日々の恐怖 4月3日 ベビーカー
Sさんはベビーカーが苦手だった。
特に電車だ。
うっかり乗り合わせてしまおうものなら、大体が嫌な思いをする。
「 平気で足にぶつけてくるし、いくらスペースをとろうと遠慮がない。
それが当然だという顔をするんです。
一言で言えば厚かましいんです。」
Sさんは以前、うっかりベビーカーを蹴ってしまい母親から三駅の間睨まれたことがある。
「 子供は乗っていないどころか、ギャーギャー座席で騒いでいるっていうのに。
あれは何ですかね、本人はマナーを守らなくてもいい権利を手に入れたって思うんですかね。」
その日、新宿行きの小田急線に乗り合わせた若い母親もそう見えた。
電車から降りる人よりも先に乗ろうとする。
後ろで乗り込むのを待っている人間がいるのに、ちんたら時間をかける。
「 その車両だと新宿駅の階段がすぐなんで、変えたくなかったんです。
それに、そんなに混んでなかったからまぁいいやって思って・・。」
女は当然のように端の席を譲ってもらい、座るやいなや携帯をいじり始めた。
ベビーカーは脇の出入り口付近に放置したままだ。
気配りも感謝の言葉もなかった。
席を譲った高齢の女性は気分を害したのか、隣の車両に足早に移動していった。
Sさんは非難めいた視線を送ったが若い母親は俯いていて気付かない。
胸の中でため息をついて文庫本を取り出した。
「 赤ちゃんが視界に入ったんです。
別にいちいち他人の子なんて見ませんが、何かが間違っていたんです。」
再度見返し、Sさんは息を呑んだ。
赤ちゃんはすやすや眠っていた。
なかなか可愛らしい寝顔だった。
洋服に貼り付けてあるA4紙ほどの殴り書きが問題だった。
「 この子の父親探しています。
名前は判らんけど鼻の脇にホクロのある日に焼けた男です。
年齢は二十歳ぐらいです。
その男はお金も払わず精子だけを置いて逃げ去った。
一生許すことはできませんが償いはさせたいです。
みなさん見かけたら絶対に絶対に絶対に絶対に絶対に連絡ください。
電話番号→090-×××~。」
子供が描いたような汚いイラストも貼り付けてあった。
席を譲った女性は、これを目にしたので逃げたのだと気づいた。
新宿駅につくまで、なるだけそちらを見ないようにしていたが無理だった。
「 どうしても見ちゃうんです。
母親は、どんな顔しているんだろうって・・。」
新宿駅に着く前に母親の顔は見れた。
どこにでいる、きっと電車を降りて数秒後には忘れている容姿だった。
母親はSさんの視線に気づき、穴があくほど見つめ返してきた。
慌てて視線を外し、蛇に睨まれた蛙のようにじっとしていると新宿のホームについた。
降りようとするSさんを言葉が追いかけてきた。
「 見かけたら連絡してくださいね。
絶対ですよ、あなたの顔、覚えましたから。
絶対ですよ、絶対ですよ。」
振り向くことはできなかった。
代わりにその時間の、その車両に乗ることは二度としないことを決意した。
Sさんはそれ以来、ゴキブリやクモと同じレベルでベビーカーそのものが嫌いになった。
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