ルッコラに リンゴと胡桃 サラダ添え パスタ差し出し パイナップルかな
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屈葬
【文化深層:霊魂とはなにか】
霊魂とは、人間(あるいは生物)が生きている間は
その体内にあって、生命や精神の源とされている存
在や概念で、当初は動物の内臓を指していたが、肉
体以外の部分の、人格的・非肉体的な存在を言い表
す表現で心と同一視される事もある。「生/死」の
意識化なのだが、御霊(みたま)とは、キリスト教
の新約聖書・福音書の中にでてくるギリシア語の神
の霊をさす単語プネウマの翻訳語で聖霊ともいうが、
人が死ぬと魂(→神をつかさどる精気を指し、肉体を
つかさどる「魄」と対比されている)が、霊(→す
ぐれて神妙なもの、神、こころ、いのちなど、多様
な意味を持っている)として、肉体を離れるという
考え方は、全世界共通で、日本においても、縄文期
に見られる屈葬に対する考え方の一つのように、原
始からその考え方は存在していたとされる。尚、「
霊魂」という言葉は「霊」と「魂魄」両方を含む概
念を指し用いられ、通常は、個人の肉体および精神
活動をつかさどる人格的な実在で、感覚による認識
を超えた永遠の存在を意味している。そして人間だ
けでなく、動物や植物にまで拡大して用いられるこ
ともある。
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Homo erectus tautavelensis
話しは換わるが、人類誕生以来、「霊魂」という概
念をいつごろから持つようになったかははっきりわ
かっていない。ホモ・エレクトス以前の古人類には
死者を埋葬した証拠がない。ネアンデルタール人は、
死者を埋葬し花を供えるなどの宗教行為を思わせる
遺跡があり、原初的な死生観を持ちえていた可能性
がある。クロマニヨン人などホモ・サピエンス段階
になると、より手の込んだ埋葬方法や墓制の存在が
あり、原始的な宗教観念と霊魂への慕情や恐れの観
念が明確だと思われる。
「死者の書」
多くの宗教は、人は死んでも意識或いはそれに近い
ものは霊魂となり残ると説く。霊魂は生前暮らして
いた土地に鎮まるとも、黄泉のような霊魂の住まう
世界に旅立つともいう。霊魂の存在は、規範などと
結びつけて語られ、キリスト教が説くように、生前
の行いに応じて天国や地獄の選別があり、あるいは
ヒンドゥー教のように霊魂は生前の行いに応じて転
生すると説く宗教も有る。仏教の大乗仏教でも、六
道の間を輪廻すると説いている。
「たましひ」の語源はどのように解されようか。そ
の語源説は『日本国語大辞典』によると、なんと13
種もあることがわかるが、西宮一民氏は次の三説、
つまり①「玉奇日」説(契沖『和字正監要略』)②
「玉之日」説(谷川上清『和訓栞』、③「活用する
力こ働いてゐる力」説(折口信夫「霊魂の話」)を
列挙してこれに批判を加え、結局、西宮氏は「たま
しひ」を「たま」+「しひ」(甲)の語構成で考え
るのが最も自然であるとして「しひ」に注目した。
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「シヒ」は『和名抄』を見ても「盲、米之比・聾、
美美之比・瘤、之比祢」とある等、すべて「痺ひ」、
即ち「しびれるよ機能を失う」の意であるところか
ら、たましひを「魂痺」の意と解した。金田一法則
では、複合語についてはアクセントは先部要素で考
慮するべきであって、後部成素をもっては論証不可
であるとされている。ところが西宮氏は「タマシヒ
」や「メシヒ」「シヒネ」「シヒナセ」などの「シ
ヒ」、いねば後部要素の検証を以てアクセントの面
からも問題なしとし、結局は「令集解」(令釈)の
鎮魂解釈と結びつけて「クマの麻燦」とは「あるべ
き場所(身体の中府)に魂魄がゐなくなってしまふ
」「まともな魂魄でなくなってしまふ」=「遊離魂
」であるとし、「タマ」と「タマシヒ」とは魂魄の
在り万に基づく命名で、両者には差があるのだとい
う。「クマ」と「タマシヒ」はそもそも語形が違う
のであるから「両者には差がある」という点には異
論はない。だが、「痺ひ」(「しふ」は四段動詞で
連用形は甲類=感覚・機能を失ふ)たる「タマ」の
状態・ことを意味するのであれば、「シヒタマ」あ
るいは「シフタマ」というのが自然であろう。「多
麻之比は朝夕に多麻布礼どあが胸痛し恋の繁きに」
(萬三七六七)の「タマシヒ」は「メシヒ」や「ミ
ミシヒ」などの所謂サマ名詞・コト名詞ではなく、
モノ名詞と解されるからである。「タマシヒ」を「
クマ」+「シヒ」といった語構成で捉えるのは現代
人の語構成意識であって、問題がない訳ではない。
筆者は「たましひ」の語構成は「クマ」+「シ」+
「ヒ」であると考え、『神道大辞典』第二巻の「タ
マシヒ」の項にあるように「言語的には魂之霊であ
らう」と解する。西宮氏は取り上げなかったが「魂
