春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「2003年のぼくは勉強ができない」

2015-05-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150520
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003年5月(4)2003年のぼくは勉強ができない

 2003年の三色七味日記再録を続けています。
~~~~~~~~~~~~

2003/05/08 木 雨ふったりやんだり 
トキの本棚>『ぼくは勉強ができない』

 日本事情、作文2コマ。11名の授業は本当に楽だ。来年また30人になることを考えて、今年くらいは楽しようと思う。

 電車読書で山田詠美『ぼくは勉強ができない』読了。
 地下鉄駅文庫ゲット本。2,3冊は文庫や新書が入っているはずなのに、かばんの中味を入れ替えて電車読書本を忘れたとき、地下鉄駅文庫の中から、読めそうなものを拾う。
 山田詠美はあたりもあるし、はずれもあるけれど、『ぼくは勉強ができない』は、比較的評判が良かったという記憶があったから、読んでみようという気になった。

 主人公時田秀美君の高校生活。
 『ぼくは勉強ができない』というタイトルはありていに言ってしまえば、詐欺である。
 秀美くんはとても頭のいい、感受性豊かな、サッカー好きな高校生。女の子にモテモテで、担任教師とも母親や祖父とも仲良く心が通じ合っていて、年上の恋人もいるという現代において考え得る限りのプラスカードを並べている優秀な高校生である。
 現在のところ受験勉強的な勉強は始めていないから、成績がふるわないというだけであって、本質的には頭がよすぎるくらい。だから、落ちこぼれ君や、平凡とりえなし高校生が「何か参考になりそうな共感できそうなことが書いてあるか」と思ってタイトルに惹かれて本を読んだとしたら、自分とはエライ違いの「もてもて秀美君」の話を読むことになる。

 だからと言って、正直に『ぼくは、今は成績不振だけど、もてもてで、とっても感受性豊かなんだ』というタイトルにしたら、だれも読まない。
 だから、この詐欺的タイトルは羊頭狗肉ではなく、狗頭羊肉として正解。中高生の母親世代が読めば、「かわいいワァ、年上が趣味なら、私も立候補したいなあ、ペタジーニの例もあるしオルガ夫人になりたいわ」と思うこと請け合いの母性愛刺激タイプなのである。 

 高校生の独白体の文体だから、すらすら読めるし、主人公が頭のいい感受性豊かな子なので、何もひっかかるところがなく青春物語が進んでいく。
 この作品が雑誌発表された91年、92年あたりでは、まだこの時田秀美タイプは問題児視される存在だったのかもしれない。10年たった今では、秀美君タイプは文部科学省推薦折り紙付きの「個性と感受性豊かな健全な青少年」の鏡になっちまった感がある。

 「勉強ができない」といいながら、彼の通っている高校では、全員が大学進学があたりまえの高校なんだって。そういうレベルの高校へ進学する学生は、教師から見て「勉強ができない」とは言わない。どんな三流四流大学にも進学できそうにないし、就職しようにも就職先もなく、フリーターになるのが半数、というような高校。そのような「偏差値難民高校」では、成立しない青春物語なのだ。くだらない教師が多い、と秀美は嘆くが、とにかく授業が成立しているように見える。授業が成立しない高校に勤務する教師の話をさんざん聞いているから、生徒が授業を聞いているらしい高校にいる秀美君の好運をうらやむ。

 この本を読んで一番先に思い出したのが久田恵と稲泉連の母子家庭。とても雰囲気が似ている。久田の家にはおばあちゃんもいたのが違うくらいだ。
 秀美は、3人暮らし。一流大学を卒業して出版社に勤務している編集者の母親と、たっぷり年金をもらっていそうな趣味のいいおじいちゃんといっしょに暮らしている。
 秀美君は自分の家を「金持ちではない」と思っているが、本当に貧乏な赤間さんの家をのぞくと、ショックを受けてしまうような世間知らずだ。本当の貧乏とは、無論食べるもののない家をいうのだ。とりあえず飢えていないやつは「貧乏」を自慢してはいけない。(自戒)

 また、父親のいないことで周囲の人から同情や蔑視やイヤミを受けることもあるが、秀美のおじいちゃんはいつもそばにいて、話をじっくり聞いてくれる人だ。
 今時の子供の話を聞いたりする時間も余裕もないお父さん、家庭に存在しないがごとき父親と、そういう父親に不平不満がいっぱいの母親で成立する「両親揃った健全家庭」より、よほどましな家庭環境を持っている。

 「父親が誰か」ということを、母親がまだはっきり告げていないところが、唯一本人にとって「アイデンティティの不安」材料になりそうな気配だが、この連作短編では、実の父親はいっさい関係がない。釣り道具の手入れもするけど、恋する相手を捜すのも好きなダンディなおじいちゃんがいるから、ワーカホリック父やDV父などがいる家庭よりずっとまし。

 おまけにサッカー部に所属していて顧問の桜井先生とはいっしょにラーメンを食べに行ったりバーで飲んだりできる間柄。父親の役割を果たす人は多すぎるくらいいる。サッカー部員と軋轢もなく、3年生で部活を引退した後も部室に出入りするくらい馴染んでいる。

 ガリ勉で勉強しかできることのない同級生を「気の毒な青春」と感じつつ、秀美くんには仲のいいクラスメートもいるし、酒場で働く桃子さんを恋人に持つところも同級生からみれば異性交遊エリートである。女生徒たちも、クラス委員の黒川さんも幼なじみの真理も秀美を嫌っていないし、クラス一の美少女からも告白されるくらいモテモテのサッカー少年。

