芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

町起こしの難しさ

2009年03月21日 | Weblog
「もぅす」2号に依頼されて書いた、[登米に残る洋館」の一つ、洋裁学校を取り上げてもいいか、仙台に居住されるその所有者、菊地氏に電話で許可を貰ったとき、書いたものをごらんにいれると約束していたので、そのとき聴いたご住所のメモを探したがなかなかみつからない。電話で、ひどく忙しいのに電話なんかしないでくれと言われ、恐縮して、大事に仕舞い過ぎたらしい。
元々が、探し物ばかりしている性格な上にこういうことだから、見付けるのに2日かかってしまった。今日、礼状を添えて、明日、メール便を取りにきてくれるように手配した。何しろ、400字のコラムであるから、文字通り触れるだけで終わった。こんな程度の触れ方で電話などするなとまた、怒られそうだ。
こういう方には、はっきりといわないと勘ぐられるから、原稿料代わりに貰った[もぅす」2号の5部のうちから一部をお送りすると記した。町起こしの役に立てば程度で、私自身も書いているので、大した文章にもなっていない。その点も突つかれるかもしれない。なかなか難しい町である。

「もぅす」2号

2009年03月20日 | Weblog
塩釜の人が芳賀邸見物に来た。一昨日は、東京の松本さんという人が見物に来て、非常に熱心に見て行った。和洋折衷建築に興味のある人が結構いるのだ。その塩釜の人が見物中に鈴隆が、「もぅす」2号を5部持って来てくれた。原稿料がわりに余分にくれたのだそうだ。私も「登米に残る洋館』という題で書かされたのだ。次号は、北上川に関連して発行を予定しているというから、丁度、私が、「良い会」の平泉から、石巻まで漕ぎ下る企画で北上川を車とモーターボートで上下して下見をした話をした。将来は、船をトヨマにおけるように艇庫を作りたいので、北上川河川管理米谷出張所に電話で艇庫を作る為の問題点を聞いたから、それを北上連邦なり、カッパの会と協力して行きたいという考えを伝えた。
艇庫を作れば、そこに置く船はなんとか造船できるであろうことも伝えた。フォアーにしろ、シックスにしろ船を用意するには中央の日本ボート協会の協力がいるが、それは、中央で、今でも漕いでいる仲間の協力を期待している。実現すれば、トヨマを中心に事が運べるようになる。町起こしにはうってつけだ。


軍場山の田んぼ

2009年03月19日 | Weblog
春を通り越したような、陽気に誘われ、軍場山の田んぼに行って、シャベルで薄や蔓薔薇の根を掘り起こし、坊ちゃんカボチャを植える準備をした。
田んぼに生えてきた雑木を切って帰りに引きずってきた。畑掘りで汗をかき、木きりで汗をかき、それを引きずるのにまた汗をかいた。この木は、我が家の庭に、今ブロック塀で支えられ、皮一枚で立っている梅の老木を、ブロック塀を取り払ったあとに、支えるのにつかう。あと、3本くらい切らなけらばならないが、運ぶのに途中十回くらい休んでの結構な労働だった。
田んぼは、3枚ある。もう一枚あったのだが、向かいに住んでいる親戚に田んぼを耕作させていた時に、国土調査があり、実測で一枚分余ったのを、その親戚が勝手に他人に売ってしまったので、一枚分減ってしまった。親戚だからと気を許すとこういうことになることを知った。他人のほうが信頼できるのかもしれない。
仙台の長谷川君が、久美子夫人のリュウマチを治す為に、人参のジュースを毎日飲ませているといって、安い人参を求めにやって来た。丁度、ムカデ屋で、10キロ480円のを二袋売っていたので、買っておいてやったら、取りにきて、自分でも畠をやりたいというから。軍場山の田んぼを見せて、好きなだけやれば好いと一枚提供することにした。私には、3枚も畠を耕す能力はないから、せいぜい一枚あれば好い。軍場山の田んぼは、山を切り開いて開田したものだが、その後、米価が下がり、農政が減反政策に変わったので、親戚の耕作をやめさせ、減反したままで、荒れ放題である。この数十年その畦に植えてある柿を採りに行くくらいしか利用していなかった。しかし、佐藤元大工さんの勧めでぼっちゃんカボチャを植えることにしたのだ。

