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春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「貴婦人と一角獣展」

2013-07-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


2013/07/10
ぽかぽか春庭@アート散歩>織り姫たちの千年(3)織物の色-貴婦人と一角獣とガンダム

 今年2013年5月13日に見た国立新美術館の「貴婦人と一角獣La Dame à la licorne)」展も、すばらしいタピストリーでした。綴れ織り絨毯や陰かけを表すタピストリーは、タペストリーという表記もあります。
 タピスリーtapisserie)はフランス語で、タペストリー(tapestry)は英語です。日本語外来語としては、どちらを採用してもいいと思うのですが、フランス産のものを紹介するときはタピスリーにしておきます。外来語でなく表現するなら綴織壁掛け(つづれおりかべかけ)になりますが、すでに、この語よりタピスリーまたはタペストリーのほうが通用していますので)

 招待券手に入れての見物でしたから、解説のイヤホンを借りました。音声ガイドでリルケの詩を朗読しているのは、池田秀一。
 池田秀一は、ガンダムの中でシャアを演じている声優で、「機動戦士ガンダムUC」では、フル・フロンタル役。私には、子どものころNHKテレビで見ていた「次郎物語」の次郎さんですが、「次郎さん」を演じた子役時代の池田秀一を覚えている世代もすっかり年を取りました。

 地味な展覧会と思ったのに、思ったより若い観覧者も多かったのは、「機動戦士ガンダムUC」の影響なんだとか。UCはユニコーンのことで、ガンダムカンケーにうとい私には、何がなにやら状態ですが、アニメの中で重要な絵らしいです。

 娘と息子が、無料配信された「「ガンダムUC」第1話だけ見たといっていました。第1話、主人公が出征の秘密を知る重要なシーンにこの「貴婦人とユニコーン」のタペストリーが出てくるそうです。
 第1話から全話みたファンなら、このタピストリーの本物が見られるとあっては、国立新美術館に見に来たくなるでしょうね。



 予想通り、このタピストリーのほか、あまりめぼしい展示はなかったので、1500円のチケット買った人は、高い見物料と思ったか、見たいタピストリーがフランスまで出かけなくても見ることができて安いと思ったか。

 ガンダムUCファンは、本物の「貴婦人と一角獣」が見られて、きっと満足したと思います。


 イヤホンガイドの声に案内されて、最初の部屋に入ると、どど~んと広い大部屋に、6枚の大型タピストリー。それぞれが5m四方くらいあります。6枚を一度に見られるようにした展示方法、よそでは見かけない空間でした。

 この6枚のタピストリーは、15世紀末にパリで下絵が描かれ、フランドル地方(ベルギー、オランダ、フランスにまたがる地域)の織物工房で織られた、と推測されています。
 古いお城に放置されていたタピストリーが、ジョルジュ・サンドらが言及することによって再発見され、修復がほどこされました。痛んだ糸が補修され、現在は、フランスのクリュニー美術館に展示されています。クリュニーが改修工事されている間、東京と大阪を巡回展示されます。

 展覧会についての解説はこちらで。7月まで国立新美術館で、そのあと大阪へ巡回。
http://www.lady-unicorn.jp/highlight.html

6枚のタペストリーのうち、「聴覚」を表しているもの(買ってきた絵はがきのコピーなので不鮮明ですがUP)


 聴覚、視覚、触覚、味覚、嗅覚の5枚に加えて、6枚目は「「我が唯一つの望み、(A mon seul désir)」を表しているのだそうです。「我が唯一つの望み」の解釈には諸説あります。「愛」が唯一の望みとされたり、「理解」が唯一の望みなのだとされたり。
 五感をすべて統合してさらなるものごとを望むとしたら、さて、それはどんなことなのでしょう。それぞれの解釈で「唯一の望み」を見つめます。
 
 私の唯一の望みといえば、そりゃもう、フランスのクリュニー美術館までいつでも見に行けるような生活になることですが、それは遠い望みのようです。せめて、美術展のチケット1500円を「高くて見にいけない」とあきらめるような生活ではなくなることをのぞんで、明日も働きましょう。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「コプト織&ミルフルールタペストリー」

2013-07-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/07/09
ぽかぽか春庭@アート散歩>織り姫たちの千年(2)コプト織&ミルフルールタペストリー

