この時期、忠臣蔵の映画やTVドラマが上映されます。
討ち入りは、元禄15年12月14日(西暦1703年1月30日)なのですが、この事件の発端は、その2年前の元禄14年2月4日(西暦1701年3月3日)で、その現場が江戸城の松の廊下であることは、日本人ならよくご存じのことです。
しかし、その事件の原因は、はっきりしたものが分からないのです。
幕府の中枢で起こった事件は、幕府自体もあまり知られたくなかったようです。
というのも、それが幕府の権威の失墜にもかかわることであったと推測されるからです。
この場所でなぜ事件が発生したのか、松の廊下の位置関係と機能について調べてみました。
事件当日は、将軍の年賀の使いに対する答礼として勅使・院使が下向し、儀式が執り行われる最後の日にあたり、白書院で将軍が両使と面会することになっていました。
その際の関係者の控えの席として使われたのが、松の廊下とその周辺の部屋であったのです。
廊下といっても、前回にも書いたのですが、横4畳、長さ16畳の90畳のたたみ敷きで、控えの席としても使われます。
松の廊下の再現 NHK 大河ドラマのCGから
松の廊下は、白書院と大広間を結ぶ廊下で、その周辺には上之部屋、下之部屋と呼ばれる部屋があり、通常、上之部屋は、御三家、下之部屋は加賀前田家の殿席であるのですが、儀式のある日は、上之部屋は、勅使・院使や日光門跡・増上寺住職などの休息所として使われいるので、当日も両使の控えの間であったと思われます。
従って、その付近に吉良や浅野の控え席もあり、浅野の気持ちが高じて事件に至ったものと思われます。