インターネット時代の制度改革

2009年03月18日 | Weblog
今朝の「河北新報」に女の仙台副市長と仙台市政策調整局長が辞任と報じられた。
梅原仙台市長が、県立高校一律男女共学化に反対する手紙を宮城県教育長や教育委員に出したから中立性を持たなければならないのにそれに反したから仙台市長を支えられないのだという。
政治的な意図もあるであろうし、その教育長時代に、文部省からの命令に従って、一律男女共学化を決定することで、教育長の地位を守れたのであろうが、この女副市長は、東北大学という大学を出ていながら、米国による日本占領政策をまるで学んでいないらしい。
以前に記したが、仙台に駐留したGHQ は、宮城県高校の一律男女共学化を命令したが、当時の仙台一高校長は、職を賭して、その命令を突っぱねて男子校を守ったのだ。
その後、日本の米国化の一環で、米国流の男女共学化が漸次進められ、宮城県もやっと米国並になろうとしているのだ。
しかし、当の本国の米国では、男女共学の誤りに気付いて、教育制度を大きく変えようとしているのは、先日のオバマ大統領の就任演説で明らかだ。
学校の中の犯罪は、男女共学の米国で、銃乱射事件としても良く報じられているが、急激に米国化を進めた小泉政権の時から、日本でも、異常な事件が連続して起こっている。
男女別学であれば、起こらない事件が、男女が一緒に入る為に、お互いを意識して、嫉妬心を異常に大きくしてそれが表面化した時に、異常ないじめや、殺人に結びついていると思われる。
前にも記したが、年頃の男女は、直ぐそばにいて意識するよりは、距離を持って意識しているほうが、男同士、女同士で妙な争いをしないで済むのではないか。男女何歳にして席をおなじゅうせずなどという、古くさいことを言うのではなく、男女の微妙な関係は、まだ小さいうちから、始まるので、それをうまく昇華させるのが、教育である。
植民地本国の教育制度が変わるのに、末端の仙台が変わらないのは、昔から、文化が伝わった地方では、いつまでも、古いものが残り、発信している本国ではどんどん新しくなるという文化の伝播の性質による。しかし、古都京都の文化が、今も平泉に残るが、例えば、つれづれの意味の、徒然という言葉は、この地方に残っているが、発信地の京都では死語なのだ。
すでに、変えられようといしているのが分かっている、男女共学のあり方をこれから教育制度に取り入れるというのは、このインターネットの時代に、平安時代の情報伝播形態を維持しているようなものだ。
この制度のあり方は、仙台ばかりではなく、もっと田舎の登米市でもそうである。例を挙げだしたら枚挙にいとまがないといえる。

カラバット考

2009年03月17日 | Weblog
カラバットは音の感じから、アイヌ語かもしれないと思ったが、そうではなかった。
脇谷閘門まで見送ってくれた邉見さんが閘門の仕組みを説明してくれた時、運河でなく、洗いぜきの部分をカラバートといったので、川の反対側にあるカラバットというのは、これからきたのではないかと尋ねたところ、そうだという。何語かは分からないが、この水路を言うのだそうだ。帰宅したら、齋藤幸子さんからメールで、カラバートがなまったものだと放送大学で教えられたと、教示してくれていた。何語から来ているのか分からないので、調べたら、なんと英語のculvertである。語源は、COLという濾すことを意味するラテン語から来ているのかもしれないが、ペルシア語の暗渠井戸を意味するカナートもその候補になる。
いずれにしろ、カラバートが、カラバットになるのは、日本語の音韻変化の性質に従っている。アイヌの子孫が多い、この地域ゆえ、典型的に日本語化していたから、アイヌ語かと思わされた。
例えば、イラークの首都バグダードは、アラビア語から英語をへて日本語になると、バグダットとなる。
最近道路標識や地下鉄の駅名で地名に濁音が入らなくなっている。例えば、白金は、シロカネとなっている。言語も日本は米国語化しているのだ。それが嬉しい国会議員のやからが、英語教育をやたら叫ぶのだ。それより、もっと漢字を読めるよう日本語教育をしろと言いたい。

北上川下見(続)

2009年03月16日 | Weblog
海老紋旅館の玄関前に一時間半立たされてから、トヨマの同級生と呑むときに、「おら、小学校以来、立たされだごどねえのに、海老紋の先生にこの年になって初めて立たされてすまった。しかも、バケツならぬ資料の入ったザックをしょわさえで」としばらくは、好い話題にさせてもらった。それやこれや伊達宗弘さんの出版記念パーティーの裏方としての話し合いの経緯から、登米の町起こしにはちょっと距離を置いている。自分の気が向かないとやらないことになった。
ボートは、昔のボート仲間が各大学の壁を越えて、同じ楽しみを分かち合えるからやる。全く自分本位に。
朝8時過ぎに石巻艇庫を出発。見送りにきた邉見さんが脇谷閘門まで、浅瀬に乗り上げないのを見る為、伴走してくれた。
今回、風邪を引いていたにもかかわらず、氷雨の中を北上川をモーターボートで岩手県側の川崎町まで遡った。昼過ぎてから風も出てきて、寒さに震えながら、川崎防災センターにたどり着き、そこで、宿直の男女に熱いお茶を出してもらったの時は、地獄で仏に会った気分だと皆で感謝し、石巻の水産加工会社の佐々木社長が差し入れてくれた、アワビやマグロのとろが載った豪華弁当に舌鼓をうった。石巻の邉見さんの知り合いだというと、直ぐに休みのセンター長が来てくれて、実際のボート遠漕の時は協力を惜しまないといってくれた。
帰りは、私は、トヨマの船着き場で下りた。