 サッカーができるってことは、チームプレーができるってこと。私のように、チームで行うスポーツはいっさいだめ、つまり、球技は卓球のシングルだけがかろうじて参加できるスポーツで、あとはいっさい駄目、陸上とか水泳とか、ひとりでやるスポーツしかできないのとは、違う。

 こんな恵まれた高校生は、今時ちょっとやそっとじゃさがせそうにない。「個性と感受性の豊かさ」を基準とする現在の文部科学省「望ましい高校生」チャンピオン大会で優勝する勢いだ。ものすごく恵まれた環境の恵まれた資質を持つ少年の成長物語。

 小説中では「成績があがっていない、おちこぼれ」のような書かれ方をしているし、無理解な教師から「不純異性交遊なんかにうつつを抜かしているから、成績が上がらないんだ」というオバカな指導も受けてしまう秀美君。
 しかし、実は優秀な高校の「ある意味超エリートタイプ」の高校生物語といえる。論理的なしっかりした思考ができ、それを母親や祖父に表現する場を持っているし、うらやましいなあ。こんな感受性豊かで表現力豊かな息子をもったら、母親は安心して新しい恋人探しに出かけられるというものだ。

 連作短編にでてくるエピソードは、これまた青春物語の定番アイテムがぞろぞろ。恋人は浮気するがモトサヤになるし、同級生のひとりは、何に悩んだか不明だが、屋上から飛び降り自殺して死んでしまうし、じいちゃんは死にはしないが、倒れて病院に運び込まれるし、もう、どこをのぞいても定番をつぎつぎにクリアしていくあざやかさ。こんなうまく乗り切っていけるならだれも苦労はせんよ、と高校生は思わないのだろうか。

 母親がパートで細々と働くしかない、悲惨一歩手前の疑似母子家庭(我が家)から見たら、この「時田家」の経済は実に恵まれている。秀美に洗いざらしのジーンズと古びたTシャツを着せても、母親は5万8千円のくつを買う。バブル直後の話だとしても、5万8千のくつ買える女は、貧乏じゃないもんね。

 私は、友達の残した給食のパンを持ち帰る赤間さんが好き。
 5万8千どころか、3千円のくつを買うのもためらって、買わないでいる自分の貧乏性がたまにはいやになるけれど、赤間さんに一票。
 赤間さん、弟の鼻汁拭きとってやりながらガンバレ。赤間さんが、「見たらびっくりするよ」と言いながら、秀美を家に呼ぶことのできる女の子であるところがほっとする。赤間さんが「うちの小鳥のために」と給食の残しパンを集める姿に、貧しくてもせいいっぱい生き抜こうとする人間の尊厳を感じてしまう。

 小学校6年生のとき、担任の先生から古着をもらっている同級生がいた。その子が「私は先生から特別に思いをかけてもらっているんだからね」という態度をとるのが気に入らないと、女子生徒たちが腹を立てたことがあった。
 自分の家の経済状態を悲しみ、先生に古着をもらうことを恥じいる態度をとったのなら、きっと女子たちは「見て見ぬ振りをしながら、かわいそうがる」という高等技術をとり、彼女のためにクラスの居場所をあけておいたのだろうが。

 私も6年生のそのときに、「先生に特別に思われている」という態度をとる彼女に対して、寛大な気分になれない情けないやつだった。6年生の当時から人間ができていなくて、ねたみひがみの人物だったというわけですね。
 40年前に、先生が同級生にあげた古着。そのときの先生の思いや、もらった子の思いや、同級生たちの複雑な感情や、貧乏が現実に目の前に存在することへの思い。あれから40年たったのに、まだ、忘れていない。貧乏ってそういうもの。

 秀美君が転校したばかりのとき、学級委員選挙があった。秀美くんはクラスの事情がわからないままに、伊藤夕子と名前を書き、担任の激怒をさそう。伊藤夕子は「クラスで一番勉強ができない生徒」であったのだ。
 その名を書いた投票を見て、担任は「ふざけて投票したやつがいる」と非難する。秀美君はもちろん担任にくらいつく。勉強ができない生徒が学級委員を引き受けてはいけないのか、一票が担任の気に入らない票だったからといって、その選挙を無効にするのは、担任が標榜するところの民主主義に反しないことなのかと。この件に関しては無論担任の負けである。

 私が胸ふさがるる思いになったのは、単純な同姓同名を発見したことによる。娘のクラスにいた「一番勉強ができない生徒」の名前が伊藤夕子だったから。
 学級委員の選挙のとき、クラスの男の子たちが示し合せて伊藤夕子に投票した事件があったのを思い出したのだ。この時は、伊藤さんがいやがって泣き出したために再投票になった。
 男子たちは学級委員を押しつけておいて、いろいろな仕事をうまくできない夕子さんをからかって遊ぶ材料にしようとしたらしい。そういう意味で投票したのだろう、ということを察知して泣き出したのだとしたら、伊藤さんは決して馬鹿じゃない。「馬鹿」というのは、人の気持ちも忖度することができない「心ない者ども」をいうのだから。

 そして、時田秀美はそういう意味では「馬鹿」とは正反対の高校生なので、彼の進路の悩みも、同級生自死の悲しみも、恋人が浮気したつらさも、「まあまあ、そのくらいの修行はしておけよ」という気になってしまうのでした。

 それにしても、同級生が自殺したというのに、この高校のクラスメートたちは葬式では盛大に泣いたものの、翌日になれば、けろりと彼の存在など忘れて、受験勉強にいそしむことのできる人たち。こんな偏差値高そうな高校によく秀美は入る気になったなあ。

本日のねたみ:58000円はフェラガモ?私はカルガモ1足3000円

