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ぽかぽか春庭「郡山・安積開拓資料館」

2014-10-05 00:00:01 | エッセイ、コラム

開成館前で

20141005

ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記9月東北旅行(2)郡山・安積開拓資料館

 郡山市の開成館(安積開拓資料館)で、80代くらいのおじいさんが、息子さん(たぶん)といっしょに、前後しながら同じ時間帯に見学していました。
 おじいさんが「どこから来たか」と聞くので「東京からです」と答えると、「わたしらは、すぐ近所に住んでいるのに、この年になるまで、開成館を見学することもなかった。やっと来ることができて、こんな立派な建物を見て、天皇様のお泊まりになったところを見て、よかったです」という意味のことを話していました。たぶん、そういう話だったろうと思うのですが、今では若い人の間ではあまり話されなくなったという「純粋福島方言」だったので、聞き取れないところもありました。福島方言を聞けてうれしかったです。

 開成館の前で、息子さんとおじいさんのツーショットのシャッターを押してあげて、次に息子さんに頼んで私のカメラのシャッターを押してもらいました。(トップ画像がそうです)

明治天皇東北巡幸図


開成館の明治天皇行在所(あんざいしょ)


 安積(あさか)開拓については、安積疎水の名を近代史の本で読んだ程度で、詳しくは知りませんでした。
 安積疎水事業は、徳川幕府にはできなかった近代的土木事業を、地方の人々にも見せて、明治新政府の威光を示す、という意気込みで、明治12年に始まりました。国家直轄の農業水利事業の第一号です。

 水利がなく、荒れた原野が広がる不毛の地だった安積の地に、猪苗代湖から疎水をひき、水田に変えようという大事業、明治12年からのべ85万人の労働力、現在の貨幣価値だと400億円にあたる予算をつぎ込みました。

 安積疎水。幹線水路の延長52km、分水路78km、トンネル37か所、約 9,000 haの水田となり、全国でも有数の米作地帯となりました。

 安積開拓の目的のひとつは、不平士族対策です。明治維新後、藩が廃止されて、士族は禄を失いました。失業士族の反乱が広がったら、脆弱な明治政府は倒れてしまいます。1878(明治10)年の西南戦争以後、士族の再就職先として、明治政府が考えたのが、開拓事業。士族を農民として定着させるための「安積開拓」でした。

 開拓の歴史を示すパネルには、各地から集められた士族名の記録があり、開拓指導者として、安積開拓の父と呼ばれる中條政恒(元米沢藩士)が紹介されていました。

 中條の孫にあたるのが、中條ユリ(結婚後のペンネームは宮本百合子1899 - 1951)でした。百合子が17歳で書き上げた「貧しき人々の群れ」は、祖母が住み続けていた安積の桑野村での滞在経験を記録した、などが、「安積開拓120年記念誌」にも紹介されていました。

 開成館には、開拓農民の家の移築復元が3棟ありました。
 開拓民は、9つの旧藩から約500戸が入植しました。家の大きさにもランク付けがきっちり決められていて、一般入植者の家、リーダー格である副頭取の家、政府側官員の官舎、それぞれの大きさや設備も異なります。

安積開拓入植者住宅-旧小山家(一般入植者の家)
 明治15年に建てられた一般開拓民の家。土間(3坪)と板の間(2.5坪)座敷(8畳敷大のむしろ敷の座敷)。


 安積開拓入植者住宅-旧坪内家(鳥取藩からの入植者たちの中で副頭取をつとめた坪内元興の家)(坪内家画像は借り物です)


 安積開拓官舎・立岩一郎邸(政府側の開拓責任者の官舎)


 旅先で「ご自由にお持ちください」というパンフレットがあるとたいていもらってくるので、帰りのリュックが重くなるのですが、開成館の「ご自由に~」のところに『安積開拓120年記念、先人の夢に逢う』という立派な冊子がありました。郡山市の市史編纂室の編集による安積開拓史、行き帰りの電車で読んだので、安積開拓の歴史について、今まで知らなかったこと、いろいろ知ることができました。

 このコラムに書いた安積開拓のあれこれについては、この開拓史冊子を参考にさせていただきました。編集代表者山崎義人さんほかの方々、労作を無料でいただきました。市の費用で編集して配布した冊子、たぶん郡山に関係ないのに一番熱心に読んだ読者は私だと思います。

<つづく>
コメント (6)
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