
真夜中に、ひどい咳込みで寝室を離れ階下での書斎でテレビをつけると爆笑問題が長野県の「
きのこ総合研究所」を訪れ、世界初の純白エノキタケなどを生み出したきのこ総合メーカー「
ホクト」の心臓部で、現在は世界初の「松茸人工栽培」に挑戦している現場に潜入し番組シー
ンが飛び込んできた。14日間かけて生育されているエリンギ生産工場には14の部屋にそれぞれ
に9万本の「培地ボトル」が並んでいる。高い湿度と温度が保たれた「秋の森のなか」のよう
な室内では、工場作業員が微妙な温度と湿度のバランスを制御するしている。ドクターきのこ
LOVEこと大内謙二氏の研究室の場面で、これまで1万枚以上のきのこの写真を撮ってきた、マ
イタケやハナビラダケ、チシオタケなどの写真を見せてもらっていたが、きのこ博士のベスト
1のタマゴタケ(たまごのような白い殻が割れてきのこが生えてくると)などを紹介していた。
ところで、その研究所に日本で唯一きのこを祀っている滋賀県は東市中沢にある菌(くさびら)
神社の御札がはられていたことに関心を惹いた。
「神社に残る滋賀の湖魚文化」(滋賀大 堀越昌子教授)では、「昔は琵琶湖の魚は川を上り
ましたから、川筋は奥まで湖魚文化が広がっています。山の奥の伊香郡の余呉の丹生神社とか
湖岸だけではなく、ふなずしが神社の神饌、直会に出てくるところは滋賀県中たくさんありま
す。ふなずしだけではなくて、ぼてじゃこ、どじょう、もろこ、はす、うぐい、雑魚(じゃこ
ずし)、琵琶湖の魚はなんでも漬け物にします。まず全部塩漬けにして、米で魚を漬けちゃう
のです。そうすると乳酸菌が繁殖してくれて、生でほっといたら一週間持たないものが、ご飯
につけることで二年も三年も持つのですね。 琵琶湖があり、淡水魚が抱負に獲れるからこそ
発達した文化なのです。だから滋賀県の神社では、五穀豊穣を願う年頭のあいさつや春祭りに
ふなやじゃこのなれずしを供える風習が多いのです。 守山の幸津川や、草津の津田江とか、
いろんなところにすし切りする神社があります。栗東市には菌(くさびら)神社があるのです。
菌の神社というのは、茸の神様、微生物の神様、漬け物の神社なのですね。この菌の「くさ」
とか、草津の「くさ」、もともとこのへんは滋賀県でも一番菜っ葉類を生産している地域です
し、湖魚のなれずし類なんかもたくさん漬けます。そういう歴史のあるところだからこそ、こ
ういう菌神社があるのですね。そのすぐ横に三輪神社があります。これも「どじょう」と「な
まず」を漬けてなれずしにしちゃうのですね。ふなずしと違ってもっと癖はありますけれども、
毎年神事のときに漬けられるのですね。そういう文化が滋賀県にはあって、それが神社の行事
の中で残ってきている マキノなんかでも「はす」が出てくる。「うぐい」が出てくる。非常
に面白い文化があります」と紹介されている。
草津市の東の郊外にある「菌神社」。“菌”は「クサビラ」と読み、キノコを意味する。630
年頃この付近でひどい飢饉があり、住民は餓死寸前に追い込まれた。その時、森やその周辺一
帯にそれまで無かったキノコが大発生しこのキノコを食べ飢餓の難をまぬがれたと言う伝承か
らされたという。祭神は、大戸道命(おおとのじのみこと)と大戸辺命(おおとのべのみこと)
の二神であるが、古事記の神代七代の五代、富斗能地神(おおとのじのかみ)と対偶の女神の
大斗乃弁神(おおとのべのかみ)にあたる。舒明天が皇九年勧請する所と伝えられ、初めは口
狭比良大明神と称えたが、室町時代には草平大明神となり、明治初年現社名に改めている。
「茸」と「菌」とは、同じく「クサビラ」と読めるが、両者は意味が異なる。前者は、柄のな
い木耳(きくらげ)のようなものを指し、後者は、柄と笠のある松茸とか椎茸などを指す とい
う。「むしと菌(くさびら)」(柱碕一著)によれば、滋賀大学の本郷次雄氏の見解では、住
