20141021
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>芸術の秋(3)初秋のコンサート
私にとっては、「食欲の秋が一番!」といえますが、食欲は秋に限らず一年中なので、ここは「芸術の秋」と言っておきましょう。
東京は、世界有数のアート都市でもあります。音楽も美術もお楽しみがいろいろです。
空気が悪い、車や人が多すぎる、物価が高いなど、東京の悪いところは多々あれど、少々は東京にいいところもある。東京で暮らすことのメリットのひとつが、無料でまたは低料金で楽しめるコンサートがいつもどこかであること。
絵が好きで音楽が好きなら、東京で退屈することはありません。自然が好きな人には物足りない環境ですが、前回のシリーズで紹介したように、カワセミが見られる自然もあり、駒場野公園の田んぼ、後楽園庭園の田んぼなど、ほんのままごと程度ながら田植え風景稲刈り風景を楽しめる公園もあるので、散歩環境もそれなりに。
夏から秋にかけて、無料コンサートいろいろ楽しみました。
一年中、無料でアマチュアの演奏家による演奏会が開催されています。日本のアマチュア音楽演奏レベルは、とても高いものだと感じます。日本でクラシック楽曲の練習をする層がそれほど厚いということでしょう。各区や市町村それぞれにオーケストラがあり、室内楽サークルがあり、大学ごとにオーケストラがあって定期公演会をしています。
8月31日に、友人から招待券を譲ってもらい、「都民交響楽団」の第118回定期演奏会に行ってきました。「都民交響楽団」は1948年に創立され、以来66年間アマチュアとして練習演奏を続けてきたオーケストラです。
私は、はじめて聞きました。
8月31日の曲目は、指揮・末廣誠による、バルトーク『舞踏組曲77番』組曲『中国の不思議な役人』、ブラームスの『交響曲1番ハ短調』
『中国の不思議な役人』は、もともとバルトーク作曲、メニへールト脚本のハンガリーのお芝居。原題はmandarin(マンダリン)。
北京標準語のもとになった北京官話のことを、マンダリンと呼ぶことがあるのですが、マンダリンとは、中国宮廷につかえる官僚のこと。
皇帝のおそば近くにつかえる高級官僚となると、その多くは宦官でした。19世紀西欧ではマンダリンという語から、真っ先に連想するのは「去勢を受けた役人」ということ。それで、日本語のタイトルは、直訳的にいうなら「中国の宦官」になるべきところを、「中国の不思議な役人」としたのでしょう。
際物やフリークが大好きだった寺山修司が、mandarin(マンダリン)を下敷きにした『中国の不思議な役人』を初演したのは1977年。私が見たのは、1978年の再演だったかと思います。中学校演劇部で指導した子が出演していたからです。ほとんどセリフのない役でしたが、寺山はオーディションで、彼女のガリガリにやせた体を気に入り、セリフ練習などはいいから、「その体型を維持すること」という採用条件を出したのだそうです。劇には、「超太っていて身動きできない肉のかたまり」のような女性や、いわゆる倭人(こびと。政治的に正しい言い方だと、身長発達にご不自由な方)などが入り乱れて出演し、まか不思議な舞台空間だっと今でも印象に残っています。
殺されても殺されても死ぬことができずに蘇ってしまう役人。真の安らぎを得て死ねるのは、純粋な少女に真実の愛を与えられたときのみ。って、100万回生きたネコみたいですね。
今回のオーケストラはバルトークの曲のほうですから、寺山ほどの猥雑さやエロスはなかったですけれど、難しいメロディや複雑なリズムを、じょうずに演奏していました。
ブラームスの交響曲1番の4楽章の主題、大好きなメロディです。鼻歌で口ずさみやすいメロディ。
第1番の作曲にあたって、ブラームスは、ベートーベンを意識したと言われ、べートーベンが残した未完成の曲を引き継いだという意味で「ベートーベンの交響曲10番」と呼ばれることもあるのだとか。ブラームスは、交響曲を書くからには、ベートーベンに匹敵する、あるいは超える作品を書きたいと願い、何度も楽譜を書き直して、完成までに20年を要したそうです。
う~ん、完成までに20年か、、、、、20年の間には、ほかの曲も作っていたのですけれど、それだけ思い入れのある作品を残せたってこと。
ブラームスは、日本に来たシーボルトの従姉妹と婚約したけれど破談にして、生涯独身ですごしました。理由は、シューマン未亡人クララを慕い続けたからだ、とうわさされました。
ブラームスの子孫にあたるヘルマ・サンダース=ブラームス(1940-2014)が監督した映画『クララシューマン愛の協奏曲』は、ブラームスが生涯を通じてクララに純愛を捧げた、というストーリーでした。
テレビ放映で見たのか、ギンレイホールで見たのか忘れましたが、ともに音楽を語り合える愛、クララが死ぬまで続きました。14歳年上のクララが亡くなると、ブラームスもまもなく亡くなっています。むろん、「いや、二人は恋愛関係などではなかった、あくまでも友人だった」という見方もあります。しかし、それが恋愛感情だったにせよ、純粋な友情だったにせよ、他の女性には目もくれず、クララと交友を続けたブラームスの一途さは、20年の間、第1交響曲の作曲を続けた粘り強さとともに、印象に残りました。
20年書けて成し遂げるほどのことは何も持たない私ですが、よい音楽に身を浸せば、さて、あと20年くらいはよぼよぼとでも生きていこうという気持ちがわいてきます。
