検察官が「勝手に」作成する聴取調書作成実態
小沢一郎民主党幹事長の政治資金管理団体の収支報告書に誤りがあった問題でメディアが過剰報道しているが、その裏側に検察庁職員による違法な情報漏えい問題が存在していると見られる。
土石流のような過剰報道は、小沢一郎民主党代表を一方的に攻撃するものばかりだが、問題を客観的に捉え、冷静に見つめることが求められている。
検察とメディアの行動に五つの大きな問題がある。
①無罪推定原則の無視
②法の下の平等の無視
③罪刑法定主義の欠落
④基本的人権尊重の無視
⑤検察の犯罪の放置
である。
小沢一郎民主党幹事長の資金管理団体「陸山会」が2004年に不動産を取得したころに、中堅ゼネコンから裏献金があったのではないかとの報道が多くなされている。情報の多くが違法な情報漏えいによってもたらされたものであると見られる。
しかし、基本的人権を尊重しなければならない観点からは、単なる憶測に基づく報道には十分に慎重な姿勢が求められる。しかし、メディアにこの意識は極めて希薄である。
事件報道に際しても、被疑者の権利が守られる必要があり、被疑者側の主張も適正なバランスで報道する必要があるが、大半のメディアは検察側の一方的な主張を垂れ流すだけである。
しかも、検察庁職員による違法な情報漏えいは、事実をねじ曲げている場合がほとんどであり、犯罪の厳正な摘発が不可欠である。
小沢一郎氏が事情聴取に際し、「秘書が勝手にやったこと」との調書の表現を「もう少し柔らかい表現にできないか」と訂正を求めたなどと伝えられているが、これも国家公務員法違反の犯罪行為なくしてはメディアが知り得ない内容である。
事情聴取等における調書作成においては、検察官が一方的に文書を作成する。そのあとで検察官が文章を読み上げ、事情を話す側が「この点が違う」と述べると、「調書に修正を求めた」こととして記載されるのである。
実体験がない人には分かりにくいので、もう少し詳しく説明する。まず、検察官が「勝手に」供述調書を作成するのだ。事情を聞かれている者が話していないことを勝手に検察官が文章にして書き込むことは日常茶飯事である。
作成された文章を検察官が読み上げた際に、事情を聞かれた者が、この部分が違うと述べるのは当然である。そもそもそのような発言など存在しないからだ。
ところが、事情を聞かれている者が、「この部分がこう違う」と発言すると、検察官は本文を修正せずに、一度できあがった調書について、事情を聞かれた者が、「このように修正を求めた」と記載するのである。一度は供述したが、あとから修正を求めたかのような印象を与える文書になるが、実際には本人が発言していないことが調書に記載されたので、本人が修正を求めたものなのである。このような詳細な事実が極めて重要である。
この事実を知らされずに報道に接するのと、事実を知って報道に接するのでは天地の開きが生じる。この点が情報操作の恐ろしさでもある。
つまり、小沢一郎幹事長の場合も、小沢氏が「秘書が勝手にやっとこと」などと発言した事実は存在しないはずである。検察官が「勝手に」、「秘書が勝手にやったこと」との文章を作成し、その後にその文章を読み上げた際に、小沢氏が「その表現は事実と異なる。収支報告書作成の詳細については秘書に任せていたことだ」と発言すると、当初の調書に対して小沢氏が修正を求めたこととされてしまうのである。
こうした経緯を明らかにするためにも、取り調べ、あるいは、事情聴取過程の「全面可視化」が不可欠である。すべてを録画、録音することによって事実が正確に記録されることになる。
警視庁が取り調べ可視化検討の委員会を発足させるとの報道があるが、取り調べは「全面」可視化でなければ意味がない。
メディアは検察と結託して、小沢氏や小沢氏の周辺の人物が真っ黒であるとのイメージを植え付ける情報操作を展開しているが、詳細に問題を見ると、法的裏付けに基づいて問われているのは、重箱の隅をつつくような微小な記載ミスの類いのものでしかない。
こうした微小な記載ミスなどについては、これまで、収支報告書の修正などで済まされてきたことである。それが、小沢氏の場合だけ犯罪にされたり、秘書や国会議員が逮捕、勾留されたりすることがおかしいのである。
政・官・業・外・電の悪徳ペンタゴンは、日本政治の利権を喪失することに死に物狂いで抵抗しているのである。東京地検特捜部が米国の意思を反映して行動していることは間違いないと思われる。
鳩山政権はこの死闘を勝ち抜き、東京地検特捜部、検察勢力を、根本から刷新しなければならない。そのための重要な一歩が、「取り調べ完全可視化」の実現と、検事総長の国会同意人事への移行である。
日本を暗黒の秘密警察国家から真の民主主義国家に転換させるためには、この死闘に勝ち抜くことがどうしても必要だ。