民を救った 「菌神社」の「くさびら」は、「おそらくヒラタケであろう」と推定しているとか。
ということで、なるほどと感心し外出する機会があれば、立ち寄ってみようと決めた。
●年寄り寄りにとって天国社会とは
定年延長と年金の充実は、老齢者にとっては最上の福祉です。大学を出て、会社で重役
になれば定年は廷長されます。同級生に三人ぐらいいますが、老齢年金はいくらもらえる
んだって聞くと月七十何万円とか言うんです。いろいろ含めると百万円近くもらえるって
言うから、彼らはおとなしくしていれば生活できます。
老人が一律にそこまでとはいかなくても、じたばたしないで食べていけるだけのものは
支給してほしい。子どもの世話にならないでも、炊事のパートの人くらいは雇えて、食べ
て行かれるということは、高齢者にとって社会的な条件では天国と同じなんです。その上
に病気したときのために少しは蓄えがあるとか、ヘルパーさんに来てもらって世話をして
もらえる。その程度のことが自力でできたら、老人としては外側の条件としては万全で、
大国なんです。条件としてはもう文句ない。家庭の事情や近親間の問題、精神生活の苦痛
などあるでしょうが、それは個々の人の問題ですから、そこまでいけばもう政治にしても
らいたいことは終りだよっていうぐらいです。
統計によると日本のご老人の理想の生活は、親子、孫三代の同居する生活だということ
です。そんな家に住むのは望み薄ですが、保育園、幼稚園、小学校の隣接地に老人ホーム
をつくることは可能です。これなら三代同居と同じ生活が老人と孫の両方でできます。
このあいだ、ある人とそんなユートピアの話をしました。
恵まれている人は、聞いてみると、少数ですがちゃんといるんです。老若というものは、
本当に向き合えば、財産、過去の社会的地位、また充実して年来生ぎてきた達成感など、
すべてをあげても代替できない孤独だったり、絶望だったりがあるものです。トマス・マ
ンの『ヴェニスに死す』はそれを描いているでしょう。今のところ生の領域を死の彼方ま
で拡張し延長しようとる宗教の存在で、このことに対抗しているのが一般的な状態です。
この問題はまだまだ解決するところまで人間は到達していないと思います。
●実力主義と年功序列、どちらがよいか
「リストラ」ってレうのは、昔の言葉でいうと首切り、ってことでしょう。「リストラ」
っていうとなんとなくかっこよくごまかせるけど、本当はそうでしょう。あるときは戦争
の空爆で製造工場、工業地帯が焼野原で、復興している工業設備はなく、学業成績優秀な
学生は、まだ少しは就職できたが、僕らみたいな劣等生は、はじめから雇ってくれるとこ
ろはなく、町工場の雇用広告で、転々と右往左往していました。現在の「リストラ」は
「不況」によるもので、経済的眼鏡をかけると、設備はあるのに経済の焼野原。言ってみ
れば金融、第三次産業は、経済の焼野原にたとえればいい第二の敗戦期です。
僕らが太平洋戦争の後、職を探していたのとは、今はちょっと違います。「不況」リス
トラの直接被害者、経済敗戦の負傷者、死者が下の方にシワ寄せされる情況をみると我慢
の糸が切れそうになりますが、誤解をさけるために言いますと、その出血の現場のすぐ隣
りで、お笑いや遊びや遊民生活者がのほほんとしている光景があるのは、決して悪くない
と思っています。これは一途にのめりこむ日本的、東洋的、半アジア的、旧ソ連の駄目さ
加減を第一次の敗戦までにしこたま経験したからです。
ここで少しのんびりした「リストラ」の周辺の話をしましょう。
金利生活者と年金生活者を合わせると日本国中で千五百万くらいになると言う人もいま
す。繰り返し言いますが、その千五百万人は、金利と年金が十分とは言えないまでも、不
況とかリストラとか、そんなことに直接の関係がない人です。この千五百万人という数字
は誇張があるかも知れませんから、僕自身まるまる信じているわけでも、確かめたわけで
