赤穂藩の成り立ちは、播磨一国の太守池田輝政の5男政綱が1615年に3万5千石を分地され、赤穂藩が誕生しました。
その後、1631年にその弟輝興が相続するが、突然発狂し改易となりました。
代わって常陸の国笠間藩より浅野長直が5万3千石で入封しました。
今、大手門などの復元工事中、完成予想図
しかし、その3代目の長矩(ながのり)が刃傷事件を興し、1701年に改易され、その後、下野国鳥山藩より永井直敬が入府しましたが、5年後転封され、代わって備中国西江原藩より森長直が2万石で入封し、12代165年間、幕末まで続きました。
この森家は、かの有名な森蘭丸の弟の家系です。
では、浅野内匠頭長矩が切腹し、浅野家断絶のあとはどうなったのでしょうか?
弟の浅野大学長広は、本家浅野家の預けになっていましたが、宝永6年(1709年)、将軍綱吉の死去に伴う大赦で許され、安房国朝夷郡に500石の所領を得て、旗本に復した。
同時に浅野本家より300石を受け、ここに赤穂浅野家は「御家再興」を果たしました。
浅野大学長広は1724年に家督を嫡男の長純に譲って隠居し、1734年に65歳で没し、長矩と同じく、泉岳寺に葬られました。
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