尾高忠明が振った日本フィルの定期。地味なプログラムだが、お客さんは結構入っていた。学生さんたちはブラスバンドをやっている人たちだろうか。
前半2曲はイギリスの音楽。1曲目はジェラルド・フィンジ(1901‐1956)の「クラリネットと弦楽のための協奏曲」。フィンジという作曲家は、数年前までは知らなかった。林田直樹氏のメルマガで初めて知った。
1949年の作品。急進的な前衛音楽の時代だが、その時代にこういう作品が書かれていたのかと驚くほど、穏やかで、抒情的な作品だ。世界は広いと思う。時代はけっして一色には染まらないものだと思う。広い世界のどこかでは、時代に流されずに自分の世界を守っている人がいるのだなと――。
クラリネット独奏は日本フィル首席奏者の伊藤寛隆。第1楽章ではヒヤリとすることがあったが、第2楽章からは安定した演奏になった。オーケストラは、イギリス音楽のスペシャリスト尾高忠明の指揮のもと、信頼に足る演奏を繰り広げた。
緩徐楽章の第2楽章が、弱音が完璧にコントロールされ、抒情的な音の世界に沈潜するような、例えて言うならイギリスの美しい田園地方の黄昏を見るような、そんな雰囲気のある名演になった。
2曲目はヴォーン・ウィリアムズの「バス・テューバと管弦楽のための協奏曲」。独奏は日本フィルのテューバ奏者、柳生和大。テューバの柔らかな、かつ存在感のある音を楽しんだ。
プログラム後半はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。これも名演だった。音がよく整理されていた。尾高忠明の力量だろうが、もう一つは、日本フィルの弦に軽やかさがあり、先月客演したインキネンの余韻のようなものが感じられた。
オヤマダアツシ氏のプログラム・ノートに、第2楽章は「ベートーヴェンの交響曲第7番(第2楽章のアレグレット)を想起させる。」というくだりがあった。そう言えば、第1楽章のゆったりとした序奏は、ベートーヴェンの同曲の第1楽章の序奏を「想起させる」し、第3楽章の中間部(トリオ)は同曲の第3楽章のトリオを、また第4楽章の弾けるような開始は同曲の第4楽章の開始を「想起させる」。
この曲はベートーヴェンの交響曲第7番がモデルになっているのかもしれない。この時期、大曲を書く作曲家に変身しようとしていたシューベルトの、努力の痕跡かもしれない。
(2015.12.11.サントリーホール)
前半2曲はイギリスの音楽。1曲目はジェラルド・フィンジ(1901‐1956)の「クラリネットと弦楽のための協奏曲」。フィンジという作曲家は、数年前までは知らなかった。林田直樹氏のメルマガで初めて知った。
1949年の作品。急進的な前衛音楽の時代だが、その時代にこういう作品が書かれていたのかと驚くほど、穏やかで、抒情的な作品だ。世界は広いと思う。時代はけっして一色には染まらないものだと思う。広い世界のどこかでは、時代に流されずに自分の世界を守っている人がいるのだなと――。
クラリネット独奏は日本フィル首席奏者の伊藤寛隆。第1楽章ではヒヤリとすることがあったが、第2楽章からは安定した演奏になった。オーケストラは、イギリス音楽のスペシャリスト尾高忠明の指揮のもと、信頼に足る演奏を繰り広げた。
緩徐楽章の第2楽章が、弱音が完璧にコントロールされ、抒情的な音の世界に沈潜するような、例えて言うならイギリスの美しい田園地方の黄昏を見るような、そんな雰囲気のある名演になった。
2曲目はヴォーン・ウィリアムズの「バス・テューバと管弦楽のための協奏曲」。独奏は日本フィルのテューバ奏者、柳生和大。テューバの柔らかな、かつ存在感のある音を楽しんだ。
プログラム後半はシューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」。これも名演だった。音がよく整理されていた。尾高忠明の力量だろうが、もう一つは、日本フィルの弦に軽やかさがあり、先月客演したインキネンの余韻のようなものが感じられた。
オヤマダアツシ氏のプログラム・ノートに、第2楽章は「ベートーヴェンの交響曲第7番(第2楽章のアレグレット)を想起させる。」というくだりがあった。そう言えば、第1楽章のゆったりとした序奏は、ベートーヴェンの同曲の第1楽章の序奏を「想起させる」し、第3楽章の中間部(トリオ)は同曲の第3楽章のトリオを、また第4楽章の弾けるような開始は同曲の第4楽章の開始を「想起させる」。
この曲はベートーヴェンの交響曲第7番がモデルになっているのかもしれない。この時期、大曲を書く作曲家に変身しようとしていたシューベルトの、努力の痕跡かもしれない。
(2015.12.11.サントリーホール)