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ぽかぽか春庭「ユトリロとヴァラドン展」

2015-05-14 00:00:01 | エッセイ、コラム


20150514
ぽかぽか春庭アート散歩>新緑アート(3)ユトリロとヴァラドン展in東郷青児美術館

 5月6日、娘と新宿高島屋でランチしてから、娘は東急ハンズ手作り講習会へ。私は、東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館へ行きました。
 (美術館名が長すぎる。こんな長い名前、だれも覚えない。会社名を知らせたくて美術館の名にくっつけているなら、逆効果だと思うけれど。第一に、損害保険ジャパンと日本興亜損害が合併したとき、ジャパンと日本を重ねるへんてこりんに異議申し立てが出ず、互いに自分ちの社名を残すことに汲々としたんだろうなあと、会社ってたいへんね、と思います)。

 新宿高層ビル群の42階にあり、隣の野村ビルの展望ロビー、東京都庁とともに、新宿から東京を眺めたいときにいい場所です。絵を見ないで、展望ロビーから高層ビルの景色を眺めるだけなら、入場券いらない。
 バブル最盛期に保険屋のおっさんが、ゴッホのひまわりを58億円(落札値53億+手数料など)で落札したことで有名になった会社。ひまわりが常設展示されているのはうれしいけれど、できるならガラスケースの中に納めるのではなく、じかに見たい。破損などが心配ならホケンをかけたらどうだろうか。アハハ。
 なんぞといらぬことを考えながらロビーからソトを眺めてしばしすごす。

 「ユトリロとヴァラドン母と子の物語-スュザンヌ・ヴァラドン生誕150年-」というこちらもタイトルが長い展覧会。
 今回の展示で気になったのは、ヴァラドンの名が「スュザンヌ」という日本人には発音しにくい表示になっていたこと。外国人名は現地での発音に典拠するが、通称発音が普及している場合は、通称でよい、というのが外国人名表記の原則だから、「シュザンヌ」あるいは「スザンヌ」というこれまでの名でいいと思うのに、なぜゆえにスュザンヌなんて表記にしたのやら。ヴァラドンは、バラドンでもいいと思うのだけれど、私がヴァラドンにしているのは、バラドンとキーを打つと薔薇丼と出てくるから。薔薇ジャムなんぞがご飯の上にのっていそう。

 シュザンヌ・ヴァラドン(Suzanne Valadon, 1865-1938)
 モーリス・ユトリロ(Maurice Utrillo, 1883-1955)

シュザンヌと7歳のモーリス


 私が上村松篁を知ったのは「上村松園の息子」としてだったけれど、ヴァラドンのことは「ユトリロの母」として知りました。日本でモーリス・ユトリロの人気が抜群だったころ、モーリスを未婚の母として生んだ母親もまた画家であったこと、まだあまり知られていませんでした。

 あちらで1点、こちらで1点とヴァラドンの作品を目にするたびに、解説に「ユトリロの母親」と出ていて、ヴァラドンを認識しました。
 シュザンヌ・ヴァラドン(本名はマリー)は、貧しい洗濯女の私生児として出生し、母とともにパリに出てきて、母は家政婦、少女マリーもさまざまな仕事をして働き続けました。華やかな世界にあこがれるマリーは、サーカスの芸人として成功を目指したけれど、空中ブランコから落下し、怪我のために断念。その後は美貌を望まれて絵画モデルとして生計をたてました。

