龍馬(福山雅治)はまわりの人間に影響を与えていく。
武市半平太(大森南朋)、弥太郎(香川照之)……。
龍馬本人は試行錯誤しているだけで極めて自然体なんですけどね。
まわりが意識してしまうみたいだ。
そして今回は千葉道場の佐那(貫地谷しほり)。
この作品では佐那を剣道一筋の頑なな人間として描いた。
「楽しいご家族ね」のひと言が効いている。
そんな佐那の心を開いたのが龍馬。
太鼓の稽古で佐那を笑わせた。
龍馬には人の心を明るくする天性のものがある。
これは生まれついたもので、たとえば武市や弥太郎がそのようになりたくでも出来ないこと。
だから彼らは龍馬を意識してしまう。
さて佐那。
龍馬との関わりの中で、自分の中の<女>を意識してしまったようだ。
笑わせた一件だけで、そうなってしまったのは言葉不足の感じがするが、この作品、結構駆け足。溝渕と未知の場所に行くエピソードなどは後回しにして、佐那との関わりをもう少し描いてもよかった気がするし、禅問答に似た父・千葉定吉(里見浩太朗)とのやりとり、「お前に坂本殿は斬れぬ」もあまり佐那の気持ちを表しているように思えない。
この辺はもったいない。もっと描き込みがあってもよかった。
さて話を戻すと、女を意識してしまった佐那は「なぜ自分は女に生まれてきてしまったのか」と自分の気持ちを龍馬に吐露する。
自分の性を否定することで、自分の中にうずまく<女>を否定しようとしているかのようだ。
「女に生まれて来なければ、こんな気持ちに悩まなくて済むのに」と叫んでいるかのようだ。
それに対して龍馬。
「なぜ、そのようなことを言われます? お佐那様には他のおなごにないお佐那様だけの凛々しさがあります。それはとてもまぶしい」
佐那の性を肯定し、佐那本人も肯定する。
龍馬は<肯定>の人なのだ。
ひとりひとりの個性を大事にし、それを愛する人なのだ。
本当に大きくやさしい。
これが佐那のせりふ「あなたは強い。強すぎるのです」に通じる。
本人は気づいていないだろうが、そんな大きなやさしさが龍馬にはある。
これが武市なら「おなごはおなごらしくいればいい」と佐那をおなごの枠にはめてしまいそう。
今回の佐那とのやりとりは結構深いと思うが、少し説明不足なのが残念。
というのは僕はかなり佐那という女性に思い入れがありまして。
今後どう描かれるか楽しみ。
さな子との出会いについてはこちらもご覧下さい。
竜馬がいく 龍馬は恋愛の達人である
武市半平太(大森南朋)、弥太郎(香川照之)……。
龍馬本人は試行錯誤しているだけで極めて自然体なんですけどね。
まわりが意識してしまうみたいだ。
そして今回は千葉道場の佐那(貫地谷しほり)。
この作品では佐那を剣道一筋の頑なな人間として描いた。
「楽しいご家族ね」のひと言が効いている。
そんな佐那の心を開いたのが龍馬。
太鼓の稽古で佐那を笑わせた。
龍馬には人の心を明るくする天性のものがある。
これは生まれついたもので、たとえば武市や弥太郎がそのようになりたくでも出来ないこと。
だから彼らは龍馬を意識してしまう。
さて佐那。
龍馬との関わりの中で、自分の中の<女>を意識してしまったようだ。
笑わせた一件だけで、そうなってしまったのは言葉不足の感じがするが、この作品、結構駆け足。溝渕と未知の場所に行くエピソードなどは後回しにして、佐那との関わりをもう少し描いてもよかった気がするし、禅問答に似た父・千葉定吉(里見浩太朗)とのやりとり、「お前に坂本殿は斬れぬ」もあまり佐那の気持ちを表しているように思えない。
この辺はもったいない。もっと描き込みがあってもよかった。
さて話を戻すと、女を意識してしまった佐那は「なぜ自分は女に生まれてきてしまったのか」と自分の気持ちを龍馬に吐露する。
自分の性を否定することで、自分の中にうずまく<女>を否定しようとしているかのようだ。
「女に生まれて来なければ、こんな気持ちに悩まなくて済むのに」と叫んでいるかのようだ。
それに対して龍馬。
「なぜ、そのようなことを言われます? お佐那様には他のおなごにないお佐那様だけの凛々しさがあります。それはとてもまぶしい」
佐那の性を肯定し、佐那本人も肯定する。
龍馬は<肯定>の人なのだ。
ひとりひとりの個性を大事にし、それを愛する人なのだ。
本当に大きくやさしい。
これが佐那のせりふ「あなたは強い。強すぎるのです」に通じる。
本人は気づいていないだろうが、そんな大きなやさしさが龍馬にはある。
これが武市なら「おなごはおなごらしくいればいい」と佐那をおなごの枠にはめてしまいそう。
今回の佐那とのやりとりは結構深いと思うが、少し説明不足なのが残念。
というのは僕はかなり佐那という女性に思い入れがありまして。
今後どう描かれるか楽しみ。
さな子との出会いについてはこちらもご覧下さい。
竜馬がいく 龍馬は恋愛の達人である