合でも、カリスマ性の必要は変わらないようだ。今回は、残念ながら、今の時代の等身大のジェイコブになった。

 音楽は、いうまでもなく、コルトレーンなどのジャズが主体だが(そしてそれは効果的だが)、もう一方の重要な音楽であるヘンデルは「ハレルヤ」コーラスと「水上の音楽」の他に、オペラのアリアが2曲使われていた。この2曲のアリアが、わたしには意外だった。小説ではたんにヘンデルと書いてあるだけだが、ジャズとの関連で、器楽曲を想像していた。たぶんリサーチの結果だろう。どういうことなのか、興味がある。

 斎藤環氏の解説によれば、ジェイコブという名前は「おそらく、旧約聖書のヤコブを意味する」とのこと。でも、‘ヤコブの梯子’(シェーンベルクの未完の大作「ヤコブの梯子」を思い出す)や、‘天使と格闘するヤコブ’は出てこない。では、ジェイコブのどこがヤコブなのだろうか。

 ヤコブは神に祝福されている。でも、ジェイコブはどうか。ジェイコブは神を信じていない。だが、神に代わるものとして、ジャズがある。ジャズを信じている。ジェイコブはジャズに祝福されているのかもしれない。

 最後のジャズ喫茶の場面は、台詞にあるとおり、シナゴーグ(ユダヤ教会)のように見えた。あれは信仰の場面だったのだろう。
(2014.6.11.新国立劇場小劇場)
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