極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ヘルダーリンと琵琶湖

2010年08月22日 | 世界歴史回廊


猛烈で苛烈な日差し背に受けて 藪打ち払う鎌に光る汗
 





【危機の詩人、ヘルダーリン】


  遠くひろがる湖面には
 帆影に起る喜悦の波
 払暁の町はかなたに
 今花ひらき明るみかける
            
       ヘルダーリン『帰郷』


三島由紀夫の小説『絹と明察』の駒沢に
とっての琵琶湖は「日本的風雅」の本拠
地として設定し、小説の駒沢にとっての
琵琶湖は「日本的風雅」の本拠地として
設定し、駒沢の破滅を画策する岡野にと
っての琵琶湖は、ヘルダーリンの「帰郷」
という詩に歌われているような、「西欧
的澄明」の象徴に設定したたことを、こ
のブログで紹介した(
金盞花と天守の
三島由紀夫
』)。



松岡正剛が「千夜千冊」で、『省察』を
訳した武田竜弥の言葉引用して、ヘルダ
ーリンには言葉を『原・分割』する才能
があって、そこからパラタクシスが発し
ているらしい。それをヘルダーリン自身
は「最も深い親密性」とか「聖なる精神
の生きた可能性」というふうに感じてい
たらしい。そうだとしたら、これはやっ
ぱりたいへんな才能だと感想を書いてい
る。そして「言葉を書きつけながら、言
葉が言葉を自己編集するように書けると
いうことですからね。それにしてもヘル
ダーリンは、どうしてこんな才能をもて
たのか。どうしてあんなふうに詩が書け
たのか。ちょっと考えてしまうよね」と
も書いている。

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パラタクシスとは、「並列」(文法)
との意。この概念はベンヤミンの「列な
り」(Reihe)を継いだものだ。詩のミク
ロな分析の結果つむぎだされた概念で、
分かりやすくはない。ヘルダーリンの後
期の作品群の構造を丹念に見ていったと
き、ベンヤミンーアドルノはそこに全体
を同一性の自動律に組み込んでいかない、
奇妙な断裂・分断を発見したのだ。全体
は、部分に巧妙に織り込まれた断裂の列
なり、並列によって成立し、結果その形
式は全体の全体性、同一性を乱し、反乱
し、内部は何か別のもの・外部への回路
を開く。それは生命、生そのもののあり
ように似る。そして詩の内容やテーマも
またこの形式に呼応するものと(「daily
report from mt.olive
」)。
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 喜び勇んで舟人は帰る 静かな流れ
 ヘ収穫を終えたはるかな島から。
 私の帰郷もその通りだろう 悩みほ
 どにたっぷりの収穫が もしありさ
 えすれば。

 私をかつて育んだ こよない岸よ
 愛の悩みを鎮めてくれるか 約束するか 
 わが若き日の森よ わが戻る日に
 今一度 あの安らぎを?

 波の戯れを見た冷い小川
 舟が行くのを見た流れの岸辺
 すぐまた会える かつて守ってくれ
 たなつかしい故郷の山に

 確固たる境界に 母の家に
 愛する同胞の抱擁に
 私は挨拶する 私をかたく抱きしめて
 心を癒してくれる者たちに。

 まめやかな者たちよ! しかし私は
 知っている
 愛の悩みはたやすくは癒えないと。
 人間の歌うどんな子守歌の慰めも
 この悩みを胸から掃ってはくれない。

 なぜなら 私らに天の火を与える
 
神々はまた 聖なる悩みをも授けるのだ。
  だからこのままであれ。地上の子 
 私はどうやら
 愛するように 悩むように作られている。

      ヘルダーリン詩集『故郷』
                 川村二郎 訳



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※1800年の作。初め二部だった短詩がこ
の形に拡大された。「故郷」はネッカル
のほとり、母の住むニュルティングン。
「愛の悩み」はズゼごアとの別離ゆえと
考えられるという。
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三島由紀夫もヘルダーリンの古代ギリシ
アへの傾倒に注目しており、小説『絹と
明察』でヘルダーリンに直接触れている
ほか、三島自身も2、3のヘルダーリンの
詩の翻訳を試みている。さらに三島はエ
ッセイ『小説家の休暇』において、自身
の代表作『潮騒』についてヘルダーリン
の『ヒュペーリオン』に範を求めていた
ことを明かしている。

