平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

キャリー 究極の絶望

2010年01月07日 | 洋画
 人が絶望するとはこういうことを言うのだろう。

 学園で気持ち悪がれて疎外されているキャリー。
 今で言ういじめ。
 そんなキャリーが究極のいじめにあう。
 アメリカ映画ではよく出て来るハイスクールのプラムパーティ。
 そこでキャリーはプラムクイーンに選ばれるが、それは仕組まれた罠。
 クイーンとして祝福され歓びの絶頂のキャリーにバケツいっぱいの豚の血が降ってくる。
 皆に大笑いされるされるキャリー。
 怒りのキャリーは念動力で(彼女は実は超能力者)、パーティ会場を火の海にして笑う学校の仲間を死に追いやる。

 ここまでなら通常のホラー映画だが、スティーヴン・キング原作のこの作品はそこで留まらない。
 豚の血だらけになって家に帰ったキャリーは母親に救いを求めるが、キリスト教狂信者の母親は浮かれたパーティなどに出たキャリーを汚れた存在として憎み、その背中に包丁を突き立てる。
 階段を転げ落ちて逃げるキャリー。
 唯一の帰る場所であった母親のもとで、このような仕打ちを受けてキャリーの気持ちはどの様なものだったろう。
 すべての人間から嫌われ憎まれ、居場所がないキャリー。
 
 彼女の絶望はさらに続く。
 キャリーは超能力で刃物で追ってくる母親を殺してしまうのだ。
 身を守るためとはいえ、愛している実の母親を殺してしまうこと。
 これこそが究極の絶望だろう。
 外部の敵なら許したり、自分を信じたりすればまだ生きられる。
 だが自分自身が憎むべき存在になってしまったら……。
 母親を殺したことでキャリーは自分を憎んだ。
 怒りに身を任せ、罪を犯してしまった自分を怖れ、信じられなくなった。
 こんな状態になってしまったキャリーに残された道は……<死>しかない。

 怖くせつない物語だ。
 それはキングがキャリーを突きつめて描いているからだ。
 どんな物語でも突きつめていくと、人間の孤独、どうしようもない絶望に繋がる。
 日本ではホラー作品が映画・小説とももてはやされているが、ただ怖いだけではダメだ。
 怖さを突きつめて人間の孤独を描かねばならない。
 その点でこの作品はモデルとなる作品。
 映像だけしか見ていないので、キングが文章でどう表現してるかは興味深い。

 なお、この作品の監督はブライアン・デパルマ。
 製作が1976年というから30年以上も前の作品だが、全然古さを感じない。
 特に包丁をふりかざして追ってくるキャリーの母親の映像は秀逸。
 キャリー視点で煽りで狂気の母親が描かれる。
 プラムパーティでキャリーの超能力が爆発するシーンも当時としては珍しい画面分割。
 目を大きく見開いた血だらけのキャリーの形相もすごい。
 ホラー映画の名作である。


コメント
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