東大封鎖など、学生運動はなやかなりし頃の高校生の一日が描かれる。
文体は「ぼく」で語られる饒舌な一人称文体。
主人公の「ぼく」の物事のとらえ方が面白く、独特のユーモアがある。
たとえば冒頭の書き出しはこんなふう。
ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。もちろん、ぼくには(どなるわけじゃないが)やましいところはないし、出て来る母親たちに悪気があるわけじゃない。それどころか彼女たちは(キャラメルはくれないまでも)まるで巨大なシャンパンのびんみたいに好意に溢れていて、まごまごしているとぼくを頭から泡だらけにしてしまうほどだ。
さて、こんな主人公のぼく。
自分が将来どう生きるか、迷っている。
学生運動に身を投じることも出来るし、体制側にまわり企業に勤め平凡な人生を送ることも出来る。
あるいは友人の小林のようにそのどちらにも属さない世捨て人のような生活も出来る。
主人公の<ぼく>は学区制が布かれる前の名門・日比谷高校の学生で、頭がよく、ある意味どのようにも生きられる器用さを持っているのだ。
そんな主人公は答えを求めて、時に苛立ち、街をさまよう。
そして彼がたどりついた結論はなにか?
それはいかに生きるかなんて悩みは実は他愛もないことであるということ。
ぼくの悩みは小さな女の子にツメをはがした足を踏まれ痛がり、女の子に「大丈夫?」と心配されることで霧散してしまう。
ケンカをしていたガールフレンドの由美と仲直りしただけで、今までの悩みなど吹っ飛んで楽しい気持ちになってしまう。
あるいはきれいな女医さんに誘惑されただけで頭の中からあっという間に消えてしまう。
人生の悩みなんてそんなものなのだ。
今まですべてにネガティブだったぼくはラスト、ガールフレンドの由美と歩きながらこんなふうに思う。
ぼくには突然ぼくのようにぼくが考えていることが分かった。ぼくは溢れるような思いで自分に言い聞かせていたのだ。ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。その中では、この由美のやつがもうなにも気を使ったり心配したり嵐を怖れたりしないで、無邪気にお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたり出来るような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。
ついに自分を見出したぼく?
もっともこの点についても作者はクールだ。
ぼくの「海のようになりたい」という思いは一時期の酔いであり、日が経ったり由美とケンカしたりしたらまた霧散してしまうものであることを余韻として描いている。
人は他愛もないことに振りまわされ、ふらふらして生きていく。
そんな所が一番確かなこと、日常を生きるということなのかもしれない。
文体は「ぼく」で語られる饒舌な一人称文体。
主人公の「ぼく」の物事のとらえ方が面白く、独特のユーモアがある。
たとえば冒頭の書き出しはこんなふう。
ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。もちろん、ぼくには(どなるわけじゃないが)やましいところはないし、出て来る母親たちに悪気があるわけじゃない。それどころか彼女たちは(キャラメルはくれないまでも)まるで巨大なシャンパンのびんみたいに好意に溢れていて、まごまごしているとぼくを頭から泡だらけにしてしまうほどだ。
さて、こんな主人公のぼく。
自分が将来どう生きるか、迷っている。
学生運動に身を投じることも出来るし、体制側にまわり企業に勤め平凡な人生を送ることも出来る。
あるいは友人の小林のようにそのどちらにも属さない世捨て人のような生活も出来る。
主人公の<ぼく>は学区制が布かれる前の名門・日比谷高校の学生で、頭がよく、ある意味どのようにも生きられる器用さを持っているのだ。
そんな主人公は答えを求めて、時に苛立ち、街をさまよう。
そして彼がたどりついた結論はなにか?
それはいかに生きるかなんて悩みは実は他愛もないことであるということ。
ぼくの悩みは小さな女の子にツメをはがした足を踏まれ痛がり、女の子に「大丈夫?」と心配されることで霧散してしまう。
ケンカをしていたガールフレンドの由美と仲直りしただけで、今までの悩みなど吹っ飛んで楽しい気持ちになってしまう。
あるいはきれいな女医さんに誘惑されただけで頭の中からあっという間に消えてしまう。
人生の悩みなんてそんなものなのだ。
今まですべてにネガティブだったぼくはラスト、ガールフレンドの由美と歩きながらこんなふうに思う。
ぼくには突然ぼくのようにぼくが考えていることが分かった。ぼくは溢れるような思いで自分に言い聞かせていたのだ。ぼくは海のような男になろう、あの大きな大きなそしてやさしい海のような男に。その中では、この由美のやつがもうなにも気を使ったり心配したり嵐を怖れたりしないで、無邪気にお魚みたいに楽しく泳いだりはしゃいだり暴れたり出来るような、そんな大きくて深くてやさしい海のような男になろう。
ついに自分を見出したぼく?
もっともこの点についても作者はクールだ。
ぼくの「海のようになりたい」という思いは一時期の酔いであり、日が経ったり由美とケンカしたりしたらまた霧散してしまうものであることを余韻として描いている。
人は他愛もないことに振りまわされ、ふらふらして生きていく。
そんな所が一番確かなこと、日常を生きるということなのかもしれない。