 
 私たちにはとどまることは許されな
 い・・・・・

 この地上では

 落下こそもっとも有為のわざだ。す
 でに成就された感情から予感された
 感情へまっしぐらに進んでやまない。

 あなたにとって、かがやかしい人よ、
 あなたにとっては、巫術のひとよ、
 ひとつの生命の全休が、あなたがそ
 れを目に出すとき、突き進む形象と
 なったのだ。
 詩の行は運命のように閉じ、もっと
 もおだやかな行のなかにも死は存在
 していた。そしてあなたは死の境に
 踏み入ったのだ。とはいえ先立つ神
 があなたをかなたへ連れ去ったのだ。
 おお変容する精神よ!だれにもまし
 て変容をこのむ精神よ!……

   リルケ『ヘルダーリンに寄せて』


平野篤司は『危機の詩人 ヘルダーリン』
でこう書いている。

 「だが、危険のあるところ、救う力
 も生まれる。」(パトモス)ここに
 語られているのは、ひとが神的なも
 のに触れるときのことなのだが、危
 険かおるにもかかわらずではなく、
 危険があればこそ救済が生まれると
 いう逆説的な思想である。当然詩人
 は、安全な場所にはいない。絶えず
 捨て身の跳躍を実践している。しか
 し、軽やかな跳躍というわけにはい
 かない。落下は必定である。「ヒュ
 ペリオンの運命の歌」において「水
 のように岩から岩へと投げ出され、
 定かならぬものへと落ちていく」と
 うたわれる。人のありようというの
 は、こうした定めを負ったものとい
 うことである。

 だが、救済があるとすれば、もちろ
 んあるとは限らないが、まさにこの
 ような運命を担う自覚を持ち、それ
 を実践的に生ききる覚悟を固めたも
 のに対してであるのだろう。ヘルダ
 ーリンは、危機の詩人といえるだろ
 う。それは、フランス革命前後のド
 イツを幾重にも襲った危機というだ
 けでなく、詩人の内面での精神上の
 危機でもあったはずであるが、それ
 らが共振して起こったということが
 詩人にとっては抜き差しならぬこと
 であり、何よりもそれは、詩のなか
 に集中して現れている。このような
 事態を知るためには、彼の極度の緊
 張状態にある詩語に耳を傾ければよ
 い。その緊張こそ、まさに危機その
 ものを伝えているのだから。


そして、彼の精神形成の背景である過酷
な19世紀ドイツの歴史を解説した後、リ
ルケに与えたヘルダーリンとの出会いを
紹介している。さて、ヘルダーリンの最
高傑作とされる『パトモス-ホンブルグ
の方伯に』を最後に朗読して終えよう。

 
 近くにあって
 たしかめるよすがもないのは 神。
 しかし危険があれば そこには生ずるのだ
 救う力も また。
 鷲は闇のうちに住い アルプスの子らは
 平然と奈落を越える
 あわつかに架けられた橋を渡って。
 めぐりには時世ときの峰また峰が
 たたみ重なり 愛する者らは
 間近に住みながら 孤絶の


 山々にあいだを剖かれ 倦み果てている
 我らに与えよ 無垢なる水を
 翼を与えよ 心まめやかに
 行きつ戻りつする術が 叶うよう。

 このように私が語った その時
 思案を越えるはど速く
 夢にも思い及ばぬ遠方ヘ
 おのが家から私を引きさらった 一個の霊が。
 行くほどに 故郷の
 影深い森と
 あこがれを秘めたせせらぎは
 薄明のうちに沈み入り
 道すがら辿るのは 私の知らぬ国ばかり。
 やがて すがやかな輝きを帯び
 神秘に満ちて
 金色の霧に包まれ
 日輪の歩みにつれて
 かぐわしい百千の峰とともに
 たちまち丈高く 咲き匂うのは

 アジアだった。まばゆさに眼もくらみつつ
 なじみあるものを探したほどに
 広闊な往還は 私には珍しかった。
 そこではトゥモルスの高みから
 黄金をちりばめたパクトルスの流れが下り
 タウルス メソギス 山々はそびえ
 園に溢れる花々は
 静かに燃える一つの火。光のうちに
 高く栄える白銀の雪。

