格差階級社会をなくそう

平和な人権が尊重される社会を目指し、マスゴミに替わって不正、腐敗した社会を追求したい。

続・戦争未亡人の声<本澤二郎の「日本の風景」

2019-08-22 09:17:39 | 日本の風景


続・戦争未亡人の声<本澤二郎の「日本の風景」(3410)
<戦死の夫を6年、形見の一粒種の娘と「岸壁の母」>
 あの時代の夫婦の絆は、鉄よりも強いことがわかる。
 「帰ってきたのは、英霊と書かれた紙きれの入った小さな軽い木箱が一つ。主人が発っていった木更津の港に、娘と二人で待った日もありました。もう帰ろうというと、娘が帰らない、というんです。お父ちゃんが帰るまで待とうと」
 「娘が小学校に入るころまででしたから、戦後の6年、ずっとそうしていたんですね」
 政府からの戦死報告も信じることなく、必死で、夫の形見であるひとり娘と「岸壁の母」になりきってきた助産婦の影山よしさんに、人間であればだれもが涙が零れ落ちるだろう。小学校に入る前までというと、幼児も物心つくころである。この時のことを思い出すと、父親の顔も知らないで育った痛々しい戦争遺児の、人間の殺し合いでしかない戦争への憎しみは、いかばかりであったろうか。

<防空壕にも入れず、恐怖の真っ暗闇の中での自らの出産>
 賢明とは全くいえない政治リーダーを目の前にしている日本人の哀れさは、時計の針を74年前に引き戻すと、因果応報とはいえ、より無能で無責任なリーダーらの存在に、改めて心底怒りがこみあげてくる。
 戦後の教育に近現代史を排除してきた原因・理由が見えてくるだろう。靖国神社は、文句なしに「戦争神社」だ。いま改憲派の中心となっている。夫を奪われた戦争未亡人と戦争遺児が、神社参拝を拒絶した理由であろう。同じく神社参拝を拒否して獄死した、初代の創価学会会長に彼女らは共鳴したはずである。二代会長も入獄、その悲惨な体験から悟ったであろう教えを、三代の池田大作に伝授した。この池田の教えを戦争遺児は真摯に実践、安倍にぶら下がった裏切り者の太田ショウコウを断罪、同じく沖縄の野原善正が山口那津男に鋭い槍を突き付けている。因果応報を回避する手段はない。

 戦争遺児が誕生する場面は、戦争未亡人が語るだけでも、それは小説や映画でも紹介できない深刻で複雑なものだった。
 その日は、敗戦濃厚な房総半島の上空を連日連夜、米軍機が襲来、空襲警報の不気味なサイレンが鳴り響いていた。
 「私の子供が今まさに生まれようとしてる時に、防空壕にも入れない中での、真っ暗闇での出産は、本当に恐ろしいものでした。近所のおばさんに手伝ってもらい、無事に女の子を産んだのですが、それは生きた心地がしませんでしたよ。運が悪ければ爆弾で親子とも死ぬ場面でしたからね」
 「自分が助産婦として赤子を取り上げるときは、サイレンにも動じないで、真っ暗闇でも恐怖感はなかった。新しい命を誕生させることに、勇気をもらえたのでしょうね。娘の出産後が、それはまた大変でした。それまでの産婆業に、新たに自分の娘の世話を、空襲警報の中で産婆をしながら生き抜くわけですから、言葉にならない苦労の連続でした」

 「夜中に何回も空襲警報が鳴ります。急いで防空壕に入るための準備が大変でした。あらかじめ暗闇の中でも、一人で子供を背負えるように、部屋にひもを用意、おむつと産着を入れた風呂敷包も。夏でも綿入れのはんてんを着て、防空頭巾をかぶって逃げるんです。だんだん戦争も激しくなって、火だるまになった飛行機が、軒のひさしすれすれに飛んで行ったときは、もうこれでおしまいか、と思ったものでした。そんな中でも子育てとお産は、待ったなしでしたよ」

 誰か彼女に慰労の言葉をかけてほしいものだが、誰一人いまい。命をはぐくむ壮絶な生きざまに感謝、感謝であるが、彼女が手に入れたものは、ただ娘と生きるだけの、小さな家と小さな庭だけだった。

 戦争の最高責任者は、戦後、神から象徴の世界に潜り込んで、一切の責任から逃れてしまった。最近になって、清和会OBが「天皇制を廃止すべきだった。多くの国民の思いのはずだ」と語っていたが、確かに天皇制を除けば、日本国憲法は100点どころか200点のすばらしい国民のための憲法である。