之霊」(タマシヒ)の「霊」(ヒ)は甲類であり、
「多麻之比」の「ヒ」が甲類であるのと一致する。
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では「たま」(魂)と「たましひ」(魂の「霊」)、
即ち「たま」と「ひ」とはどのような関係にあるの
であろうか。本質論としてはこの両者は決してハツ
キリと切り分けられるものではないが、表現形式と
しては明確に「自己(ひ)」対「他者(たま)」と
して語られ、他者としての「たま」を鎮めることで、
自分の「ひ」が顕われる、つまり自己が絶対的な秩
序の中に位置づけられるという関係にあるというこ
とができる。「たま」を鎮めることによって、同時
に「ひ」の本来の能力を発揮・活動を開始するとい
う関係である。既に述べたように「たま」は集合表
象であるが、「たましひ」は個体表象であるといえ
よう。「たま」は総称的単数であるが、個々人は「
ひ」という固有名をもって存在しており、この「ひ
」はそれぞれの自己においては「たましひ」という
存在形態でしか存在し得ないのである。個々人が互
いに正しく「ひ」を保ちあっている時、つまり各自
が世界の秩序の中で「与えられた能力」を十分に発
揮している状態にある時に、世界は目的と意思を持
った有機的秩序と見なされ、この状態が「弥榮」と
いう状態であるということができよう。
渡辺勝義『神道と日本文化』
- ┌─祭り型神道┬─宮中神道→宮中の祭祀
| ├―神社神道→通常の神社の祭祀
| ├―民間神道→道祖神・田の神など
| └―陰陽道系→土御門神道など
|- └-教え型神道┬―学派神道┬―復古神道
| ├―理論神道→伊勢神道など
| ├―神仏習合系
| └―神儒一致系
└―教派神道―-┬―山岳信仰系
├―霊示系→天理教など
├―伝統神道系→出雲大社教など
└―新思想系→神道天行居など - └-教え型神道┬―学派神道┬―復古神道
渡辺勝義は「霊魂の行方」について、本田親徳の教
え(→古代に存在したとされる帰神-人に神を降ろ
す法-の復元を図り、鎮魂帰神を中核とする本田霊
学、①神や霊を人に降ろす方法である「帰神法」、
②帰神を実現するための精神統一の修行法である「
鎮魂法」、③鎮魂で得た力の応用としての「禁厭」
から構成)を紹介しつつ「葬送儀礼は死体から死者
を分離し、生者のカテゴリーに組み入れる行為」と
して、肉体は<亡骸>だからといって生ゴミとして処
分してはいけないと解説するが、「霊魂の行方」の
死後の参考文献がないとしながらも、本田親徳に習
い、それが如何に困難な道行きであろうとも、幽冥
貫徹せずんば止まずとの強固な覚悟と信念・情熱を
持って、優れた師に就き、自ら日夜の厳しい行を積
み、倦まず弛まずの霊的修行・鍛錬を経て後、霊肉
分離の高き境地を体験自得し、瞬時にこの現象世界
を離れて己が霊そのものと成りきって実存(存在・
神霊)世界に入り得てこそ、霊は霊に通じ、今まで
は到底わかり得なかった幽冥の事情もよりよく了解
し得ると括るが、ここでも重い言葉を残し終わる。
明日は、正月儀礼と訪(おとな)ひについて考えて
みる ^^;。
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昨日のパスタを家で再現しようと彼女が腕を振るう。
アンチョビとオーリーブ、そしてガーリックにえぇ
~っと、なにか足りないというので、ジェノバ風味
がしたので松の実を入れてみてはと返事すると、そ
れはないとの返事。早速頂く。おぉ~っ、最高だと
歌う。パイナップル(学名:Ananas comosus 英:pin-
eapple、中:鳳梨、菠蘿)は、熱帯アメリカ原産の
パイナップル科の多年草。単にパインと略して呼ば
れることもある。また、果実だけをパイナップルと
呼び、植物としてはアナナスと呼ぶこともある。名
前の由来は、果実の形が松かさに、味がリンゴに似
ているのでパイン(松)+アップル(リンゴ)とい
う説のほか、パインは松かさを意味するが、アップ
ルはリンゴではなく単に果物という意であるという
説がある。果物の「パイナップル」。花言葉は「あ
なたは申し分ない」。
パイナップルは多年草であり、実を収穫後、根茎か
ら再び芽を出し、これが成長すると先端部に結実す
る。しかしながら、収穫ごとに実が小さくなってい
くため、株を3年以上用いることは少ない。パイナ
ップルの果実といわれる食用部分は伸長した花序の
軸の周りに排列した小果実の付け根の部分が軸もろ
とも融合肥大し、多量の汁を含むようになったもの
で、真の果実は表面へ螺旋状に並んだ、硬化して食
べられない疣状の部分から果肉の表層までの部分で
ある。多くの市販品を生産している農園では遺伝的
に同一個体のクローンである同一品種ばかりを植え
るので、自家不和合性によって受精が、ほとんど起
こらず、果実内に種子ができていない。
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