平成エンタメ研究所

最近は政治ブログのようになって来ました。世を憂う日々。悪くなっていく社会にひと言。

八重の桜 第27回「包囲網を突破せよ」~今、恭順・開城せねば、会津の民は根絶やしにされる!

2013年07月08日 | 大河ドラマ・時代劇
 <勇気>とは何だろうか?
 僕は、頼母(西田敏行)こそ<勇気>の持ち主だと考えてしまう。
 皆が徹底して戦うことを主張する中、頼母は言う。
「このいくさに出口はねえ! 今、恭順・開城せねば会津の民は根絶やしにされる!」
 言えば、当然、批判されるだろう。
 戦っている者にとっては士気を削ぐ発言。
 軽蔑もされる。
 それでも敢えて言う。
 いくさ場で死ぬことは勇ましいことであろう。
 しかし、皆が同じ方向を向いている時、違っているんじゃないかと言えることも勇ましい。

 この頼母の発言に対し、容保(綾野剛)は「事ここに至っては開城・恭順の道はない」
 そして家老の頼母に伝令の役割を与えるという最大の屈辱。
 今まで聡明な人物として描かれてきた容保像が方向転換?
 それとも、これを命じた容保に何らかの意図があるのか?

 その他、今回はいくつかのエピソードが描かれる。

 中野竹子(黒木メイサ)の死。「お城に戻ったら、八重さんに鉄砲を教えてもらいましょう」
 神保雪子(芦名星)の自決。「三途の川を渡る時は誰それの妻と堂々と名乗りや」→「神保修理の妻・雪」と言って自決。
 これらの悲劇の背景には、佐川官兵衛(中村獅童)が言った「女子供に至るまで城を枕にして討ち死にするのみ!」という言葉がある。
 当時の価値観であったとはいえ、現代人の価値観を持ち、その後の歴史を知っている僕としては、違和感を感じてしまう。
 頼母には感情移入できても、彼らにはイマイチ出来ない。

 感情移入できないと言えば、ラストの山川大蔵(玉山鉄二)の彼岸獅子の無血入城のエピソードも。
 官軍を出し抜いた爽快なエピソードなのだが、結局は、好戦派に油を注ぎ、恭順・開城を遠のかせてしまった行為でもある。
 恭順・開城を遠のかせてしまったと言えば、八重(綾瀬はるか)が鉄砲で抗戦する行為も。
 大切なものを守りたいという気持ちや、降ってかかった理不尽さに対する怒りみたいなことはわかるんですけどね。
 しかし、その代償はあまりにも大きすぎた。
 だが、一方で、たとえば、現在の<自由>や<民主主義>を害する勢力が現れたら、それらを守るために僕は、非常にちっぽけな力ですが、闘うと思うんですよね。
 横暴で理不尽な行為を受けたら怒ると思うし。

 何だか何を書こうとしているのかわからなくなってきましたが、人の考え方なんて矛盾だらけで、こういう混乱こそが『八重の桜』という作品なのでしょうね。


コメント (8)
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みんな!エスパーだよ! 最終回~作品が描いているいくつかのテーマについて

2013年07月06日 | 学園・青春ドラマ
 最終回に近づくに従って、よくわからなくなってきましたね。
 完全に監督・園子温テイスト。

 この作品はいくつかの問題提起をしている。
 まずは、日常を生きるか、非日常を生きるか。
 超能力に目覚める前の鴨川嘉郎(染谷将太)は平凡で退屈で満たされない日常を送っていた。
 憧れの浅見紗英(真野恵里菜)には告れず、まわりをウロウロするばかり。
 友達との話はAV話。
 自分がどう生きたらいいかわからない。
 ところが超能力に目覚めてから、生活は大きく変わった。
 浅見紗英を助けるために戦い、人類のために戦う。
 そのための仲間も出来た。
 平野美由紀(夏帆)とは同じテレパスということで深く心通じ合える存在に。
 今までの平凡で退屈な日々がウソのような充実した生活。
 日常から非日常へ。

 では作品は、平凡で退屈な日常を脱して、非日常に生きろと主張しているかというと、必ずしもそうではない。
 後半のパチンコ屋のスペースシャトルはUFOだというエピソード。
 これに熱狂する浅見教授(安田顕)や紗英の姿は、どこかカルト宗教に毒されている感じがする。
 人類はハルマゲドンの時期を迎えていて、われわれは戦わなくてはならないという主張は、オウム真理教に似ている。
 このように何かを信じて戦うということは、妄想を信じるということであり、おおむね間違った方向に人を導く。

 しかし、一方で作品はこんな描写も。
 一年後、UFOに攻撃される東三河。
 嘉郎は教授の語ったことを信じず、戦うことをやめたばかりに、UFOに攻撃されるという事態を招いてしまったのだ。
 これは原子力発電所が危ないということを信じず、戦いを捨ててしまった結果、原発事故が起こってしまったという感じに近いかな。

 このように現実で生きることは厄介で、複雑で判断が難しい。
 パチンコ屋のスペースシャトルは本当にUFOかもしれないし、単なる思い込みかもしれない。
 もっとも、人が行動するのって、ほとんどが思い込みですけどね。
 では、すべてが思い込みだと割り切って、世界を変えようなどとは思わずに日常をダラダラと平凡に生きればいいのか?