<蚊の襲来に危うかった娘の命>
 なぜか出産のときは夜が多い。「真夜中、子供を背負って出かけると、途中の道でかがり火をたく一団に出くわすんですよ。竹やりを持った警防団も不気味でしたよ。親子二人きり、生きるも死ぬもこの子と一緒、産婆の時でもなんでも、この子と一緒でした。ですから娘には、ずいぶんとかわいそうな思いをさせました」

 危うく娘の命が消えそうになった瞬間もあったという。
 「その家庭は、東京から疎開してきた家族は4人でした。親類の家も狭い。確か物置の三畳間しかない。仕方なく子供を背負ったままで。夜中の二時ごろでしたね。お産を終えて、背中から子供をおろして肝を冷やしました。物置の裏手が竹藪だったせいで、すっかりやぶ蚊の餌食にされていたんです。目がはれ上がって見えなくなっていましてね。その時は、こんなことをしていたら、今にこの子を殺してしまう、そう思いました」

 今日では想像さえできない。物置の三畳間での出産。蚊取り線香もない真夏の深夜。産婆さんの子供を面倒見てくれる人もいない。もうこれだけでも、戦争の恐怖を物語っている。
 なぜこんな戦争をしたのか。因果応報とはいえ、一国の政治リーダーの無能に怒り狂うしかないのか。平和軍縮派の宇都宮徳馬の解説は「日米開戦の契機は、日本軍の中国侵略。撤退すれば戦争にならなかった」である。撤退すると、手に入れた巨大すぎる各種利権と資源を失う財閥と軍閥が抵抗した。これに棹差した天皇以下の無責任為政者によって、無謀な日米開戦となったものだ。ナチス・ヒトラーへの妄信も災いした。
 最終的には天皇責任にある。誰もが知っている真実である。

<母子に襲い掛かる痴漢・強姦魔>
 悲しみの連鎖、苦悩の連鎖を体験した人なら理解できるだろう。戦争未亡人と戦争遺児のそれらを。母子で生きることは、今日でも厳しい。世間の目は冷たい。
 「東京からの疎開者を入居させるので」という理由で、間借りしていた家を追い出されてしまった。幸い、夫の姉の助力で、畑の中に古いトタン屋根の家を建てたのだが、まもなく痴漢・強姦魔が襲い掛かってきた。
 「夜になると、どこからか男が戸をガタガタと揺さぶってくる。この時の恐怖は、それこそ空襲警報のサイレンの恐怖どころではなかった。畑の中の一軒家、娘と二人抱き合ってふるえていました」

 こうした事態を世の男たちは、しっかりと理解できない。TBS山口強姦魔事件を処理した官邸の男どもは、理解不能であろう。偉そうな言動を吐く面々も、である。参院議長になった山東昭子はどうだろうか。

 「しょぼつく雨の中を出かけようとすると、娘は一緒に行くといって泣いてついてくるのを、心を鬼にして家に残したことも。夜が白々と明けるころ、娘とお産を終えて帰ることもありました。苦しいことばかりでしたよ。ですから、主人がいてくれたらなあ、といつも考え込んでしまいます。戦争はこの世の悪魔ですよ。再婚の話は何度もありましたよ。でも、亡くなった人に対して申し訳ないと思いますからね」

<2100人の命を誕生させた助産婦は戦争未亡人>
 人間の運命は多くは悲劇の連鎖かもしれない。息子を55歳の時、医療事故で植物人間にさせれて以来、人生は暗転。ジャーナリストの活動にブレーキを掛けられた。二度目の医療事故死(東芝病院)と、反省謝罪なしに、続く妻の後追いに追い込まれ、さすがにお手上げ状態を強いられてしまった。

 しかし、影山家の悲劇は、我が家のそれをはるかに超えている。母親は2100人余の命を誕生させた。にもかかわらず、夫を戦争で奪われてしまった。それでも6年間、生きていると信じて、木更津港の岸壁に立って、永遠に帰らない夫の帰りを、娘と二人して待ち続けた。

