Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

ミンコフスキ/都響

2017年07月11日 | 音楽
 2015年12月の都響の定期でブルックナーの交響曲第0番を振った演奏が名演だったミンコフスキが、今度は交響曲第3番を取り上げた。それも1873年初稿(ノヴァーク版)で。去る5月にロジェストヴェンスキが読響定期で振った交響曲第5番の‘シャルク版’とともに、今年前半のブルックナーの聴きものだ。

 交響曲第3番は、1889年第3稿だけではなく、1877年第2稿で演奏されることも多いが(5月の高関健/東京シティ・フィルもそうだった。ただし、第3楽章スケルツォのコーダはカットされた)、1873年初稿は珍しい。わたしは実演では初めて。

 第1楽章の出だしから、第2稿や第3稿で聴いている音の流れとは違う。次はこうなるという予測が、よい意味で裏切られる。予定調和的な聴き方ができない。それが新鮮でもあった。

 話の順序としては、ブルックナーはまず初稿を書いてから、第2稿、第3稿と書き改めたわけだが、第2稿や第3稿をすでに聴いている者としては、あちこちでつかえながら、頭の中で第2稿、第3稿を予感した。

 そして、なんといっても、第1楽章の展開部の最後(再現部の直前)に出てくる弦の最弱音の部分(ワーグナーの「ワルキューレ」から「眠りの動機」の引用の部分)には、やはりハッとした。しかもミンコフスキの共感のこもった指揮のためか、それはことさらに‘引用’という感じがせず、音楽の自然な流れの中に収まっていた。たとえていうなら、森の中を歩いていて、小さな池に出くわしたような感じだった。

 ブルックナーは第2稿、第3稿ではワーグナーからの引用をすべて消去した。それはなぜだろう、ということにも興味が向いた。素直に考えれば、ブルックナーが自己の様式を確立する過程で、様式的な齟齬が生じたから、ということになるだろうが、それで十分に説明がつくのかどうか。

 ミンコフスキ/都響の演奏は見事だった。リズムに弾力性があり、音色には艶があり、集中力が途切れず、全体として流動性豊かな演奏だった。わたしが今まで聴いたブルックナーの中でももっとも面白い演奏の一つだった。

 プログラムの1曲目にはハイドンの交響曲第102番が演奏された。弦の配置が1st Vn.‐Vla.‐Vc./Cb.‐2nd Vn.の順だったので(ブルックナーも同様)、第2ヴァイオリンの動きがよく分かり、ハイドンを聴く楽しさが増した。
(2017.7.10.東京文化会館)
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