法句経から・・愚にして(己れ)賢なりと想ふ人こそ實に愚と謂はる . . . 本文を読む
大師の時代(榊亮三郎)その5
しかし、茲に諸君に注意を願ひますことがある、外でもないが、般若三藏が、景淨と共に、胡語から、理趣經を譯したと云ふことは、何人も知悉する所であるが、其の所謂胡語とは、如何なる國語であるかゞ、一問題である、當時般若三藏は、梵語は出來るも、支那語は充分でなく、已むを得ず、景淨の手を煩はして、理趣經の胡譯から、支那語に譯して貰ふたのであるが、其の所謂胡語とは决して、胡越一家 . . . 本文を読む
云何が二と為す(この二種の意味とは何か)。一は覺の義。二は不覺の義(一は覚り、二は迷いについてである)。所言の覺の義とは、謂く、心體の離念なり。離念の相は等虚空界無所不遍なり。法界一相即是れ如來平等法身なり。此の法身によりて説いて本覺と名ずく(覚りとは心が心・體を離れていること、この妄念を離れた本当の姿は虚空に遍満してあらゆるところにいきわたっている。まさにこの「法身」は本来の姿として本覚と呼ぶの . . . 本文を読む
今朝いつものように理趣法を修した後、写経をしているときふと「なーんだ皆が幸せになるためには要は全員が互いに助け合う風土をつくればいいだけだ」という思いが突然頭をよぎりました。
最近自分の心のレベルが縮小再生産に陥ってかなり低い状態にあることに我ながら情けなく思っており、なんとかレベルを上げなければと思っていたところでしたが、そういう最中、なにか深いところからこういう思いが突然湧き上がってきた . . . 本文を読む
大師の時代(榊亮三郎)その4
大師の入唐は、我が朝では、桓武帝の延暦二十三年で、唐朝の方では、徳宗皇帝の貞元二十年であります、これは何人も知つて居る事で、更めて云ふまでもないが、西暦で申すと、紀元八〇四年でありますから、即ち、九世紀の始めで、二十世紀の今日から、遡りて、數ふると、十一世紀以前の出來事で、當時の世界を見渡すと、亞細亞と歐羅巴との二大陸には、文明の國として見るべきものは、五ある、第一 . . . 本文を読む
「我々ははじめからこの人間界にいたわけではない。せいぜい数十年前に人生という場所にきたのである。それではどこから来たのか、父母から来たといっても答えにならない。その父母はどこからそのまた父母はと無限の時間の系列をさかのぼってもそれは身体をもった生物としての自己の起源を問うているだけである。・・禅の『父母未生以前本来の面目』というのもそういう自己そのものの根源を問うているのである。自己がどこからきた . . . 本文を読む
一 もしも薪がすなわち火であるというのであれば、行為主体と行為とは一体であるということになるであろう。またもしも、「火が薪と異なる」というのであれば、薪を離れても火が有るということになるであろう。
二 また火が薪とは異なったものであるとすると、火は永久に燃えるものであるということになり、燃える原因を持たないものであるということになるだろう。さらに火をつけるために努力することは無意味となってしまう . . . 本文を読む
大師の時代(榊亮三郎)その3
かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひま . . . 本文を読む
大師の時代(榊亮三郎)その2
大師の時代を論ずるには、當時の日本と支那とを了解せねばならぬが、當時の日本は、今日の日本とは異つて居つて、とりたて、世界に對し誇るべき程の文明はなかつた、すこし、矯激に亘る嫌はあるかも知れませぬが、當時大師の活動せられて居た奈良や京都の都は、要するに、支那の摸倣であつて、其の都に居つて、全日本を支配する位置に居られた方々の思想、並に好尚は、一に支那の摸倣に過ぎない、 . . . 本文を読む
大師の時代(榊亮三郎)・・その1
本日は、弘法大師の御降誕に際しまして、眞言宗各派の管長の方々、並に耆宿碩學の賁臨を忝うし、又滿堂の諸君の來集の中に於て、此の演壇に立ち、宗祖大師の時代につきまして、一塲の卑見をのぶることを得まするは、私にとりまして、光榮至極のことゝ存じます、演題は、茲に掲げました通り「大師の時代」と云ふのであります、從來、宗祖大師の降誕會を擧行せらるゝ度毎に、緇素の諸名流方が . . . 本文を読む
この生が、有為、即ち、生滅するものなら、
生起、存続、消滅の、三つの特質に縛られる。
この生が、無為、即ち、生滅しないものならば、
生起、存続、消滅の、三つの特質に縛られてない。
生起、存続、消滅、三つが違うものならば、
有為の特質として働くのに、充分にならない。
生起、存続、消滅、この三つが同じものならば、
どうして、同時にして同所に、存在できるだろう。
生起、存続、消滅という、三つの相の他 . . . 本文を読む