 この無念・悲劇を体験した日本人は、ほかにいないだろう。

<戦争遺児はやくざ強姦魔に殺されて>
 顔も見たこともない、父の姿を追い続けて生きてきた、戦争遺児の無念・悲劇も耐えがたいことである。
 秋田の厳しい風土のなかで、3人の子供を立派に育て上げた戦争遺児に、なんと故郷のやくざ強姦魔が待ち構えていた。こんなにワリの合わない人生を体験させられた女性は、これまたいないに違いない。
 母子とも信仰の世界に身を置いて、苦難を切り抜けてきたのだが、遺児をやくざ強姦魔が見逃さなかった。犯人とその仲間も、同じ信仰者である。
 信仰で幸せをつかんだと思い込んでいた戦争遺児に、市民に姿を変えたやくざ浜名(事件当時50代半ば)の歯牙が襲い掛かった。やくざ強姦魔は、TBS山口強姦魔とは異質で、逃げることは不可能である。脅しに耐えられる女性はいない。衝撃で突発性の大動脈りゅう破裂、非業の死である。

<犯人は公明党創価学会に守られて?>
 この世に神も仏もいない。為政者の狂いが、人々の運命に襲い掛かる。
 戦争遺児が美人栄養士でなければ、強姦されることがなかったかもしれない。美人薄命は真実に相違ないが、犯人がいまだに逮捕されていない。千葉県警に何らかの圧力がかかっているものか。いずれ判明しようが、一部に「公明党創価学会がブレーキを踏んでいる?」との指摘も浮上してきている。

<創価学会婦人平和委員会に改めて深謝>
 創価学会婦人平和委員会は、今も存続しているのであろうか。この組織のおかげで戦争未亡人と戦争遺児のことが、人々の目に飛び込んできたことになる。
 創価学会や公明党に反発する人々は少なくないだろうが、この組織は本当に素晴らしい仕事をしてくれた。生々しい歴史の真実を遺してくれたのだから。日本の史家必読の本である。繰り返し感謝したい。
2019年8月20日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)






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戦争未亡人の声(下)<本澤二郎の「日本の風景」

2019-08-22 08:41:08 | 日本の風景


戦争未亡人の声(下)<本澤二郎の「日本の風景」(3409)
<恐ろしい、本当に恐ろしい銃後の無法無天の世界>
 改めて無知は犯罪であると思い知らされる。銃後の世界は、地獄のような無法無天の世界だった。ほとんどの男たちは、戦地に引きずり出された。それでも、次々と子供が生まれる?婦人に人権も法も存在しなかったことになろう。そのような地獄の惨状を、見て見ぬふりの天皇以下為政者の、ノー天気ぶりに怒りがこみ上げる。

 それでいて、責任を取らなかった敗戦時の天皇の心境が、なんと「反省」という言葉でしかなかったことを、先日になってNHKが報道した。当時を知る日本人に言葉もない。フランス革命のギロチンは、このことでも正統化されるだろう。いまその孫が新天皇、それを利用する人物は、A級戦犯をうまくすり抜けた人物の孫である。日本の歴史は何も変わっていないのか?愕然とするばかりである。警鐘乱打の日々である。

<出産時にボロきれもなく、謝礼も払えない農民>
 1940年に今の木更津市の農村部で助産婦を開業した影山よしさんこそが、当時の農民から「神だ、仏だ」と崇め奉られていた様子を想像できる。

 筆者は1942年2月10日生まれである。同じころ、政治家では小泉純一郎、そして山東昭子が誕生している。我が家は産婆代を払えたものか、100歳で亡くなった母に聞いておくべきだった。

 影山よしさんも、母みつも、山奥の七曲という地区の出身者である。母の尋常小学校時代、同級生は学校に来て本を読む機会を奪われていた。その点、よしさんは親類を頼って上京して、医者を志したが、金がなくて断念した。当時の日本では、人材を育てる環境が全くなかった証拠である。金はすべて財閥・政商に牛耳られてしまっていた。

 現在、財閥の内部留保金は500兆円とささやかれている。実際はもっとかもしれない。経済実体からみても、戦前そのものであることに衝撃を受ける。持てる者からの税金が、政治の役割であろう。消費税ゼロにして、庶民生活に恩恵を与える善政が、大衆政治の基本である。

<戦時中、日本で一番働いた職業は産婆さん!>
 ガーゼ、脱脂綿もない産婆さんの診療とはどういうものか、現在では想像もできないのだが、それは縄文や弥生の時代なのか。あるはそれ以前なのか。「我が家にある白い木綿の風呂敷に、ボロを自転車の荷台に積んで」「8日、18日、28日は八紘一宇の精神で、無料診療せよ、との通達もあって、その日は1日に20人ほどの妊婦を診察、口もきけないほど疲れ切ってしまいましたよ」と打ち明けてくれている。

 日本で一番働いていた産婆さんだったのだ。「お産の費用をまともに払ってくれる家庭はほとんどいませんでした。当時は国の保障制度は何もありません」「畳が汚れるから、畳の一畳を上げて、床板の上にむしろを敷いて、その上にボロを使ってお産するんです」「中には蔵がいくつもあるような御大尽のある人でも、お金を払ってくれませんでしたよ」

