極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

パイナップルと御霊信仰

2009年12月18日 | 神道物語



ルッコラに リンゴと胡桃 サラダ添え パスタ差し出し パイナップルかな


 屈葬

【文化深層:霊魂とはなにか】

霊魂とは、人間(あるいは生物)が生きている間は
その体内にあって、生命や精神の源とされている存
在や概念で、当初は動物の内臓を指していたが、
以外の部分の、人格的・非肉体的な存在を言い表
す表現でと同一視される事もある。「生/死」の
意識化なのだが、御霊(みたま)とは、キリスト教
の新約聖書・福音書の中にでてくるギリシア語の神
の霊をさす単語プネウマの翻訳語で聖霊ともいうが、
人が死ぬと(→神をつかさどる精気を指し、肉体を
つかさどる「魄」と対比されている)が、
霊(
ぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様
な意味を持っている)として、肉体を離れるという
考え方は、全世界共通で、日本においても、縄文期
に見られる屈葬に対する考え方の一つのように、原
始からその考え方は存在していたとされる。尚、「
霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概
念を指し用いられ、通常は、個人の肉体および精神
活動をつかさどる人格的な実在で、感覚による認識
を超えた永遠の存在
を意味している。そして人間だ
けでなく、動物や植物にまで拡大して用いられるこ
ともある。


Homo erectus tautavelensis.jpg Homo erectus tautavelensis

話しは換わるが、人類誕生以来、「霊魂」という概
念をいつごろから持つようになったかははっきりわ
かっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には
死者を埋葬した証拠がない。ネアンデルタール人は、
死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる
遺跡があり、原初的な死生観を持ちえていた可能性
がある。クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階
になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在が
あり、原始的な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観
念が明確だと思われる。

 「死者の書」

多くの宗教は、人は死んでも意識或いはそれに近い
ものは霊魂となり残ると説く。霊魂は生前暮らして
いた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう
世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、規範などと
結びつけて語られ、キリスト教が説くように、生前
の行いに応じて天国や地獄の選別があり、あるいは
ヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて
すると説く宗教も有る。仏教大乗仏教でも、
の間を輪廻すると説いている。



「たましひ」の語源はどのように解されようか。そ
の語源説は『日本国語大辞典』によると、なんと13
種もあることがわかるが、西宮一民氏は次の三説、
つまり①「玉奇日」説(契沖『和字正監要略』)②
「玉之日」説(谷川上清『和訓栞』、③「活用する
力こ働いてゐる力」説(折口信夫「霊魂の話」)を
列挙してこれに批判を加え、結局、西宮氏は「たま
しひ」を「たま」+「しひ」(甲)の語構成で考え
るのが最も自然であるとして「しひ」に注目した。


「シヒ」は『和名抄』を見ても「盲、米之比・聾、
美美之比・瘤、之比祢」とある等、すべて「痺ひ」、
即ち「しびれるよ機能を失う」の意であるところか
ら、たましひを「魂痺」の意と解した。金田一法則
では、複合語についてはアクセントは先部要素で考
慮するべきであって、後部成素をもっては論証不可
であるとされている。ところが西宮氏は「タマシヒ
」や「メシヒ」「シヒネ」「シヒナセ」などの「シ
ヒ」、いねば後部要素の検証を以てアクセントの面
からも問題なしとし、結局は「令集解」(令釈)の
鎮魂解釈と結びつけて「クマの麻燦」とは「あるべ
き場所(身体の中府)に魂魄がゐなくなってしまふ
」「まともな魂魄でなくなってしまふ」=「遊離魂
」であるとし、「タマ」と「タマシヒ」とは魂魄の
在り万に基づく命名で、両者には差があるのだとい
う。「クマ」と「タマシヒ」はそもそも語形が違う
のであるから「両者には差がある」という点には異
論はない。だが、「痺ひ」(「しふ」は四段動詞で



連用形は甲類=感覚・機能を失ふ)たる「タマ」の
状態・ことを意味するのであれば、「シヒタマ」あ
るいは「シフタマ」というのが自然であろう。「多
麻之比は朝夕に多麻布礼どあが胸痛し恋の繁きに」
(萬三七六七)の「タマシヒ」は「メシヒ」や「ミ
ミシヒ」などの所謂サマ名詞・コト名詞ではなく、
モノ名詞と解されるからである。「タマシヒ」を「
クマ」+「シヒ」といった語構成で捉えるのは現代
人の語構成意識であって、問題がない訳ではない。
筆者は「たましひ」の語構成は「クマ」+「シ」+
「ヒ」であると考え、『神道大辞典』第二巻の「タ
マシヒ」の項にあるように「言語的には魂之霊であ
らう」と解する。西宮氏は取り上げなかったが「魂
之霊」(タマシヒ)の「霊」(ヒ)は甲類であり、
「多麻之比」の「ヒ」が甲類であるのと一致する。



