日々の恐怖 4月17日 リハ
開業医を営んでいるWさんの話です。
当院は少ないですが、一応入院施設もありまして、時間内救急指定を登録してます。
私は囲碁が趣味で、本来入院患者さんとの個人的な交流はマズいのですが、当時入院をされていたプロ棋士のFさんと毎夜静かに手合わせをしていました。
Fさんの部屋は三人部屋で、同室には二週間前に機械事故で右肘以腕切除の、Yさんのベッドもありました。
Yさんの手術後数日は、Yさんの御家族が院泊されてましたが、Yさんの肩がリハで動かせるようになったその頃には、もう一日一回見舞い程度になっていました。
後はリハを続け、傷口の治療なので、私の仕事は術後経過程度で残りはセラピストと義手技師の仕事でした。
日課の消灯前の手合わせをFさんとしていると、「先生は囲碁お強いんですか?」と、Yさんから声を掛けられました。
当院に救急で運ばれてから、ずっと塞いでおられたYさんに声を掛けられて、普段なら「おや、ご機嫌は如何ですか?」など返すところですが、その時の私は、「え、いや・・・。」と、間抜けに応えるしか出来ませんでした。
今でこそ老眼の眼鏡は必需品ですが、その頃の私は目の良さが自慢でした。
その私が目の錯覚と思える程の、驚きの不可思議な光景がそこにありました。
Yさんは上体を起こした状態でベッドに座っていて、胸の高さにマグカップが浮いているのです。
私は声も出せずマグカップを眺めていると、Yさんの包帯を巻いた右腕が動き、カップが動いたかと思うと、おもむろにYさんはカップを煽り、残りを飲んでしまわれました。
またYさんの右腕が一旦下がり上がると、マグカップがすうとベッド横のチェストテーブルに着地。
まるでYさんの見えない肘の先が、マグカップを動かしたように見えたのです。
私は失態を隠すように、「飲み物を看護婦に持って来させます。」と、取り繕うのが精一杯でした。
囲碁の後、談話室で先程の光景を反芻していると、Fさんがやって来ました。
「先生も見ましたか?」と言われ、「ええ。」と短く答えました。
Fさんは、先程の現象はカーテンで見えなかったのですが、昼等に幾度か見たそうで、私の表情で、それが何か分かっていたようです。
「彼にはまだ右手があるんでしょうな。」と、Fさんは私の授業料の缶コーヒーを啜りながら付き合って戴きました。
ちなみに本人には言ってないそうです。
しばらくして、Yさんは術後経過も良好で、義手リハのため専門の病院へ移りました。
そして、セラピストの報告書に目を通していると、メモ欄に、
『 足元に何かが落ちる音がして、見ると自分が飲んでる缶ジュースのリングプルが落ちていた。
自分でどうやって缶を開けたのか覚えていない。』
旨のことが書いてありました。
私は、あの能力があれば義手も必要ないのでは、と考えると今でも不謹慎な笑みが出てしまいます。
PostScript
若い方の為に補足しますと、昔の缶ジュースは今のプルタブと違って、リングプルという方式で、完全に缶から抜いてしまわないと飲めませんでした。
昔の道路の片隅にはよく、このリングプルが落ちている光景が見られたものです。
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