 老大家シャバンヌ、人気絶頂のルノワール、などの画家のモデルをつとめながらシュザンヌ自身も画家をめざし、新進気鋭のドガに絵を習いました。
 モデルとしての活躍はめざましく、特にルノワールの「都会のダンス」「ブージヴァルの舞踏会」に描かれたシュザンヌの姿は有名です。ルノワールのダンスシリーズ3作目の「田舎のダンス」では、当時41歳のルノワールと恋仲になっていたアリーヌ・シャリゴが自分より若いシュザンヌに嫉妬し、しかたなくルノワールは、顔だけアリーヌに取り換えました。しかしながら、現代の目でみると、あきらかにルノワールの目には、シュザンヌの若さ美しさが特別な輝きで映っていたことがわかります。
 その他の画家の絵のなかでも、シュザンヌはさまざまなポーズで描かれています。ロートレックの「二日酔い」など、ヴァラドンの姿は、近代絵画の中に燦然と輝いています。

 今回の展示ではありませんが、ルノワールが描いた「髪を結う少女シュザンヌ・ヴァラドン」1885年、20歳のシュザンヌです。


 18歳のころ、父親がだれだか明らかにされていない息子を出産。当時のパリの交友関係から推理すると、モデルを務めていたルノワールかシャバンヌが父親とみられるというのだけれど、真偽のほどはわかりません。なにより、シュザンヌ自身が息子の父を明らかにせず、モーリスが7歳のとき、スペイン・カタルーニャ出身のジャーナリスト、ミゲル・ウトリーリョ( Miguel Utrillo )に、モーリスを息子として認知させます。(スペイン語読みウトリーリョ。フランス語読みでユトリロ)。おそらくは、シュザンヌとかかわりあった男性の中で、一番のお人よしがウートリリヨだった!

 シュザンヌが描いた幼いモーリス、12歳のモーリスなど、展示されていた絵には、母の愛情あふれるまなざしを感じるのですが、絵のモデルとしての息子と向き合う時間だけが母親としてすごす時間で、育児は自分の母親に丸なげでした。シュザンヌはモデルの仕事、絵の勉強、そして恋愛に没頭しました。

 シュザンヌとロートレックとの同棲生活は、3年ほどで破局。本名のマリー・クレマンティーヌではなく、シュザンヌと名付けたのはロートレックです。自分だけのモデルでおさまってくれず、他の画家のモデルをやめないマリーを、聖書の中で老人達に裸を覗かれるシュザンヌにたとえたのです。そのあだ名を画家名にしたシュザンヌも、したたかです。

 エリック・サティとは半年の交際ののち別離。ヴァラドンが描いたサティの肖像画、今回は出展されていませんでした。
 その間、モーリスはシュザンヌの母親に育てられ、精神的に不安定な子どもとして成長しました。貧しく安酒を飲むしか楽しみがなかったシュザンヌの母は、情緒不安定な孫を手っ取り早く寝かせるために、酒を飲ませて育てたのです。モーリスは、学校も入学退学を繰り返し17歳のころにはアルコール依存症になっていました。
 シュザンヌは、男性遍歴を重ねたのち、実業家のポール・ムジスと同棲。1996年に正式に結婚。

 シュザンヌはモーリスを精神病院に入れますが、精神の不安定は改善されませんでした。アルコールを手にしないよう、気をまぎらわすために、モーリスの手に絵筆が持たされます。
 夫ムジスの資産によって画家として専念できるようになったシュザンヌは、しだいに絵を認められるようになっていきましたが、息子の絵については「病気の治療のために描いているだけ」と思い、息子に画才があることには気づきませんでした。

 しだいに画家として生きようと考えるようになったモーリスに、「初めての友」といえる友人ができます。画家をめざしていたアンドレ・ユッテルです。ユッテルは、自身の画才をあきらめ、モーリスのマネージャーとして、絵の管理やモーリスの健康管理を担うようになります。

 ブルジョワ階級の妻として絵画に専念できる時間を得たはずのシュザンヌでしたが、13年間の平穏な生活がしだいに物足りなくなっていたのかも知れません。泥酔したモーリスをおくってシュザンヌの家に送り届けにきたユッテルとシュザンヌは、恋に落ちます。