北上川下見

2009年03月15日 | Weblog
3月13日(金)に平泉の高舘橋の下にある船着き場から舟を下ろして下ることで確認した。この場所を教えてくれたのは、石巻の邉見清二氏だ。そこから橋を渡って、左岸沿いにトヨマまで下ってきた。6月22日からの週の日に川を漕いで下り、トヨマに一泊するので、まず、宿を紹介してくれというので、角山旅館を紹介した。海老紋旅館は、前に触れたかもしれないが、トヨマの旅館組合の組合長だというから、登米の旅館にどうすれば、トヨマに客を誘致できるか四つの旅館の人達に集まってもらって話をしたい旨重い資料をザックで背負って行って話したが、「自分の旅館は年間50人しか宿泊客がいないから、食堂としてやって行く、今まで何をやっても駄目だった。そもそもがほかの旅館は皆敵だ」といって憚らないので、説得をしたが一時間半玄関前に荷物を背負ったままで立たされて成果を得られなかった。60歳前後の旅館主であるが、人を立たせたままで話を聞くというのがそもそも接客業にむいていない。もう一軒の海老武旅館は、私の家に来た東京の人たちが、我が家に迷惑をかけたくないと、海老武旅館に泊まったが、夕食後部屋に戻って、しばらくすると、夜中の12時頃に食堂で飲食していた別の客たちが、上がってきて隣りの部屋で飲食を始め、遅くまで宴会していたため寝られなかったと言っていた。これも接客業に向いていない。もう一軒のホテル望遠閣は、川から遠いので候補から外した。
角山旅館の若い主人が出てきたので、6月に平泉方面から船を漕いできて30人くらいで泊まりたいが、一人いくらか聞くと、7000円だという。「あれ、オレは、6000円台と聴いてッけんと」というと、「6,500円からです」と若主人は言う。海老紋旅館といい、角山旅館といい、若主人は、どうしてこう駄目なのだろう。まとまった団体が泊まるなら、これだけのサービスが出来ますとか積極的に割引などのはなしをすればいいのに、いきなり、高いことを云う。30人の人がまとまってくるということは、それだけその団体を引き連れるには、健康面やらとりまとめやら、細かい問題を解決しなければならない。そんなことに思いが至らないところに、素人のような接客の仕方を感じる。平泉は、大きな観光地なのに、6000円の宿を見付けてきているのだ。それが、この程度の観光地で、このようなことを云うというのは、棚ぼた式の客が来たら、出来るだけぼったくるという発想だ。海老紋に断られたから、指導できなかったが、ほかの旅館もこの調子であろう。私としては、この遠漕をきっかけに、将来、北上川を下る遠漕を毎年出来るように、全国にトヨマを知らしめ、定着させれば、町の活性化の一つに育てらると思って、東京から来た仲間に協力を惜しまないのだ。この息子は、海老紋と同じで料理を作るばかりで、接客業の修行をしていないと、とりあえず、部屋を見せてほしいと部屋を見ているところに、奥から、親父が出てきた。この親父に説明すると、これはよく分かっていて、お客さんのご希望に応じてやりす、という。そこで、私が、「少し話し合いをすっから、お茶を出してけらい」といって、5人で玄関内の椅子に座らせてもらって、話をした。親父は、はなしが終わってから、表通りまで車の我々を送ってくれた。こうでなくては、と思った。