 作品は明確な答えを出していない。
 一年前に戻った嘉郎は「エスパーグループを解散せずに戦う」と宣言したが、そう宣言できたのは一年後のUFOに攻撃される未来を見てしまったから。
 あの未来を見てしまったら、何もせずにはいられなくなるだろう。
 しかし、一方でこうも考えられる。
 嘉郎が見たUFOに攻撃される未来は、単なる夢なのではないかと。

 平凡な日常に生きるか、何かのために戦って非日常に生きるか、それはそれぞれの判断に委ねられている。


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Woman 第1話~「とにかく、まずお金で買える幸せが欲しい」

2013年07月04日 | ホームドラマ
 ふたりの子供を育てる小春(満島ひかり)の物語。
 たくさんの衝撃的なせりふがある。

 生活保護の申請に行って却下されると、福祉事務所職員に「すいません、お金貸してもらえませんか? 5000円、いえ2000円、1000円、500円でいいですから」
 本当なら自分の切実さを何も理解していないお役所仕事に怒るべきなのに……。
 また、他人から「母の愛があれば大丈夫」「お金で買えない幸せがある」などと<きれい事>を言われると反論して
「そうか、そうかな? とにかく、まずお金で買える幸せが欲しい」

 こうしたせりふを聞くと、僕はもうこれ以上、何も書けなくなってしまう。
 何しろ、書けば、すべて<きれい事>になってしまうから。

 それでも敢えて、この作品に基づいて<きれい事>を述べれば、<人は人を苦しめるけど、救うのも人>ってことですかね。

 小春が子供を連れて街を歩けば、聞こえて来るのは「舌打ちと咳払い」。
 しかし一方で、コンビニで「いいんだよ。泣くのが子供の仕事だから」と言ってくれる老人もいる。
 子供はすぐ泣くし、面倒や心配ばかりをかけるけど、小春の心が折れた時に「お父さん、お父さんはどこ?」と叫んでくれるのも子供。
 小春はコンビニの老人や娘の望海(鈴木梨央)に救われたことだろう。
 そして、救いはきっと絶縁した母・紗千(田中裕子)に拠っても。
 なぜなら小春は母に対して、あんなに延々と不平・不満・愚痴・本音を語ったのだから。
 きっと小春はずっと母を求めていたのだ。

 それと男たち。
 夢を追い求めた夫・信(小栗旬)といい、怠け者の健太郎(小林薫)といい、フラフラしてるな~。
 現実と戦っているwomanたちと比べて、男たちは何と地に足がついていないことか。
 彼らの気持ちはやさしいんですけどね。
 梨を取りに行ったのだって、きっと小春が喜ぶと思ったから。
 でも、死んでしまっては意味がない。

 小春一家が楽しく<円居>する時は来るのか?

コメント (2)
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八重の桜 第26回「八重、決戦のとき」~頼母の末娘「今日は何をするんですか?」

2013年07月01日 | 大河ドラマ・時代劇
「私たちの大事な故郷、会津は私が守る!」
「その鉄砲に会津武士の魂を込めよ!」

 こういう勇ましいせりふもいいんだけど、僕はこんなせりふにも魅かれる。

 西郷頼母(西田敏行)家の自決シーン。
 皆が歌を詠み、死を覚悟する中、一番幼ない末娘がつぶやく。
「今日は何をするのですか?」

 白虎隊の自決シーン。
 皆が「生き恥さらしたら殿に面目が立たぬ」と言って腹を切ろうとする時、ひとりが語る。
「まだ弾丸が残ってる。戦おう」

 生きることへの意思。
 この方が、死ぬ意思より数倍美しいと僕は思う。

 しかし、西郷家の末娘も白虎隊の「戦おう」と言った少年も、集団の大きな流れの中では流される。
 大きな時代の渦に巻き込まれて、死んでいくしかない。
 それが歴史や集団の中での個人。
 大きな流れの中では個人は無力だ。

 だからオトナの責任は大きい。
 今回、神保内蔵助(津嘉山正種)と田中土佐(佐藤B作)の自決シーンがあったが、ふたりは過去をふり返って言った。
「殿が京都守護職を引き受けようとした時、わしらが腹を切って止めていれば……」
 これは歴史のifになってしまうが、戦争や悲惨な状況に至るまでには、いくつかの分岐点がある。
 そこで判断を間違えなければ、悲劇が生じなかったかもしれない時がある。
 西郷家の末娘も白虎隊の少年が死ななくてはならなかったのは、すべて止められなかったオトナの責任だ。
 もっとも判断の何が正しくて、何が正しくなかったかは、その時代の当事者にはわからないんですけどね。
 でも、考えることは出来る。

 現代でも石原慎太郎氏や憲法改悪を主張している自民党を支持すれば、戦争を起こすことは目に見えていると思うんですけどね。
 原発依存の社会がこの先も続けば、また悲惨な事故が起きることは明らかなんですけどね。
 これを止めようとしないのは、大人の責任を放棄しているように思う。
 神保内蔵助と田中土佐の間違いを繰り返してはならない。

 最後にもう一度、個人について。
 先程、大きな時代の流れの中で個人は無力だと書きましたが、覚馬(西島秀俊)は「管見」を書いた。
 覚馬のしたことは、ちっぽけなものかもしれないが、個人でも時代に抗して戦った人はいる。


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