”ユビキタス”という言葉が欧米では、よく使われているようです。
日本では、まだ馴染みがありませんが、今後、この言葉が流行りそうです。
この言葉は、日本語に直訳するのは難しいのですが、語源的には「あらゆるところに」という意味ですが、元々はキリスト教などで「神はあらゆるところにいる」ということをあらわす英語です。
今日の絵は、”長谷寺・仁王門” F8号
最近のこの言葉の意味は、あらゆるところにコンピューターがあるくらいのニュアンスで使われていますが、そのコンピューターがそれぞれ、個々人にとって「最適な環境」を自動的に判断し、用意してくれる状態にあるということだそうです。
この”ユビキタス”が充実すると、社会はどのように変わるのでしょうか?
例えば、小学生が塾を出ると自動的に子供の携帯電話が親の携帯にメールを発信し、帰宅時間を告げる、また帰宅途中で子供が交通事故にあって病院に搬送されても、その子供の体質から通院履歴、常備薬が、子供のICカードに記憶されており、病院は、適切に対応が出来るというものです。
また、バスに乗る人がお年寄りや障害者の時だけ、センサーがそれを感知して自動的にスロープが出るなんてこともありうるのです。
つまり、この”ユビキタス”が整えば、個々人の生活が便利になるということです。
しかし、これには、普段から個人情報を持ち歩き、センサーやカメラで見張られなくてはなりません。
それはそれで不安になり、実際、こうした不安に応じて、この”ユビキタス”がもたらす監視や管理を批判する議論が出ています。
便利さとその代償とのバランスは、難しいものです。