石巻に行く

2009年03月14日 | Weblog
昨日、川島誠一氏が、朝10時頃に迎えにきた。石巻に6時について、8時過ぎまで、店がどこも開かなかったのでそれまでの時間を喫茶店もなく、大変だった。大きな町だと思ったけれど、東京とは違うね。と言っていた。一応仙台に次ぐ宮城県第2の町ですと説明しておいた。夜、カーサデコスタという宿から、タクシーで喜八櫓へ行く時に、運転手が石巻は、もう陸の孤島で駄目です。と言っていた。人口減少が続いているそうだ。しかし、町並みにはなかなか良いところがある。うまくやれば、古い町として観光で大きくできる。しかし、朝、モーターボートを出す石巻商高の艇庫に送ってくれた、石巻信用金庫の栗原さんは、魚の町という考えが強いから、なかなか変わらないと言っていた。
喜八櫓を予約してくれた佐々木正彦氏、木村長努氏、栗原さんら、いずれも石巻水産に関わる人達で、エイトを漕ぐ会で、エイトを買って新艇を持っている。寂れてきているといっても金持ちだ。
カーサデコスタは、石巻専修大学の寮の予定だったが、思ったほどの学生が入らなかったので、ホテルにもしているそうだ。
素泊まり、3800円と安い。
我が家から川島誠一氏に拉致されて、平泉に行き、東京から車できた41年卒業の東大OB 大隅 多一郎氏、早稲田佐藤さん、本間さんなどと落ち合った。川島誠一氏も東大OBだそうだが、現役の頃は漕がなかったそうだ。2年後輩の加藤登紀子もボートを漕いだ仲間だそうだ。

北上川の下見の準備

2009年03月13日 | Weblog
今日は、東京側から、川島誠一さんという人が、石巻まで夜行バスで来て、レンタカーで私を拉致しにくるのだそうだ。そのあと、平泉方面へ行き、邉見清二氏が教えてくれた北上川の船着き場を確認に行き、ナックルを運んで着水しやすいところを見る。
夜は、石巻の喜八櫓というところで開く懇親会に邉見氏共に招かれている。
昨日、照るちゃんの車で守んツアンとともに脇谷閘門を見に行ってきたから、明日そこをモーターボートで通るのに支障がないことも確認した。前回下見に来た岸田氏は、脇谷閘門からの放流が強く、危険だから、登りをやめ、平泉方面からナックルで下る方式にしたのだが、私にはそれほど危険とは見えなかった。
守んツアンも脇谷閘門は見たことがないというので、昨日初めて見たのだが、その北上川を堰とめている反対の端が、カラバットというので、よく呑みながらのはなしに出てくるから、私もカラバットを見たいと思っていた。カラバットと脇谷閘門の間が工事中で、車で行けないから、一旦豊里に行き、橋を渡ってトギ波に行ってカラバットを見た。汽車で柳津に往復している頃に見た、浪だっているところであった。鮎の稚魚をそこで捕るのだそうだ。カラバットとは、何語か、アイヌ語かもしれない。或は、そのあらいぜきを言う他の言葉かもしれない。

政治の頽廃

2009年03月12日 | Weblog
政治ショウ、世論操作ばかりが目立つ、このごろの報道である。
幼い時に母親が拉致され、そのゆかりを訪ねるという心理的意味で、男の子にとって嬉しいには違いないが、その母親が生きていると日本語を教えられていらい会ってもいない、北朝鮮工作員の言葉に信頼性があるのであろうか。仮にあるとしたら、死刑を特赦で免れた北朝鮮工作員がいまだに北朝鮮と連絡を取っているなどあり得ないのではないか。もし、連絡をとれているなら、北と南の間に、表面的に敵対していながら、内実はお互いに親密な関係かもしれない。同じことは、日本と北朝鮮の間にもそういう関係があるのかもしれない。というのは、大分前に、北朝鮮に米を支援で送ってその見返りの金を金丸信が受け取っていて、それが、脱税で十万円の罰金刑を言い渡されたことがある。その金の出所を追求されないままに被疑者死亡でうやむやになった。その後、朝鮮銀行がつぶれかかったとき、それを潰すと、北朝鮮との金のやり取りが暴露されるので、国民の税金で朝鮮銀行を救ったという経緯があった。
小沢第一秘書の突然の逮捕と、そのあとのNHKなどによる、小沢やめろアンケートも不可解なまま当局から流されている情報の垂れ流しに基づいてものだ。
敗戦後これまで60年以上続いてきた米国の傀儡政権は、腐りきっているのだ。米国政権に敵対する発言をした途端、CIAなど、日本に張り巡らされたスパイ網がちょっと目立つ政治家の個人情報を調べ上げていて、引きずり下ろす道具にする。かつて、米国政権の許可なく中国との国交を回復した田中首相が米国のコーチャンという男に収賄をばらされて、そのスキャンダルがマスコミ操作で大々的に取り上げられた。米国に反目したりしたら、たちまちスキャンダルをばらまかれるのだ。
かつて、テレビに出てくる米国人批評家がどういう発言をするか興味を持ってみた事があるが、米国政権が日本政府に要求している貢献をやんわりと支持しているのだ。そのような操作が今でも行なわれているところに、政治の頽廃が感じ取られる。
傀儡政権は独裁政権になるか頽廃する。