都民交響楽団のみなさん、よい音楽をありがとうございました。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>芸術の秋(3)初秋のコンサート
私にとっては、「食欲の秋が一番!」といえますが、食欲は秋に限らず一年中なので、ここは「芸術の秋」と言っておきましょう。
東京は、世界有数のアート都市でもあります。音楽も美術もお楽しみがいろいろです。
空気が悪い、車や人が多すぎる、物価が高いなど、東京の悪いところは多々あれど、少々は東京にいいところもある。東京で暮らすことのメリットのひとつが、無料でまたは低料金で楽しめるコンサートがいつもどこかであること。
絵が好きで音楽が好きなら、東京で退屈することはありません。自然が好きな人には物足りない環境ですが、前回のシリーズで紹介したように、カワセミが見られる自然もあり、駒場野公園の田んぼ、後楽園庭園の田んぼなど、ほんのままごと程度ながら田植え風景稲刈り風景を楽しめる公園もあるので、散歩環境もそれなりに。
夏から秋にかけて、無料コンサートいろいろ楽しみました。
一年中、無料でアマチュアの演奏家による演奏会が開催されています。日本のアマチュア音楽演奏レベルは、とても高いものだと感じます。日本でクラシック楽曲の練習をする層がそれほど厚いということでしょう。各区や市町村それぞれにオーケストラがあり、室内楽サークルがあり、大学ごとにオーケストラがあって定期公演会をしています。
8月31日に、友人から招待券を譲ってもらい、「都民交響楽団」の第118回定期演奏会に行ってきました。「都民交響楽団」は1948年に創立され、以来66年間アマチュアとして練習演奏を続けてきたオーケストラです。
私は、はじめて聞きました。
8月31日の曲目は、指揮・末廣誠による、バルトーク『舞踏組曲77番』組曲『中国の不思議な役人』、ブラームスの『交響曲1番ハ短調』
『中国の不思議な役人』は、もともとバルトーク作曲、メニへールト脚本のハンガリーのお芝居。原題はmandarin(マンダリン)。
北京標準語のもとになった北京官話のことを、マンダリンと呼ぶことがあるのですが、マンダリンとは、中国宮廷につかえる官僚のこと。
皇帝のおそば近くにつかえる高級官僚となると、その多くは宦官でした。19世紀西欧ではマンダリンという語から、真っ先に連想するのは「去勢を受けた役人」ということ。それで、日本語のタイトルは、直訳的にいうなら「中国の宦官」になるべきところを、「中国の不思議な役人」としたのでしょう。
際物やフリークが大好きだった寺山修司が、mandarin(マンダリン)を下敷きにした『中国の不思議な役人』を初演したのは1977年。私が見たのは、1978年の再演だったかと思います。中学校演劇部で指導した子が出演していたからです。ほとんどセリフのない役でしたが、寺山はオーディションで、彼女のガリガリにやせた体を気に入り、セリフ練習などはいいから、「その体型を維持すること」という採用条件を出したのだそうです。劇には、「超太っていて身動きできない肉のかたまり」のような女性や、いわゆる倭人(こびと。政治的に正しい言い方だと、身長発達にご不自由な方)などが入り乱れて出演し、まか不思議な舞台空間だっと今でも印象に残っています。
殺されても殺されても死ぬことができずに蘇ってしまう役人。真の安らぎを得て死ねるのは、純粋な少女に真実の愛を与えられたときのみ。って、100万回生きたネコみたいですね。
今回のオーケストラはバルトークの曲のほうですから、寺山ほどの猥雑さやエロスはなかったですけれど、難しいメロディや複雑なリズムを、じょうずに演奏していました。
ブラームスの交響曲1番の4楽章の主題、大好きなメロディです。鼻歌で口ずさみやすいメロディ。
第1番の作曲にあたって、ブラームスは、ベートーベンを意識したと言われ、べートーベンが残した未完成の曲を引き継いだという意味で「ベートーベンの交響曲10番」と呼ばれることもあるのだとか。ブラームスは、交響曲を書くからには、ベートーベンに匹敵する、あるいは超える作品を書きたいと願い、何度も楽譜を書き直して、完成までに20年を要したそうです。
う~ん、完成までに20年か、、、、、20年の間には、ほかの曲も作っていたのですけれど、それだけ思い入れのある作品を残せたってこと。
ブラームスは、日本に来たシーボルトの従姉妹と婚約したけれど破談にして、生涯独身ですごしました。理由は、シューマン未亡人クララを慕い続けたからだ、とうわさされました。
ブラームスの子孫にあたるヘルマ・サンダース=ブラームス(1940-2014)が監督した映画『クララシューマン愛の協奏曲』は、ブラームスが生涯を通じてクララに純愛を捧げた、というストーリーでした。
テレビ放映で見たのか、ギンレイホールで見たのか忘れましたが、ともに音楽を語り合える愛、クララが死ぬまで続きました。14歳年上のクララが亡くなると、ブラームスもまもなく亡くなっています。むろん、「いや、二人は恋愛関係などではなかった、あくまでも友人だった」という見方もあります。しかし、それが恋愛感情だったにせよ、純粋な友情だったにせよ、他の女性には目もくれず、クララと交友を続けたブラームスの一途さは、20年の間、第1交響曲の作曲を続けた粘り強さとともに、印象に残りました。
20年書けて成し遂げるほどのことは何も持たない私ですが、よい音楽に身を浸せば、さて、あと20年くらいはよぼよぼとでも生きていこうという気持ちがわいてきます。
都民交響楽団のみなさん、よい音楽をありがとうございました。
<つづく>