では「たま」(魂)と「たましひ」(魂の「霊」)、
即ち「たま」と「ひ」とはどのような関係にあるの
であろうか。本質論としてはこの両者は決してハツ
キリと切り分けられるものではないが、表現形式と
しては明確に「自己(ひ)」対「他者(たま)」と
して語られ、他者としての「たま」を鎮めることで

自分の「ひ」が顕われる、つまり自己が絶対的な秩
序の中に位置づけられるという関係にあるというこ
とができる
。「たま」を鎮めることによって、同時
に「ひ」の本来の能力を発揮・活動を開始するとい
う関係である。既に述べたように「たま」は集合表
であるが、「たましひ」は個体表象であるといえ
よう。「たま」は総称的単数であるが、個々人は「
ひ」という固有名をもって存在しており、この「ひ
」はそれぞれの自己においては「たましひ」という
存在形態でしか存在し得ないのである。個々人が互
いに正しく「ひ」を保ちあっている時、つまり各自
が世界の秩序の中で「与えられた能力」を十分に発
揮している状態にある時に、世界は目的と意思を持
った有機的秩序と見なされ、この状態が「弥榮」と
いう状態
であるということができよう。

          渡辺勝義『神道と日本文化』


┌─祭り型神道┬─宮中神道→宮中の祭祀
|       ├―
神社神道→通常の神社の祭祀
|       ├―民間神道→道祖神・田の神など
|       └―陰陽道系→土御門神道など
└-教え型神道┬―学派神道┬―復古神道
     |    ├―
理論神道→伊勢神道など
     |   ├―神仏習合

   |    └―神儒一致系
     └―
教派神道―-┬―山岳信仰
          ├―霊示系→天理教など
          ├―伝統神道系→出雲大社教など
          └―新思想系→
神道天行居など


渡辺勝義は「霊魂の行方」について、本田親徳の教
え(→古代に存在したとされる帰神-人に神を降ろ
す法-の復元を図り、鎮魂帰神を中核とする本田霊
学、①神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」、
②帰神を実現するための精神統一の修行法である「
鎮魂法」、③鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」
から構成)を紹介しつつ「葬送儀礼は死体から死者
を分離し、生者のカテゴリーに組み入れる行為」と
して、肉体は<亡骸>だからといって生ゴミとして処
分してはいけないと解説するが、「霊魂の行方」の
死後の参考文献がないとしながらも、本田親徳に習
い、それが如何に困難な道行きであろうとも、幽冥
貫徹せずんば止まずとの強固な覚悟と信念・情熱を
持って、優れた師に就き、自ら日夜の厳しい行を積
み、倦まず弛まずの霊的修行・鍛錬を経て後、霊肉
分離の高き境地を体験自得し、瞬時にこの現象世界
を離れて己が霊そのものと成りきって実存(存在・
神霊)世界に入り得てこそ、霊は霊に通じ、今まで
は到底わかり得なかった幽冥の事情もよりよく了解
し得ると括るが、ここでも重い言葉を残し終わる。
明日は、正月儀礼と訪(おとな)ひについて考えて
みる ^^;。





昨日のパスタを家で再現しようと彼女が腕を振るう。
アンチョビとオーリーブ、そしてガーリックにえぇ
~っと、なにか足りないというので、ジェノバ風味
がしたので松の実を入れてみてはと返事すると、そ
れはないとの返事。早速頂く。おぉ~っ、最高だと
歌う。パイナップル(学名:Ananas comosus 英:pin-
eapple
、中:鳳梨、菠蘿)は、熱帯アメリカ原産の
パイナップル科の多年草。単にパインと略して呼ば
れることもある。また、果実だけをパイナップルと
呼び、植物としてはアナナスと呼ぶこともある。名
前の由来は、果実の形が松かさに、味がリンゴに似
ているのでパイン(松)+アップル(リンゴ)とい
う説のほか、パインは松かさを意味するが、アップ
ルはリンゴではなく単に果物という意であるという
説がある。果物の「パイナップル」。花言葉は「あ
なたは申し分ない」。

 

パイナップルは多年草であり、実を収穫後、根茎か
ら再び芽を出し、これが成長すると先端部に結実す
る。しかしながら、収穫ごとに実が小さくなってい
くため、株を3年以上用いることは少ない。パイナ
ップルの果実といわれる食用部分は伸長した花序の
軸の周りに排列した小果実の付け根の部分が軸もろ
とも融合肥大し、多量の汁を含むようになったもの
で、真の果実は表面へ螺旋状に並んだ、硬化して食
べられない疣状の部分から果肉の表層までの部分で
ある。多くの市販品を生産している農園では遺伝的
に同一個体のクローンである同一品種ばかりを植え
るので、自家不和合性によって受精が、ほとんど起
こらず、果実内に種子ができていない。

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