 恐ろしい銃後の日本社会の実像である。歴史家は、しかとこうした事実を掌握しているのであろうか。歴史家は、この創価学会平和婦人委員会編の、庶民の偽らざる史実に目を通す必要があろう。
 調査によると、この素晴らしい実績を書物にして世に送り出した婦人平和委員会は、東京・信濃町の創価婦人会館にあるという。現在はどうか。繰り返し関係者に敬意を表したい。
  
<村役場は若者を戦場に送る赤紙準備の地獄>
 庶民・大衆向けの仕事をしていなかった、当時の自治体とは何だったのか。村役場の実態はどうだったのか。
 いえることは、福祉らしい福祉行政は何もなかった。住民への国からの通達機能は存在していたことは、影山さんの証言で判明した。住民支配とは、銃後の戦場を想定した、竹やり戦法のような行政に特化していたのであろう。

 行政の中心は、農民の家族構成の詳細記録である。そこに男子がいるのかどうか。赤紙の対象者なのかどうか。独身者は真っ先に赤紙の対象となった。結婚して子供を持つ家庭の男子も、戦場に犬猫のように狩り出された。
 この分野についての詳細な記録が、行政の核心的任務だった。その頂点に内務省が存在した。すなわち、内務省こそが戦闘要員確保と、それに反対する人々を、非国民として監獄に送り込む任務を帯びていた。

 戦後の官僚機構は、大蔵省(現財務省)を頂点としたが、戦前は内務省が頂点に君臨した。この6年間は、戦前の商工省、今の経済産業省である。原発と武器弾薬にシフトする危険な体制といえる。
 商工官僚は、安倍の祖父・A級戦犯逃れの岸信介である。安倍の政務秘書官は、昔流だと商工官僚、すなわち財閥の代理人ということになる。

<戦地での天皇軍隊の蛮行知らずの日本人>
 8・15の戦没者追悼式を武道という怖い名前の施設で挙行するというのもおかしい感じを受けてしまうのだが、ここで過去という言葉に言及したのは、新天皇だけで、残る三権の長も遺族の代表からも、過去の日本軍の蛮行に触れる人物は、一人もいなかった。
 戦地での天皇軍隊の蛮行は、中国大陸を歩くと、まだ多くその痕跡が残っている。「軍紀の厳しい天皇の軍隊」という幻想を抱く老人は、今もいることが最近知って驚愕した。仕方なく「中国に行けばわかる」というしかなかった。

 多分、影山よしさんも知らない。中国と半島に足を伸ばす機会がなかったからだ。アジアを旅する余裕もなく、人生に幕を引いてしまった。

 娘は1995年、戦後50年に筆者が企画した「南京・盧溝橋の平和行脚」に参加、日本軍の蛮行の数々に涙した。彼女の娘と娘婿も。

 日本人は物忘れの激しい民族性が欠点である。相手が声を上げないと、すぐに忘れる。他方、大中国として再生した中国人は、あまり声を上げない。韓国人とは違う。欧州のドイツの隣国は、ナチの風土に敏感である。ドイツ人の気質がそれを受け入れ、いまでは欧州の代表格である。

<創価学会平和婦人委員会ー影山よしー戦争遺児ー野原善正>
 日本がドイツのようになるには、日本の隣国が声を上げてくれないと、日本は本物の民主主義の国になれない。A級戦犯の無反省の寝言を信じ込んで、改憲をわめく人物に凌駕されて7年目、それを支援する公明党創価学会は、平和婦人委員会とは真逆の存在である。

 中国訪問で覚醒した戦争遺児は、真っ先に太田ショウコウを告発した。池田親衛隊の一番手に名乗りを上げたのだ。二番手が沖縄創価学会の野原。参院選で山口那津男と戦った。山口の80万票には、不正選挙の疑問符がつく。

 それもこれも、根っこは創価学会平和婦人委員会の活躍によって、戦場の産婆さんの壮絶すぎる命をはぐくむ、誰も知らなかった厳しくも尊い闘争があったことを、生の声で紹介してくれた。その実績は快挙、快挙である。
 彼女を取り上げた編集者にも、日本国民を代表して感謝したい。
 あと一回、続編を書こうと思う。
2019年8月19日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)







