Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

沈黙―サイレンス―

2017年02月09日 | 映画
 遠藤周作の小説「沈黙」を読んだのはもう20年以上前だと思う。衝撃は大きかった。とくに宣教師ロドリゴが長崎に潜入してから捕えられるまでの前半部分が、イエスの受難と重ね合わせて描かれていることに驚き、作者の技巧と力量に圧倒された。

 でも、ほんとうに重要なのは後半部分だったかもしれないと、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙―サイレンス―」を観て思った。前半は、前史であって、後半、それも正確に言うと、ロドリゴと、イエスを売ったユダに重ね合わされているキチジローとが、各々の人生を終える終結部分にこそ、遠藤周作の思想(あるいはスコセッシ監督の解釈)が込められていると思った。

 終結部分になにが描かれているか。それをここに具体的に書くことは控えるが、まずキチジロー、最後にロドリゴの人生が終わるとき、イエスとユダとの関係にあった2人の距離は限りなく縮まる。2人は(最後には)そんなに違っていたわけではない。そこに一種の救いがあった。

 遠藤周作の小説にもこれは書かれていたのだろうか。恥ずかしながら、まったく記憶がない。たぶん読み落していたのだろう。でも、もしかすると、スコセッシ監督の独自の解釈だったかもしれない。遠藤周作の小説が手元にないので分からないが。

 イエスは殉教したが、ロドリゴは棄教した。では、ロドリゴは弱虫で卑怯か。またユダは、イエスが捕縛された後、自殺したが、キチジローはロドリゴを売った後も、ロドリゴに救いを求めた。キチジローは唾棄すべき人間か。

 殉教できる人、自殺できる人は、強い人だ。他の人はともかく、少なくともわたしはそんなに強くない。もっと弱い人間だ。でも、そんなわたしでも、なにかを秘めて生きることはできる。声に出しては言えない。行動に移すこともできない。でも、胸になにかを秘めていることはできる。それが遠藤周作の思想、あるいはスコセッシ監督が原作から引き出した思想だと思った。

 映画は大筋では原作を忠実になぞっている。細部を的確に押さえ、陰影があり、深みにも欠けていないのは、スコセッシ監督の読み込みの深さだろう。

 なお、松村禎三のオペラ「沈黙」があるが、あれは原作を簡略化し、一つのストーリーを抽出したものだ。その作り方はオペラとしては一般的で、かつ正しいとは思うが、小説とは別物だ。
(2017.2.7.TOHOシネマズ新宿)
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