 21歳年下のユッテルとの恋愛に、夫ムジスは嫉妬。手元にあったシュザンヌの作品を絵の具もろとも捨てるという方法でシュザンヌに当たりました。
 シュザンヌは、ムジスの資産をあてにしなくても画家として立っていけるようになると、離婚。2014年、ユッテルと正式に結婚します。

シュザンヌが描いたユッテルの家族。1921


シュザンヌが描いたモーリスの肖像1921 モーリス38歳


 子どもの頃から母に見捨てられて育ったモーリス、唯一の親友も母に奪われてしまいました。シュザンヌとユッテルとモーリスは、共同生活をおくりますが、モーリスの病状を管理するのはユッテルの仕事でした。

左から自作絵の横のシュザンヌ、ユッテル、椅子に座るモーリス


シュザンヌ・ヴァラドン「サンベルナールの教会」1931


 シュザンヌ、モーリス、ユッテルの3人の共同生活は、ときに激しいいさかいも生みましたが、マネジャー役のユッテルの管理のもとにモーリスは絵を描き、しだいにモーリスの絵にも買い手がつくようになりました。

モーリス・ユトリロ「雪のラパンアジルモンマルトル」1933ころ個人蔵


 モーリスが孤独から救われたのは、1935年。52歳のとき。
 シュザンヌの6歳年下の友人、ベルギー人リュシー・ヴァロールは、夫と死別しており、シュザンヌが入院したときは病院で看病するなど、世話好きな女性でした。
 母のすすめもあって、モーリスは12歳年上のリュシーと結婚。(東郷青児美術館の解説ではリュシーは、モーリスより5歳年上となっていますが、リュシー生年のはっきりした資料がわからないので、通説に従います)
 今回の展覧会には、シュザンヌが描いたリュシーの肖像画も展示されていました。美人ではないけれど、しっかり者という印象でした。

 母を慕い続けて、ついにその愛を独占することはできなかったモーリスが、ようやく安定した愛情の中に暮らせるようになったのを見届けて、1938年にシュザンヌは亡くなります。モーリスはショックあまり倒れてひきこもり、母親の葬儀に出席することもできませんでした。

 モーリスは、母の死後、信仰の中に生きるようになります。
 リュシーは母親のようにモーリスを世話し、また支配しました。
 リュシーは、モーリスを管理して「普通の市民」として暮らせるようにした、ともいえるし、モーリスに「自作の模写」を描かせて売りさばく商売をしたともいわれています。

 ともあれ、飲んだくれで警察のご厄介になることもあったモーリスが、「パリ名誉市民」の称号を得るまでに世話をしたのです。リュシーの生活の手段がモーリスの絵を売り抜けることだったとしても、リュシーが描いたへたくそな絵をモーリスの絵と抱き合わせで売る商売をしたとしても、モーリスがそれで幸福な晩年であったのならいいかなと思います。ほんとうに幸福だったのかどうかは、モーリスに聞いてみないとわからないけれど。1955年、モーリス・ユトリロは71歳で死去。

 ほんとうに壮絶な母と息子の生涯です。残された作品、シュザンヌの奔放な情熱の絵。モーリスの白の時代の悲しみをたたえた静謐なパリ。色彩の時代の華やかだけれど、どこか寂しいパリ。
 母と子は、天国では仲良くキャンバスを並べているでしょうか。モーリスは、絵のサインとしてモーリス・ユトリロの最後に必ず「V」というイニシャルを入れていました。ヴァラドンのイニシャルです。母への愛によってVを入れて示したのだという人もいるし、ヴァラドンの姓を全部入れないでイニシャルだけだったのは、乞うてもかなわぬ母の愛の欠乏への表明だという人もいます。
 私は、母に自分の絵を認めてほしい、息子からのメッセージだったのかも、と思います。

シュザンヌ・ヴァラドン《コルト通り12番地、モンマルトル》 1919年。この絵の絵はがきを買いました。青い鳥さんに送ることにします。


<おわり>
コメント (2)
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