Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

佐多稲子「樹影」

2018年01月07日 | 読書
 わたしは昨年11月に長崎県美術館を訪れたとき、池野清(1914‐1960)という画家の遺作2点に感銘を受けた。そして池野清と面識のあった作家の佐多稲子が、それらの遺作に触発されて、短編小説「色のない画」を書き、また後年、長編小説「樹影」を書いたことを知った。わたしはまず「色のない画」を読み、引き続き「樹影」も読んでみた。

 「樹影」は、それらの遺作が生まれるまでのドラマを書いたもの。作中では池野清だけではなく、その愛人(愛人という言葉は、手垢にまみれた言葉なので、本当は使いたくないが、今はとっさに別の言葉が思い浮かばない)も、同等の重さで書かれている。池野清と愛人との、二人それぞれのドラマ。

 佐多稲子は二人と面識があった。一方、池野清の本妻とは面識がなかったようだ。そのためなのかどうなのか、本作では本妻の影が薄い。実生活では池野清の家庭は崩壊していたかもしれないが、それは仄めかされる程度。佐多稲子の不幸な生い立ちと結婚生活とを考えると、不思議な気もするが、むしろ佐多稲子は、明確な意思をもって、池野清とその愛人とに集中したと考えたほうがよいだろう。

 執筆の動機は、池野清の遺作2点にあったと思うが、その愛人の華僑としての人生にも、佐多稲子の想像力は掻き立てられただろう。そして、被爆者という二人の共通項が、本作の構想につながったようだ。

 本作では、ドラマの背景として、長崎への原爆投下の直後の日々、人々が打ちのめされて、立ち直れなかった日々、そして10年あまりたって、被爆の現実を直視するに至る日々が描かれる。本作は、原爆で亡くなった人々、そして後遺症に苦しむ人々に想いを寄せた作品でもある。

 ドラマのディテールは、綿密な取材を踏まえてはいるだろうが、基本的には、佐多稲子の作家的な想像力が産み出したものと考えたほうがよい。だが、そこには、有無をいわせない迫真性があるので、わたしは今後、池野清の遺作2点を見るときは、本作を想い出すだろう。

 池野清をモデルとする画家は、原爆の後遺症と思われる病で壮絶な死をとげる。一方、その愛人をモデルとする華僑の女性は、原爆の後遺症と思われる病で、ひっそりと亡くなる。その対照に小説的なうまさを感じる。

 わたしは佐多稲子を読み始めたばかりなので、断言はできないが、自分のことを書いた作品が多い中にあって、本作は特異な位置を占める作品かもしれない。
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