 
 攀じる術もない岩壁に這い
 生命ある柱 糸杉と月桂樹が支えるのは
 神さびて建つ
 壮麗な宮居の数々。

 アジアの門口をめぐる
 漠然たる海の広がりに
 ここへ行き かしこへ通う
 数多の影なき大道がざわめく。
 舟人はしかし島々を熟知し
 間近にあるその島こそ
 パトモス という。

 耳にした刹那
 私の心には燃え上った
 島に上り暗い岩屋へ寄りたい思いが。
 泉に富んだキュプロスや
 その他もろもろの島のように
 輝かしくはないパトモスながら。

 貧しい家にもいそいそと
 心をこめて客を迎える島だった。
 船が沈みまた故郷を失い
 友を失って
 他郷から人が近づく時

 島は嘆きを聞く 島のら子なる
 熱病の声また声
 砂の崩れる音 野に亀裂の
 走る
音 さまざまな音
 
それらの音がこぞって嘆きを聞き
 その嘆きをやさしくこだまにして返す。
 そのようにこの島は かつていつくしんだったのだ。
 神に愛された預言者を。

 幸福な若い日に
 神の子にひたと寄り添い 歩んだ彼。
 雷雲を孕む神の子は愛した
 この弟子の真率を。そしてまめやかな弟子は
 神の面ざしをとくと見た
 葡萄の秘義が説かれる宴で
 座に連なっていた時た。
 大らかな心に悠場と思い定めつつ
 近づく死を 最後の愛を主は口にした
 汲めども尽きせぬ言葉でもって
 弟子を思いやり 心を晴れやかにした
 世の人の憎しみを見ていた故に。
 一切は善しとして 主は逝った。その死をめぐり
 語るべきことは数々あるが すでに世に勝ち喜ぶ主を
 友らはこの時 これを限りに目にしたのだ。

 日も暮れて 弟子たちは
 悲しみながら 深く驚嘆した
 大いなる事のきわまりが 骨身に
 沁みていた故に。しかし彼らは
 陽の照らす生を愛し そして去りがてにした

 主の面ざしと
 故郷から。鉄のうちなる火をさながら
 その面ざしは惨透し 愛する主の影は
 彼らのかたわらに伴った。
 主が彼らに霊をさし向けると
 たちまち家はゆらぎ 神の雷は
 鳴りとよみつつ
 遠方から 心はずます弟子たちの
 頭上を襲い 重い決意を内に秘め
 一つに集うた 死を覚悟した英雄たちは。

 別れる間際 主が
 今一度 弟子たちの前に現れた時
 その時 王なる太陽の光は消え
 王はみずから打ち砕いた
 神ながら苦難に耐えて
 真直に輝く王笏を。
 時到れば 再臨する筈だったから
 別れの遅滞は由々しいことだったろう。
 にべもなく断ち切る 不誠実な
 人の世の仕業に堕したろう。
 別れの後の喜びは
 愛に満ちた夜に住い 
 真率な般で叡智のひそむ奈落を 
 まじろぎもせず見守ること。
 その時 山の深みにも
 生命ある形象が青むのだ。

 しかし恐しいことだ。到る処に
 
限りなく生命あるものを散らしたのだ 神は。
 慕わしい友らの

 面ざしをたちまち見捨て
 はるかに山々を越え ひとり行くことになるのだ。
 現れた姿は二でも
 一つの声を合わせるのが
 人なる霊なのだった。予告もなしに
 いきなり捲毛を掴まれる思いしたのは
 彼方へ急ぎながら 弟子たちに
 神がにわかに振り返った時だった。
 神よとどまれ 金色の綱に結ばれて
 とどまり給えと
 悪の呪縛を誓い 弟子たちは手をさし伸べ合った。
 
 しかし彼が死ぬならば
 美しさこの上もなく
 その姿が一つの驚異 天上の神々が
 ほめそやしたこの人が死ぬならば
 永遠に解けぬ謎として
 かっては記憶を通じて共生していた
 弟子たちがたがいに理解し得なくなり
 砂と柳は水にさらわれ
 御堂も沈み 英雄と
 そのともがらの栄誉が
 風に消えるならば
 至高の主すらそこを避け
 もはや天にも緑の地にも
 いずこにも不滅のものが見えない。
 これはどういうことなのだ?

