パーヴォ・ヤルヴィ/N響のAプロ定期。モーツァルトのピアノ協奏曲第27番(ピアノ独奏はラルス・フォークト)とブルックナーの交響曲第2番(1877年稿キャラガン版)というプログラム。
モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は、弦の編成が14型だった。ただ、14型とはいっても、朗々と鳴らすわけではなく、むしろ羽毛で撫でるような軽い弾き方。14型にしたのは、そういう軽い弾き方でも音が痩せないための配慮だったように思う。
第1楽章冒頭の弦による第1テーマが、羽が宙に舞うような曲線を描いて、レガートで演奏された。恰幅のよい演奏ではなく、また枯れた演奏でも、ピリオド奏法の尖った演奏でもない、パーヴォの一つの試みといった感じの演奏。
オーケストラは終始そのペースで進めたが、フォークトのピアノは、あえて音楽の流れに従うのを拒むかのように、細かく止めながら、頻出する陰影を克明に描いていた。パーヴォもフォークトも、ニュアンスの異なるお互いのスタイルを承知しあって、その絡み合いを企図したような演奏。
第2楽章の中間部をへてテーマが回帰する部分が、ピアノとフルート1本と第1ヴァイオリンのソロ(コンサートマスター)の3人で演奏された。ハッとした。ここはこうだったろうかと、帰宅後調べてみたら、国際モーツァルテウム財団の譜面には、第1ヴァイオリンのパートには、ソロの表示はないが、数小節後にトゥティの表示があるので、やはりソロだったようだ。
ブルックナーの交響曲第2番はわたしの大好きな曲だ。今回もこの曲には後のブルックナーのすべてがあるという感慨に浸ることができた。
それにしてもこれは名演だった。パーヴォがN響を完全に掌握し、パーヴォの意図が隅々まで浸透して、完璧に焦点の合った演奏だ。パーヴォが欧米の一流オーケストラを差置いてN響を選んだ理由が分かる気がした。
とくに第2楽章が胸に沁みた。喩えていうなら、夕暮れの丘陵が目に浮かぶような演奏だ。そこに佇むブルックナーの孤独な心象風景が感じられた。首席ホルンの福川さんのソロがさすがの安定感だった。結尾の手前に出てくる第1フルートと第1ヴァイオリンのソロの部分は、上記のモーツァルトの第2楽章の3人のソロと呼応しているようだ。パーヴォのことなので、そこまで計算しているのではないだろうか。
(2016.9.25.NHKホール)
モーツァルトのピアノ協奏曲第27番は、弦の編成が14型だった。ただ、14型とはいっても、朗々と鳴らすわけではなく、むしろ羽毛で撫でるような軽い弾き方。14型にしたのは、そういう軽い弾き方でも音が痩せないための配慮だったように思う。
第1楽章冒頭の弦による第1テーマが、羽が宙に舞うような曲線を描いて、レガートで演奏された。恰幅のよい演奏ではなく、また枯れた演奏でも、ピリオド奏法の尖った演奏でもない、パーヴォの一つの試みといった感じの演奏。
オーケストラは終始そのペースで進めたが、フォークトのピアノは、あえて音楽の流れに従うのを拒むかのように、細かく止めながら、頻出する陰影を克明に描いていた。パーヴォもフォークトも、ニュアンスの異なるお互いのスタイルを承知しあって、その絡み合いを企図したような演奏。
第2楽章の中間部をへてテーマが回帰する部分が、ピアノとフルート1本と第1ヴァイオリンのソロ(コンサートマスター)の3人で演奏された。ハッとした。ここはこうだったろうかと、帰宅後調べてみたら、国際モーツァルテウム財団の譜面には、第1ヴァイオリンのパートには、ソロの表示はないが、数小節後にトゥティの表示があるので、やはりソロだったようだ。
ブルックナーの交響曲第2番はわたしの大好きな曲だ。今回もこの曲には後のブルックナーのすべてがあるという感慨に浸ることができた。
それにしてもこれは名演だった。パーヴォがN響を完全に掌握し、パーヴォの意図が隅々まで浸透して、完璧に焦点の合った演奏だ。パーヴォが欧米の一流オーケストラを差置いてN響を選んだ理由が分かる気がした。
とくに第2楽章が胸に沁みた。喩えていうなら、夕暮れの丘陵が目に浮かぶような演奏だ。そこに佇むブルックナーの孤独な心象風景が感じられた。首席ホルンの福川さんのソロがさすがの安定感だった。結尾の手前に出てくる第1フルートと第1ヴァイオリンのソロの部分は、上記のモーツァルトの第2楽章の3人のソロと呼応しているようだ。パーヴォのことなので、そこまで計算しているのではないだろうか。
(2016.9.25.NHKホール)