オペラ「紫苑物語」の公演が終わり、喧々諤々の議論も収まってきたようだ。わたしは初日と二日目を観て、その都度感想を書いたので、これ以上は蛇足になるのだが、その割に自分の中には何かわだかまりが残っている。それを決着させるために、あえて一言だけ書いておきたい。
今回の新作オペラについて、もっとも非難が集中している点は、台本のように見える。いわく、「平太」が2度登場せず、最後に登場するだけ、またいわく、石川淳の美しい文体を損なう語句を他から持ってきている等々と。どの意見にも一理あるかもしれないが、あまり決定的なものとも思えない。
わたしはそれらの議論に加わる気はないが、少し違う観点から、次のことはいっておきたい。今回の制作チーム(長木誠司、西村朗、佐々木幹郎、大野和士という現代日本のもっともクリエイティヴな人たちが集まったチームだと思う)が石川淳の原作に読み取った「芸術家の一生」というテーマは、わたしにはやはり違和感があったと。
わたしは、昨年の今頃、新国立劇場の年間プログラムが発表されて、新作オペラ「紫苑物語」の初演を知ったときから、石川淳の作品を読み始めた。それも初期作品の「佳人」、「普賢」から始まって「紫苑物語」に至るまでの作品を読んだ。また石川淳の周辺にいた坂口安吾の作品もまとめて読んだ。
とりわけ「紫苑物語」は3度読んだ。その中でわたしがつかんだテーマは、ある不条理な衝動に突き動かされて悪(=破滅)に向かって進む魂のあり方だ。そんな「宗頼」の行動を説明することなどできない。それを解釈しようなんて無理だ。一の矢、二の矢、三の矢などは、石川淳が仕掛けた謎かけみたいなもので、それに足をすくわれる必要はないと思った。
わたしは新作オペラが「悪」をテーマとするオペラになるだろうと思った。既存のオペラの中で悪がテーマのオペラとなると、まず思い浮かぶのはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」だ。もう一つ、モンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」も思い浮かぶが、あれは悪が成就するので、「紫苑物語」の先行例としては具合が悪い、などと考えて楽しんだ。
むしろわたしがもっとも期待したのは、歌舞伎の「悪の美学」の系譜に連なる作品だった。たとえば東海道四谷怪談の民谷伊右衛門がその典型だが、それにかぎらず、歌舞伎の世界には「悪の美学」を体現する登場人物が散見される。それに連なるヒーローの創造を期待したが、それは「芸術家の一生」というテーマに回収されてしまった。
結局、「悪の美学」に連なるオペラは、見果てぬ夢に終わった。
今回の新作オペラについて、もっとも非難が集中している点は、台本のように見える。いわく、「平太」が2度登場せず、最後に登場するだけ、またいわく、石川淳の美しい文体を損なう語句を他から持ってきている等々と。どの意見にも一理あるかもしれないが、あまり決定的なものとも思えない。
わたしはそれらの議論に加わる気はないが、少し違う観点から、次のことはいっておきたい。今回の制作チーム(長木誠司、西村朗、佐々木幹郎、大野和士という現代日本のもっともクリエイティヴな人たちが集まったチームだと思う)が石川淳の原作に読み取った「芸術家の一生」というテーマは、わたしにはやはり違和感があったと。
わたしは、昨年の今頃、新国立劇場の年間プログラムが発表されて、新作オペラ「紫苑物語」の初演を知ったときから、石川淳の作品を読み始めた。それも初期作品の「佳人」、「普賢」から始まって「紫苑物語」に至るまでの作品を読んだ。また石川淳の周辺にいた坂口安吾の作品もまとめて読んだ。
とりわけ「紫苑物語」は3度読んだ。その中でわたしがつかんだテーマは、ある不条理な衝動に突き動かされて悪(=破滅)に向かって進む魂のあり方だ。そんな「宗頼」の行動を説明することなどできない。それを解釈しようなんて無理だ。一の矢、二の矢、三の矢などは、石川淳が仕掛けた謎かけみたいなもので、それに足をすくわれる必要はないと思った。
わたしは新作オペラが「悪」をテーマとするオペラになるだろうと思った。既存のオペラの中で悪がテーマのオペラとなると、まず思い浮かぶのはモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」だ。もう一つ、モンテヴェルディの「ポッペアの戴冠」も思い浮かぶが、あれは悪が成就するので、「紫苑物語」の先行例としては具合が悪い、などと考えて楽しんだ。
むしろわたしがもっとも期待したのは、歌舞伎の「悪の美学」の系譜に連なる作品だった。たとえば東海道四谷怪談の民谷伊右衛門がその典型だが、それにかぎらず、歌舞伎の世界には「悪の美学」を体現する登場人物が散見される。それに連なるヒーローの創造を期待したが、それは「芸術家の一生」というテーマに回収されてしまった。
結局、「悪の美学」に連なるオペラは、見果てぬ夢に終わった。