もありません。しかし年金や金利が生活の部分を担っているのは高齢化社会の特徴でもあ
りますから、お笑いや遊民のほうに入れておきましょう。
日本の社会は庶民から知識人エリートまで余りにひどい付和雷同というか、過剰倫理性
というか、易同調性というか、エゴがなさすぎるというか、それが特色であるとともに、
みじめな欠陥でもあります。自分自身にもそれがありますから、何とかならないものかと
思うのです。
悲惨のなかで平気で遊べるとか、遊びのなかにいても即座に悲惨のなかにとび込めると
かいうことに憧れをもちます。これをもうひとつの社会的な余裕になっている要因に数え
られるようになりたいものです。ただ国民に対する責任を持っている内閣の責任者が、愚
図なおじさんとして人気を博するなどは、赦せないですけどね。
そういうゆとりの上で、さっきの年俸制とか契約制なんていうものも何となく通しちゃ
うような世の中だ、とも言えます。
この一連の論議は、そこのゆとり、余裕ということを前提にした感じ方のように思いま
す。こういうやり方が通っちゃってて、かえっていいやり方だ、みたいに受けとられてい
る。やった分だけちゃんと評価されるなんていうのは、実力、能力のある人間にはいいか
もしれないけれども、学校時代も社会に出てからも、あんまりパッとしないような人間、
それが世の中の大勢を占めてるわけですから、そういう人間にとっては、実力主義はやめ
てくれってことになるでしょう。年功序列でやってほしいということでしょう。年齢、勤
続年数、扶養家族、この三つで平等にやってくれ、その上でなら上司が主観的にこいつは
いいとか駄目だとか評価するのなら、僕は嫌われてるんだ、とか思い込むから仕方がない
と諦めることもできます。
つまり、平等な基礎部分があって、その上のプラス部分についての実力主義でなければ、
全体としては認め難いでしょう。僕はそうですね。終身雇用が崩れてる、この会社で一生
やっていかなければいけないっていうことからすると、「自由度が増した」という考えも、
どうかなと思います。別に終身雇用制が前提であっても、どうしても一つの会社でやって
いかなければいけないというわけでもないでしょう。仕方がないからいるというだけであ
って、終身雇用が足かせになっているわけではありませんよ。
宮沢賢治の「猫の事務所」ではありませんが、長期の産休や有給休暇をもらって、久し
ぶりに出勤したら、周囲の同僚の冷たい視線を感じて居ずらくなった、といった精神的な
風土を少しずつ自分たちの中から破っていかないといけないです。
●いい経営者、いい会社の条件
僕が考える「いい経営者」っていうのは、自分の経営方針とか、資本金の額とかその行
方とかを、首脳陣の間でオープンにできていることだと思います。そして、首脳陣が社員
に、これこれこういう事情でこうなっている、こういうことで賞与が少なくならざるをえ
ないけれども了解してくれるか、みたいなことを言って、社員が、いや、それは承知でき
ないとか言えるような、十分オープソに論議できるようになっている会社が理想ですね。
それで、大事なことは社員がところんまで論議して、その上で納得するところで決める。
さし当たって、オープンにしているところがいいと言うより仕方がないんじゃないですか。
それ以上言うなら、平等な賃金体系にしろということになります。そして、もっと言う
なら、重役に向かって「お前、威張るな」とか、私生活に話が及ぶようになると、それは
人格的な問題であって、そこまでは会社の問題じゃないって言えとか。
その点、べyチヤー企業で、数人で始めたことがうまくいって、社員が何百人になった
というようなところの場合はあまり上下関係がない。出版社なんか、それに類していて、
偉いとか偉くないとかいうことはたいした差はないじゃないか、というところがあります。
会社というのは位階制があって、課長、係長、主任とかいう役職があって、それはどうし