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日本最大の暴君<本澤二郎の「日本の風景」

2019-08-22 08:22:36 | 日本の風景


日本最大の暴君<本澤二郎の「日本の風景」(3411)
<敗戦直後の昭和天皇語録に仰天する国民>
 NHKが入手したという敗戦直後の昭和天皇の発言を記録してた、宮内庁長官の手帳やノート18冊が公表された。その後に通信社も後追いしたため、NHKのいい加減な報道姿勢が問われている。この全18冊すべてを公開すると、おそらくは日本最大の暴君の資質を、日本国民と近隣の被害国民は知ることになろう。もしも日本に、公正中立な学者がいたら、そして彼らが真正面から分析すると、戦後の隠ぺいされた日本史がより鮮明となろう。この部分は注目したい。

<戦後70年余に初代宮内庁長官・田島道治の「拝謁記」>
 田島道治なる初代宮内庁長官を知る日本人は、もうほとんどいないだろう。第一、現在の長官が誰かも知らない日本人ばかりなのだから。とはいえ、田島が天皇との会話を詳細に記録していたことは、高く評価される。後世の史家のために、天皇の意向も体して、必死で整理したものだと思いたい。

 彼はその記録を「拝謁記」と称したが、神の座から引きずりおろされた象徴天皇に対しても「拝謁」という言葉を使っている不思議に驚く。74年前の戦争で、実に日本人300万人、隣国の人々の殺傷数が数千万人という事実、同盟軍のヒトラーの最期という当時の事情を考慮すると、なんともノーテンキな暴君であったろう姿を見せつけている。

 そんな天皇発言録をまとめていた、田島の感想も注目される。彼が民衆の心を体していれば、の話だが。情けないことに、国民の立場からの分析・評価が、一つもなかったことである。NHK御用学者のコメントなどは聞くに堪えない。
 敗戦後でも、民衆が廃墟の中で、塗炭の苦しみにあった時の天皇語録である。数百、数千万人の被害者の命の軽さに驚愕するばかりである。ネットで報道されている、天皇財閥資金の行方も気になってくる、昨今の貧困時代の日本である。

 昨日まで「戦争未亡人の小さな声」を4回にわたって紹介、涙を流してきたジャーナリストにとって、報道された「拝謁記」に対して、怒りを通り越して、悪しき政治指導者を選んだ国民の悲劇、加害者でありながら被害者を装う日本国民に、正直なところ涙するばかりである。
<「反省?何をいまさら」が吉田茂首相の心境か>
 NHK報道によると、天皇が「反省」を口にして、それを1952年5月の日本独立回復式典で表明しようと、宮内庁を経由して吉田内閣に伝えたのだが、吉田がこれを拒絶した、とあるのだが。

 すでに時間は、敗戦の1945年8月15日から大分経っている。昭和天皇絶対性のもとで、英米派の外交官・吉田茂は、事実上、軟禁状態に置かれて身動きできなかった。元老の岳父・牧野伸顕を通して、当時の天皇の所業にも通じていた吉田である。
 敗戦から7年近くなって「反省」?どういうことか、が彼の本心であったろうが、NHKは吉田を非難するような報道に徹した。

<退位が当たり前が世界の大勢>
 遠慮なく言わせてもらうと、あれほどの甚大な被害を外国と国内の人々に与えてしまった天皇責任は、その罪万死に値する。

 ワシントンの政略が優先されなければ、天皇退位でもすまされなかった。東条英機らと同等か、それ以上だった。
 まだまだ秘密のデータが腐るほどあるだろう。本当のところ、真実を知る関係者は、それらを墓場へと持ち込んでしまっているが、まともな為政者であれば、大陸からの撤退で日米開戦を止めることもできたろう。
 決断すれば、沖縄戦も広島・長崎も回避できたであろう。この一事をもってしても、戦後の昭和天皇の存在は消えていたろう。それが当時の空気だった。
<改憲・再軍備論に愕然として言葉もない!>
 政府系の時事通信と共同通信が配信した記事だと、昭和天皇が安倍晋三に先駆けて、改憲論を主張していたことが露見・発覚した。何のために?それは再軍備のために、である。

 もうお話にならない。反省は嘘だった。日本最大の暴君は、反省どころか、再軍備のための改憲に突き進んでいた。仰天した宮内庁長官は、必死で説得して表ざたにしなかったことも、記録していた。

 神の座から引きずりおろされて、国民統合の象徴となった意味を全く理解していなかった暴君・大暴君だったのである。言葉が出ないほど驚いたのだが、そうした指摘が野党はおろか、新聞テレビからも聞こえてこない。

 清和会OBの言葉がまたしても浮かんできた。「天皇制は廃止すべきだった」のである。
2019年8月21日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)






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