ヤクブ・フルシャ指揮の都響。1曲目はオネゲルの「パシフィック231」。冒頭の軋むような薄い不協和音が、すごく美しく、かつ透明に聴こえた。おっ!と思った。その後の展開は、機関車が疾走する様子というよりも、後半に控えている「春の祭典」を予告する色彩の氾濫のように聴こえた。その点での微妙なニュアンスに引っかかった。
寺西基之氏のプログラム・ノートを読んでいて気が付いたのだが、この曲は‘交響詩’ではなく、‘交響的楽章’だ。なるほど、たしかに、なにかの楽章、あるいは断章のような感じがした。
2曲目はバルトークのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はピョートル・アンデルシェフスキ。冒頭、漣のような弦の動きに乗ってピアノが演奏する第1主題が、クリアーな音像を結んだ。イメージどおりだと思った。でも、その後がしっくりこなかった。ピアノもオーケストラも、もっと軽い、しかし確かなリズムであってほしかったが――。
第2楽章の冒頭は、オーケストラもピアノも真綿のように柔らかい、夢見るような音。ちょっと行きすぎというか、効果を狙った音のように感じた。第3楽章は太い音でばりばり鳴らす演奏。畳み掛けるようなエンディングはスリル満点だった。
でも、この演奏にはバルトークの‘白鳥の歌’というイメージはなかった。もっと現世的だった。どこか一貫性のない、まだら模様のような印象が残った。たぶんわたしは、この曲が好きすぎるのだろう。
アンデルシェフスキはアンコールを2曲弾いてくれた。まずバルトークの「3つのハンガリー民謡」。隅々までクリアーな演奏。この演奏で癒された。次はバッハの「フランス組曲第5番」からサラバンド。真綿の繊維のような感触の、神経の通った演奏。思わずため息が出た。
最後はストラヴィンスキーの「春の祭典」。一点一画もゆるがせにしない演奏。こういう演奏で聴くと、逆にこの曲は、今でも超難曲なのだと感じられる。今のオーケストラならどこのオーケストラでも演奏してしまうが、でも、このようにきちんと演奏しようとするなら、相変わらず途轍もなく難しい曲なのだ。
フルシャは1981年生まれ。今年まだ33歳だ。将来巨匠になるかもしれないが、33歳の今だからこそできる演奏。フルシャの生涯でも(あるいはフルシャをこれからも長く聴き続けるだろう聴衆にとっても)、エポックメーキングな演奏だった。
(2014.6.24.サントリーホール)
寺西基之氏のプログラム・ノートを読んでいて気が付いたのだが、この曲は‘交響詩’ではなく、‘交響的楽章’だ。なるほど、たしかに、なにかの楽章、あるいは断章のような感じがした。
2曲目はバルトークのピアノ協奏曲第3番。ピアノ独奏はピョートル・アンデルシェフスキ。冒頭、漣のような弦の動きに乗ってピアノが演奏する第1主題が、クリアーな音像を結んだ。イメージどおりだと思った。でも、その後がしっくりこなかった。ピアノもオーケストラも、もっと軽い、しかし確かなリズムであってほしかったが――。
第2楽章の冒頭は、オーケストラもピアノも真綿のように柔らかい、夢見るような音。ちょっと行きすぎというか、効果を狙った音のように感じた。第3楽章は太い音でばりばり鳴らす演奏。畳み掛けるようなエンディングはスリル満点だった。
でも、この演奏にはバルトークの‘白鳥の歌’というイメージはなかった。もっと現世的だった。どこか一貫性のない、まだら模様のような印象が残った。たぶんわたしは、この曲が好きすぎるのだろう。
アンデルシェフスキはアンコールを2曲弾いてくれた。まずバルトークの「3つのハンガリー民謡」。隅々までクリアーな演奏。この演奏で癒された。次はバッハの「フランス組曲第5番」からサラバンド。真綿の繊維のような感触の、神経の通った演奏。思わずため息が出た。
最後はストラヴィンスキーの「春の祭典」。一点一画もゆるがせにしない演奏。こういう演奏で聴くと、逆にこの曲は、今でも超難曲なのだと感じられる。今のオーケストラならどこのオーケストラでも演奏してしまうが、でも、このようにきちんと演奏しようとするなら、相変わらず途轍もなく難しい曲なのだ。
フルシャは1981年生まれ。今年まだ33歳だ。将来巨匠になるかもしれないが、33歳の今だからこそできる演奏。フルシャの生涯でも(あるいはフルシャをこれからも長く聴き続けるだろう聴衆にとっても)、エポックメーキングな演奏だった。
(2014.6.24.サントリーホール)