ようもないから、直属の部下にはオープンになっている。その下もまたそのドにオープン
になっている。こういうことならまず、いい会社ということになると思います。
現実問題として、自分がどうだったかなんて言っても、僕は社屋がよくて、話が通じる
同僚かいて、一緒に遊ぶことができるようだったらいいし、そのうえ上からの締めつけが
なかったら、もうそれでよしとしますね。僕には、給料のいい悪いはその次に来る問題に
なります。最初はそれだけ揃っていたらいいというふうになると思います。上司の評価で
給料が違っちゃうという部分があっても、それは仕方のないことです。
ある一部分だけをそうしておくべきで、それ以外の大部分のところは基本的に上司の好
き謙いや評価などでは動かない、これは誰も同じという体系になっていたらいいんじゃな
いですか。
僕も経験あるけど、同じ時期に入って同じ年数働いて、あいつは給料が上がってたくさ
んもらっている。こちらは上がらないということだと、何も欲しいわけじゃないけど、面
白くないっていうことがあるわけです。人間ていうのはおかしなものだと思います。そん
なこと関係ないや、こっちもそこそこ上がるんだからいいや、と思えばいいのに「あの野
郎、けしからん」みたいに思ったりするから、そういう部分というのはあってもいいけど、
そうじゃない部分できちんと体系として決まっていて、上司の評価とは関係ないというこ
とがあるべきです。
下に対してオープソだったら、いい会社ということはできるでしょうね。だけど、今で
も昔ながらの考え方で、社員は俺が使ってやってるんだという意識の経営者が、まだまだ
いますからね。
公務員の場合には、遅れず、休まず、働かずで、仕事をしているふりをしていれば、社
会保険なんかの年金なんかより、ずっといい恩給がつくわけです。年俸制、契約制がそん
なにいいものだとは、僕にはとても思えませんね。
「第4章 サラリーマンを蝕む危ない常識」PP.89-96
吉本隆明 著 『僕なら言うぞ!』
「平等な基礎部分があって、その上のプラス部分についての実力主義でなければ全体としては
認め難いでしょう」という議論はすでにくぐり抜けてきている。寧ろ、都市部より農村部の方
の仕事仲間方が、彼此の査定額を巡る差異に過敏で、いまふうに言うといじめの様な陰湿なこ
とを体験したことがあり、すべての査定を廃止してはどうかという運動を職域で経験があるが、
わたしが低く評価されたことに対して上司に抗議したことは一度もなかった。つまり、騒ぐほ
どの金額ではないこと、そして、なりより職場の生産性(活力)の向上の方が大事という価値
判断であり価値観の違と割り切って乗り越えているが、民間の職場での人間関係は自社業績と
生活環境により、大きく作用されるというのが実感(リアリティ)である。次回は「第5章
お役所がつぶれる日、日本が沈む日」のお温習いに移る。
この項つづく
【化合物半導体系タンデム型太陽電池で変換効率23.2%】
2月18日、米国はカリフォルニア州サンノゼに本社置く、大手太陽電池製造メーカのテオン
社が、23.2%という高変換効率の化合物半導体のタンデム型CIGS太陽電池の試作モジュール
を開発したニースを入手。裏付け情報を検索し、関連特許などを入手した(下図、2つの特許
説明図参照)。
※ 8,642,361 Method and system for large scale manufacture of thin film photovoltaic
devices using multi-chamber configuration
扁桃腺が腫れ上がる中、不十分ながらやっとこさの思いでブログに打ち込んでみた。早く治さないと焦
るものの身体がついて行かぬ。
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