 それは種まく人のふるい分けなのだ。
 箕に小麦を掬い
 明るみに向け 納屋から投げやれば
 穀は足もとに落ち
 向らの端に実は現れる。
 幾粒かがなくなり 言葉から
 生気ある音がひびき消えても
 不都合は生じない。
 神の御業も人間の事業にひとしく
 至高の主とて 一切を望まれるわけではない。
 まことに 鉱山の坑は鉄を秘め
 灼熱の樹脂を火の山エトナは孕む。
 そのように 私も持っているかもしれぬ
 一つの像を作りなし 生ける日きながらの
 キリストを観じる 豊かな天賦を。

 しかし人にあって 我とわが身に拍車加え
 道すがら 悲嘆を口にしなから 無力な私を
 不意撃ちし 唖然たらしめ 卑しい身の程で
 神の御姿をなぞろうとするならば!
 天なる主が怒りを示すのを
 ある時私はまのあたりにした 私は一廉の者たるより
 ただ学ぶべきだったのだ。神々は親切だが
 領く限り 何よりもまやかしを憎む。まやかしのもとでは
 人間に人間らしさはもはや通用しない。
 宰領するのは人間ではなく 不滅の神々の運命なのだ。
 運命のままに人間の営みは
 自然に進行し 慌しく終局に到る。
 天上の凱旋式はいや高みへと進み
 至高者の歓呼する子は
 太陽にひとしく 強者たちた名を呼ばれるのた。
 
 その名は合い言葉。 そしてここに
 歌の魔法の杖は天に合図して下界に誘う。
 地上に不浄なものは何もない。また野卑に
 染まらぬ生なき者らを 歌は
 呼びさます。おずおずとしながらも
 数多の眼が待ち受けている
 光を見ることを。 ただしあ主りに鋭い光亡に
 照らきれて咲くのは好まない。
 神の黄金の手綱が 光の勢いを抑えているにせよ。
 しかし現世の
 太くふくらむ眉毛には
 忘れられていながらも
 静かに輝く力が聖典から降る時
 数多の眼は恵みを喜び迎えつつ
 静かなまなぎしに なじもうとするのだ。
 
 そして今 神々の愛を
 私は信じているのだが
 それならば あなたへの愛はいかばかりか。
 私はたしかに知っている
 永遠の父の御心が
 あなたに多くかけられているのを。
 父のしるしなる虹は静かに
 雷とよむ空にかかり 人はその下に
 生ける限り立ちつくす。キリストはなお生きている。
 神の子ら 英雄たちのすべて
 聖典も彼から発している。
 そして地上の営みは
 電のいわれを説き示す 今の日まで。
 地上の角逐はとめどない。しかしそこに神はいて

 御業のすべてを 早くから知っているのだ。

 あまりに長く あまりに長く
 天上の者の栄誉は眼に見えぬままにな「ている。
 神々はほとんど我らの指を捉えて
 伴い行かねばならない。あらけない力は
 我らの心を破廉恥にも引きさらう。
 それはすべての神々が求める犠牲なのだ。
 その一つでもないがしろにされては
 よい結果は生れなかった。
 我らは母なる大地に仕え
 またさらに それと知らずに太陽の光に仕えた。
 すへてを領く父は
 何よりも愛する
 堅牢の文字が育まれ 不易なるものが
 よく解き明されることを。
 この愛に応えるのが ドイツの歌なのだ。


パトモス島でキリストの弟子ヨハネが、
「黙示録」を執筆したと伝えられている。
ヘルダーリン全詩のうちでも最も幽晦に
して舷惑的な輝きを放っている。「危険」
と「救い」との、暗黒と光明のそれにひ
としい、息苦しいまでに濃密なかかわり
合いが表現され、鷲のイメージが浮ぶと、
時間と空間のはざまに隔てられてある人
間の苦しみを解放するその翼が希求され、
たちまち詩人のヴィジョンは、羽ばたき
故郷を去ってはるかアジアヘ翔り、トゥ
モルスやパクトルスなど小アジアの山や
河を過ぎながら、エーゲ海の小島パトモ
スヘ戻るというものだと川村二郎は『ヘ
ルダーリン詩集』でこう解説する。

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