昨日は午後、用事があって外出したのだが、用事が終わって夜までの時間が空いてしまったので(夜には友人たちとの集まりがあった)、さて、どうやって時間をつぶそうかと思案し、国立新美術館の「ブダペスト」展に行ってみた。会場に着くと、幸いあまり混んでいなくて、落ち着いて見ることができた。
第一印象は、作品数が多いということだった。全部で130点。普通の展覧会の倍くらいある。行けども、行けども、まだあるというのが実感だった。それらの作品が年代順・国別に並んでいる。ちょうどヨーロッパのどこかの美術館に行って、そこの作品を見るときに似た感じがした。本展の作品はブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーから来ている。日本とハンガリーの外交関係開設150周年を記念した展覧会だが、たしかにそういう機会でないと、これほどの規模は難しいだろう。
印象に残った作品を語りだすときりがないが、クラーナハ(父)、ティツィアーノ、エル・グレコなどの巨匠たちの作品はさておき、ハンガリーの美術館から来ている作品群なので、どうしてもハンガリーの画家たちに関心が向く。
チラシ(↑)に使われている作品は、シニェイ・メルシェ・パール(1845‐1920)の「紫のドレスの婦人」(1874年)。画家の名前も作品も初めて目にするが、本展のメインイメージに使われているように、だれにでも好感を持たれる作品だろう。実際に見ると、ドレスの紫色と同じくらいに、草原のタンポポの黄色が印象的だ。「ハンガリーのモナリザ」といわれるそうだが、それも頷ける。
パールの作品は他にも来ているが、アッと驚いたのは「ヒバリ」(1882年)だ。草原に裸婦が横たわっている。空には白い雲が浮かんでいる。そこに一羽のヒバリが舞っている。裸婦はそのヒバリを見上げている。でも、なぜ裸で? シュールな現代美術のようにも見える作品で、パールという画家は一筋縄ではいかないと思った。
個人的にはフェレンツィ・カーロイ(1862‐1917)という画家の「小川Ⅱ」(1907年)が気に入った。草原の木立の生い茂る一角に小川が流れている。澄んだ水と河原の小石に明るい陽光が降り注ぐ。手前の草の上には白い帽子と白い上着が脱ぎ捨てられている。たぶん画家のものだろう。画家はそれらの帽子と上着を脱いで、この風景を描いている。陽光の強さがフェリックス・ヴァロットン(1865‐1925)を想わせる。
カーロイの作品もいくつか来ている。その中の「オルフェウス」(1894年)は憂鬱な雰囲気の象徴主義的な作品だ。カーロイも一面的には捉えられない画家のようだ。
(2020.2.13.国立新美術館)
第一印象は、作品数が多いということだった。全部で130点。普通の展覧会の倍くらいある。行けども、行けども、まだあるというのが実感だった。それらの作品が年代順・国別に並んでいる。ちょうどヨーロッパのどこかの美術館に行って、そこの作品を見るときに似た感じがした。本展の作品はブダペスト国立西洋美術館とハンガリー・ナショナル・ギャラリーから来ている。日本とハンガリーの外交関係開設150周年を記念した展覧会だが、たしかにそういう機会でないと、これほどの規模は難しいだろう。
印象に残った作品を語りだすときりがないが、クラーナハ(父)、ティツィアーノ、エル・グレコなどの巨匠たちの作品はさておき、ハンガリーの美術館から来ている作品群なので、どうしてもハンガリーの画家たちに関心が向く。
チラシ(↑)に使われている作品は、シニェイ・メルシェ・パール(1845‐1920)の「紫のドレスの婦人」(1874年)。画家の名前も作品も初めて目にするが、本展のメインイメージに使われているように、だれにでも好感を持たれる作品だろう。実際に見ると、ドレスの紫色と同じくらいに、草原のタンポポの黄色が印象的だ。「ハンガリーのモナリザ」といわれるそうだが、それも頷ける。
パールの作品は他にも来ているが、アッと驚いたのは「ヒバリ」(1882年)だ。草原に裸婦が横たわっている。空には白い雲が浮かんでいる。そこに一羽のヒバリが舞っている。裸婦はそのヒバリを見上げている。でも、なぜ裸で? シュールな現代美術のようにも見える作品で、パールという画家は一筋縄ではいかないと思った。
個人的にはフェレンツィ・カーロイ(1862‐1917)という画家の「小川Ⅱ」(1907年)が気に入った。草原の木立の生い茂る一角に小川が流れている。澄んだ水と河原の小石に明るい陽光が降り注ぐ。手前の草の上には白い帽子と白い上着が脱ぎ捨てられている。たぶん画家のものだろう。画家はそれらの帽子と上着を脱いで、この風景を描いている。陽光の強さがフェリックス・ヴァロットン(1865‐1925)を想わせる。
カーロイの作品もいくつか来ている。その中の「オルフェウス」(1894年)は憂鬱な雰囲気の象徴主義的な作品だ。カーロイも一面的には捉えられない画家のようだ。
(2020.2.13.国立新美術館)