日々の恐怖 4月22日 鏡
Fさんが大学生になってからのことです。
引っ越した先の一軒家で、なんとなく他人の視線を感じるようになりました。
いつも感じました。
朝起きた時から夜眠りにつくまで、いつも感じました。
ただ、不思議だったのは、家から出ると視線を感じないということでした。
こんなに変なことがあるのでしょうか。
“ 気持ち悪いわよねえ。”
Fさんは段々不安になってきました。
外に出て、他人の視線を感じるというのなら分かります。
しかし、母親の他には誰もいない家の中で誰かが見ているというのは、どうにも分かりません。
歯を磨いていても、顔を洗っていても、服を着替えていても、メイクをしていても、風呂に入っていても、なんとなく視線の注がれているのをFさんは感じました。
“ どこかに、誰かいるんだ。”
姿が見えるわけではないのですが、なんとなくもうひとりいるのが感じられます。
ですが、Fさんの部屋の中には鏡台がひとつ、ベッドに本棚、机に椅子、それだけしかありません。
押入すらもありません。
人が隠れるようなところなど、どこにもありません。
そんな日々が続いていたころの夜。
カーテンを閉めようと思って、Fさんは席をたちました。
窓ガラスに部屋の中が映っています。
ぼんやりとですが、部屋の中の雰囲気がよく分かります。
瞬間、Fさんの瞳が凍りつきました。
なぜかといえば、Fさんを見つめている視線の主が分かったからです。
それは、鏡台の中にいました。
鏡の中にいるFさんが、窓辺にたっているFさんの背中をじっと見つめています。
どう考えてもおかしな現象でした。
Fさんは鏡に背中を向けています。
本当ならば、鏡に映っているFさんは背中のはずです。
ところが、そうでありません。
正面を向いて、Fさんの背を見つめています。
“ どうしよう・・・。”
自分にむけられている自分の視線が、Fさんはたまらなく恐ろしくなりました。
身じろぎもできないほど、身体が硬直していました。
振り返るしかないのでしょう。
もし、にやりと笑ったら、どうなるでしょう。
“ 卒倒しちゃうよ。”
Fさんはそう思いました。
しかし、いつまでも窓に向かって立ち続けているわけにもいきません。
ぐっと拳を握りしめて、Fさんは思い切り振り返りました。
途端に、拍子抜けしました。
鏡の中には、おびえきった顔をしたFさんがいるだけでした。
その夜、Fさんは一睡もできませんでした。
ベッドの中に潜り込んで、鏡だけは見ないようにしていたのですが、怖くて怖くて仕方ありませんでした。
“ 鏡台に背を向けながら横になっている私を、鏡の中で立っている私が、じっと見つめているのではないか・・・。”
と思うだけで、歯が噛み合わないほど、Fさんは震えていました。
その一方、考えてもいました。
どうすれば、私は私の視線から逃れられるんだろうと考えていました。
家中にある鏡を割れば、もしかしたら事が終わるかもしれませんが、そんなことはできるはずもありません。
朝になるとともに、Fさんは部屋から飛び出し台所へ駆け込みました。
母親が驚いたような顔をして、Fさんを見ます。
説明したところで仕方ないし、いったいどう対処すればいいのだろうと思いながら、ホットミルクを一口だけ飲みました。
結局、Fさんは鏡台だけを捨てることにしました。
もともと古道具屋に行って無料も同然な値段で買い求めてきたものだから、金銭的には惜しくありませんでした。
ただ、少しばかり気に入っていたものだったので、ほんの少し残念な気分になっただけでした。
しかし、鏡台を捨ててからというもの、自分の視線を感じるということがなくなりました。
Fさんは机の上に鏡を置いて、なにもかもその鏡で用をたすようにしました。
鏡に映ったFさんは、Fさんのする通りに動くだけです。
Fさんは、ときおり窓辺にたって鏡を覗き込んでみますが、常に自分の背中しか見えなくなっていました。
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