Enoの音楽日記

オペラ、コンサートを中心に、日々の感想を記します。

カーチュン・ウォン/日本フィル

2022年05月28日 | 音楽
 カーチュン・ウォン指揮の日本フィル。1曲目は伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」。ピアノ独奏は務川慧悟(むかわ・けいご)。照度が高くてカラフルで、桁外れのエネルギーが放射される演奏だ。伊福部昭の作品は今までいろいろな演奏を聴いてきたが、その枠を超える新時代の演奏という気がする。カーチュン・ウォンの全身から発散するリズムと日本フィルの燃焼、そして務川慧悟の叩きだす音の総和が、わたしの経験値を超える演奏を出現させた。

 務川慧悟は期待の若手だ。アンコールにバッハのフランス組曲第5番から第1曲「アルマンド」が演奏された。安定走行の高性能な車のような、運動性の高い演奏だった。伊福部昭の熱狂的な演奏と、バッハの安定した演奏と、たぶん他にもさまざまな可能性を秘めたピアニストなのだろう。

 2曲目はマーラーの交響曲第4番。第1楽章と第2楽章に微細に施されたアゴーギクは驚嘆すべきものだった。カーチュン・ウォンはプレトークで往年の大指揮者(だが、近年は古いスタイルと思われている)メンゲルベルクの名前を出していた。もちろんメンゲルベルクを踏襲するつもりはないだろう。わたしたちもその名にとらわれる必要はないだろう。だが、少なくともこの演奏は、巷間あふれる素直にサラッと流す演奏ではなかった。カーチュン・ウォンとしても、わたしがこれまで聴いてきた日本フィル、読響、都響などとの演奏では見かけなかったものだ。

 第3楽章は一転してアゴーギクをかけずに、透徹した音楽のラインを浮き上がらせる演奏だった。静謐の美学といったらよいか。第1楽章と第2楽章で散見されたニュアンスの強調も影をひそめ、細心の注意を払った音が紡がれた。

 第4楽章は起伏に富んだ演奏だったが、第3楽章を経過したためか、第1楽章や第2楽章のような濃厚な表情付けとは異なる性格のものだった。ソプラノ独唱の三宅理恵は、声が通らない部分はあったが、全体としてはこの曲が、子どもがうたう歌(貧しくて、空腹を抱えた子どもがうたう歌)であることを感じさせる声質だった。

 わたしは上述のように、第1楽章と第2楽章では仰天したが、それにもかかわらず、演奏全体からは今までカーチュン・ウォンに感じてきたポジティブ思考を感じた。それがカーチュン・ウォンの最大の魅力だと思う。どんなときにも(かつ、どんな曲でも)ポジティブだ。その人間性が演奏に表れ、聴衆に伝わる。くわえて、音色の明るさとリズムの切れがある。さらに音楽の構成が明瞭だ。ラザレフ、インキネンと続いてきた日本フィルの新時代が始まろうとしているようだ。
(2022.5.27.サントリーホール)

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