Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カンブルラン/読響

2017年02月01日 | 音楽
 カンブルラン指揮読響によるメシアンの大作「彼方の閃光」。今秋演奏会形式で上演予定のメシアンのオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」のための準備かと思ったが、けっしてそんなものではなく、はっきりした目的意識を持つ演奏だった。

 いうまでもなく「彼方の閃光」はメシアンが完成させた最後の大作だ。わたしは‘奥の院’的なイメージを持っていた。一切の無駄がない枯れた世界‥。だが、それはそうだが、カンブルラン/読響の演奏を聴くと、音は明るく、リズムはしなやかで、感性のみずみずしさが失われていない。それが新鮮だった。

 驚くほど解像度の高い演奏だ。全11楽章からなるこの曲の、どこをとっても焦点が合っている。曖昧さは皆無だ。指揮者もオーケストラも明快なイメージを共有している。ものすごく高いレベルの演奏。そういう演奏ができるところまでカンブルラン/読響は来たのだと感慨深い。

 佐野光司氏のプログラムノートに、次のようなくだりがあった。「(この作品は:引用者注)前衛の時代の、響きの鋭い対立や厳しい対照性を避けて、内省的な次元に入っている。」。わたしは共感した。メシアンのこの最後の大作の本質に触れていると思った。

 メシアンにかぎらず、他の作曲家でもそうだが(また例えば文学者でも同じだが)、若い頃は、いや、壮年期までは、鋭く対立し、あるいはくっきりとした対照的なイメージを積み上げ、その対比の中から自分の言わんとするものを描いていく(芸術ならそれでいいが、言論や政治では厄介な場合がある)。

 だが、晩年になると、そのようなレトリックを捨て、ほんとうに自分の言いたいことをポツンと言うようになる人がいる。そうなる人をわたしは信頼する。メシアンもその一人だ。

 本作は、前述のとおり全11楽章で、演奏時間は約75分の大作だが、その一箇所一箇所にメシアンの飾り気のない言葉が聴こえたように思う。

 最後の第11楽章は弦楽合奏の(途切れがちな)長いモノローグ。弦は16型の大編成だが、この楽章では、例えばヴィオラは半数だけ、チェロは2本だけ、コントラバスは沈黙するという具合に、著しく高音の比重が高い。その音の彼方にトライアングルの音が微かに聴こえる。細い糸のように長く引く音。打音は聴こえてこない。あの音はどうやって出していたのだろう。
(2017.1.31.サントリーホール)
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