Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

プリーモ・レーヴィ「溺れるものと救われるもの」

2020年02月11日 | 読書
 イタリアの化学者・作家のプリーモ・レーヴィ(1919‐1987)の「溺れるものと救われるもの」を再読した。初めて読んだのは12年前だ。そのときはアウシュヴィッツ強制収容所の生き残りである作者の、その綿密な思考とアウシュヴィッツの実態に圧倒された。わたしは衝撃からさめないまま、当時手に入るレーヴィの著作をすべて読んだ。それ以来レーヴィはわたしのもっとも大事な作家の一人になった。

 レーヴィの生涯をざっと振り返ると、レーヴィは1919年7月にイタリアのトリノで生まれた。ユダヤ人の家系だった。トリノ大学では化学を専攻した。1943年9月にドイツ軍がイタリアを占領したため、レーヴィは同年10月にレジスタンス活動に加わった。同年12月に捕らえられ、翌年2月にアウシュヴィッツ強制収容所に送られた。

 1945年1月にアウシュヴィッツ強制収容所がソ連によって解放され、レーヴィは同年10月にイタリアに帰国した。帰国後は化学者として働きながら、アウシュヴィッツ強制収容所での体験を書き始め、1947年10月に「これが人間か」(日本語版の副題は「アウシュヴィッツは終わらない」)を出版した。その後は化学者の仕事をしながら執筆活動を続け、1986年4月に最後の著書「溺れるものと救われるもの」を出版した。翌年4月に自宅のあるアパートの4階から飛び降りて亡くなった。

 「溺れるものと救われるもの」は、戦後ずっとアウシュヴィッツ強制収容所での体験を考え続けた著者の、その思考のエッセンスといったらいいか、煮詰められ、蒸留された結晶のようなものだ。前述のように、わたしは12年ぶりに読み返したが、言葉の一つひとつが新鮮だった。実感的にいえば、初めて読んだときのように感動した。

 では、何に感動したのか。強制収容所という極限状態であらわれる人間の本質、あさましく、エゴイズムの塊である人間の本質(それに感動したというのも変な話だが、むき出しの裸形を見たという意味でその言葉を使いたい)、そしてもう一つは、そういった人間の本質を観察し、「単純化」(本書の第2章「灰色の領域」での言葉)せずに、その複雑さを複雑さのまま受け止め、「だれも彼らを裁く権利はない」(同)とする著者の姿勢に、だ。その姿勢をわたしは生涯をかけて学びたいと思う。

 本書の白眉は第2章「灰色の領域」にあると思うが、第3章「恥辱」と第5章「無益な暴力」でも驚くべき思考が展開される。そこでの「恥辱」とか「無益な暴力」とかの言葉で考察される意味内容の深さと微妙さはわたしを震撼させる。

 また、本書は全8章からなるが、前回はあまり印象に残らなかった第6章「アウシュヴィッツの知識人」以下の各章も、今回はレーヴィの自死との関連で興味深かった。
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