~~~~~~~~~~~~

20150520
 一冊の本に、これだけの感想を書くヒマがあったんだね、と、2003年の自分に言ってやりたい。どうしてこの本に感応したのかというと、勉強しようとしない息子をどうしたものか扱いかねていたからだろう。
 主人公秀美のように、すらすらと生い育ってくれる息子ならば、きっと感想なんぞ書くヒマ持たずに部屋の片づけくらいきちんとこなす母親だったろうに。

 娘が「わぉ、すっかりだまされちゃった」と言う。ビリギャルのことである。
 『学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話」(坪田信貴』というタイトル。全国の学年ビリのギャルは、「じゃ、あたしも慶応に入れるかも」と一瞬だまされる、と娘はギャル達に同情したのである。

 娘の報告によれば、この主人公小林さやかさんの在学校は、東大合格者も出ている中高一貫のお嬢様学校で、学年ビリといっても、「うちらの卒業した高校と並べればトップクラス」の学力の学校なのだって。たしかに髪を染めたりたばこを吸ったりの「非行」やら異性交遊を理由とした停学処分もあったりの「ギャル」ぶりではあったけれど、家は、年間百万単位の私立校の学費も、さらに年間百万単位の学習塾の学費もポンと出せる経済力がある。「うちみたいな貧乏家族ではぜったいにこのマネはできない。学年ビリはビリのまま社会から落ちこぼれ」と、娘はいう。

 なるほど。この本の正直なタイトルは「ちょっとグレてみた金持ちの娘が、高い学費を学習塾に払って有名大学に合格した話」というのが本当のところでした。
 むろん、さやかさんは努力した。しかし、努力のほかの要因もあったのでした。
 でも、映画は有村架純かわいいし、大ヒット。めでたしめでたし。

<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする