山田和樹はプレトークの中で「今年没後20年の武満徹は、私がやらなくても、いろんな方がやるけれど、同じ没後20年(そして生誕100年)の柴田南雄は、今年やらないと、今後やられなくなるのではないか、という危惧がある」という趣旨のことを話していた。来る11月7日の「ゆく河の流れは絶えずして」の演奏会(日本フィルと東京混声合唱団)をメインに据えて、意識的に柴田南雄の演奏を続けているようだ。
1曲目は柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」(1973)。以前、いつ、どこで聴いたか、記憶がはっきりしないし、実演だったか、放送だったかも、はっきりしないが、どこかで聴いたことがあることは確かな曲だ。
本当に久しぶりに聴いて、音楽が意外に古びていないと思った。確かに本人が語っているように(青澤唯夫氏のプログラム・ノートに引用)、点描、ト―ンクラスター、楽器を叩く、不確定性、その他の前衛手法の展示のような曲だが、そういった曲にありがちな「今聴くと古びた感じがする」ということが、この曲には不思議となかった。
なぜだろう。柴田南雄がそれらの手法を扱う手つきが、客観的かつ職人的なので、そこに一定の距離感があるからだろうか。その距離感が、今になってみると、プラスに作用しているのかもしれない。
もう一つは、山田和樹と日本フィルの演奏がよかったからでもあると思う。安定感があり、音が鮮明な演奏が、この曲を蘇らせたと思う。
2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。独唱はメゾソプラノの清水華澄。第1曲の「春」と第2曲の「9月」には硬さがあった。第3曲の「床につくまえに」の出だしでは、やっとほぐれてきたかと思ったが、終盤で声を張り上げる箇所では、もう少し余裕がほしかった。第4曲「夕映えに包まれて」は淡々としていた。
オーケストラはニュアンスに富んだ演奏を続けた。シュトラウスは山田和樹の資質に合っているのかもしれない。2014年9月の「ドン・キホーテ」も好演だった(蛇足ながら、その日のシェーンベルクの「浄められた夜」は名演だった)。
3曲目はエルガーの交響曲第1番。山田和樹とエルガーの組み合わせは意外な感じがしたが、オーケストラをバランスよく鳴らす素材として、エルガーは好適なのかもしれないと思った。山田和樹のバランス感覚と安定した造形性が発揮された演奏だった。
(2016.9.2.サントリーホール)
1曲目は柴田南雄の「コンソート・オブ・オーケストラ」(1973)。以前、いつ、どこで聴いたか、記憶がはっきりしないし、実演だったか、放送だったかも、はっきりしないが、どこかで聴いたことがあることは確かな曲だ。
本当に久しぶりに聴いて、音楽が意外に古びていないと思った。確かに本人が語っているように(青澤唯夫氏のプログラム・ノートに引用)、点描、ト―ンクラスター、楽器を叩く、不確定性、その他の前衛手法の展示のような曲だが、そういった曲にありがちな「今聴くと古びた感じがする」ということが、この曲には不思議となかった。
なぜだろう。柴田南雄がそれらの手法を扱う手つきが、客観的かつ職人的なので、そこに一定の距離感があるからだろうか。その距離感が、今になってみると、プラスに作用しているのかもしれない。
もう一つは、山田和樹と日本フィルの演奏がよかったからでもあると思う。安定感があり、音が鮮明な演奏が、この曲を蘇らせたと思う。
2曲目はリヒャルト・シュトラウスの「4つの最後の歌」。独唱はメゾソプラノの清水華澄。第1曲の「春」と第2曲の「9月」には硬さがあった。第3曲の「床につくまえに」の出だしでは、やっとほぐれてきたかと思ったが、終盤で声を張り上げる箇所では、もう少し余裕がほしかった。第4曲「夕映えに包まれて」は淡々としていた。
オーケストラはニュアンスに富んだ演奏を続けた。シュトラウスは山田和樹の資質に合っているのかもしれない。2014年9月の「ドン・キホーテ」も好演だった(蛇足ながら、その日のシェーンベルクの「浄められた夜」は名演だった)。
3曲目はエルガーの交響曲第1番。山田和樹とエルガーの組み合わせは意外な感じがしたが、オーケストラをバランスよく鳴らす素材として、エルガーは好適なのかもしれないと思った。山田和樹のバランス感覚と安定した造形性が発揮された演奏だった。
(2016.9.2.サントリーホール)