 今年2013年2~3月、東京国立博物館の展示で、「古代エジプトのコプト織」を見ました。東博140周年特集陳列「コプティック・テキスタイル―エジプトのコプト信仰が綴った織文様―」です。

 コプト織とは、紀元3世紀から13世紀にかけて、エジプトのキリスト教徒(コプト教徒)が織った綴織(つづれおり)です。コプト教徒たちは、地中海文化の影響を受けた古拙ながら美しい織文様で衣服を造り、墓を飾りました。

 コプトの綴織は、平織にさまざまな色糸を緯糸(ぬきいと=横糸)にして色糸を入れ替えで文様を織り出していく。多くは、生成りの亜麻糸を経糸にして、いろんな色に染めた麻やウールの緯糸で天使や人物、植物、動物などの文様を織り込んでいます。衣服の装飾や部屋の壁飾り、墓に供える死者装束などにしました。

 墓などから出土した織物は、色が退色しているものが多いですが、今回は、女子美術大学が制作したDCG画像で、女性が衣装を身につけているところが、復元されていました。出土した小さな端切れの展示も貴重ですが、私のような素人には、元はどのような衣装であったのか、よくわかってよかったです。

 2013年2月に東博で見たコプト織

コプト織

 2012年年末に東京都美術館で見た、「メトロポリタン美術館展」にも、印象的なタピストリーの織物が出展されていました。16世紀オランダで織られた、精緻な図柄のタピストリー。こまかい織りで、羊飼いの若い男女を織りだし、犬や小鳥が遊ぶ花盛りの野に、羊飼いはバグパイプを吹き、その恋人でしょうか若い女性は楽譜を持って歌を歌っています。

 地模様は、千の花が集められたような柄で、「千の花ミルフルール(ミルフラワー)」という織の技法だそうです。
 当時発達していた「ミルフラワー」の技法で、細かい花模様が織出されています。
 織り手たちの卓越した技法によって、たくさんの人手と長い時間をかけて織り上げられるタペストリー。
 絵の具で描いたのと同じようにさまざまな色合いで織られたタペストリーは、壁飾りや間仕切りとして、中世の館を飾りました。

 音楽を奏でる男女の羊飼いのタペストリー」南ネーデルランド 1500-30年頃


 中央に立つ樹木は、ヨーロッパの「メイポール」「メイトゥリー(五月の木)」と同じく、世界樹、生命のもとになる木を表しています。
 
<つづく>
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ぽかぽか春庭「たなばたさま、おりひめさま」

2013-07-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/07/07
ぽかぽか春庭@アート散歩>織り姫たちの千年(1)たなばたさま、おりひめさま

 七月七日には、「字がじょうずになるように、短冊に書く」そして「さまざまな願い事を星に祈る」など、地方地方によっていろいろな行事が行われます。たなばたに「七夕」の漢字をあてる熟字訓は、中国の節句の文字をそのまま当てたためで、古来の日本の行事の意味では、漢字を当てるとしたら「棚機(たなばた)」や「棚幡」でした。

 先祖の魂を呼ぶため「機織りによって出来た幡」を飾ってきました。この「ひらひらすることによって魂を呼ぶ」「幡」は、現代でも「盆棚」を座敷にしつらえる地方では、葉のついた枝を飾ったりして、残されています。七夕笹飾りの笹の葉も、もとは魂を呼ぶための依り代(よりしろ)であったのです。

 先祖の魂祭のほうは、仏教伝来後は「盆」行事に移行し、「たなばた」は中国の織り姫彦星伝説と日本の「棚機津女(たなばたつめ」の伝説・神話が習合して、現在のたなばた祭りになりました。

 牽牛が牛を引いて耕作した野菜などの「種物(たなつもの」と、織り姫が養蚕によって絹を織り上げた産物の「はたつもの」を供えることにより、食と衣の安定供給を願いう行事なのだとも。

 織り姫の伝説から、織物に関する行事も多くの地方で行われてきました。
 奈良平安時代の宮中や貴族の館では、中国唐時代に盛んであった「乞巧奠(きっこうてん)」の行事がとりいれられ、庭に針や糸を飾って、針仕事ほかの手仕事技芸の上達を願ったそうです。

 機織り仕事をする者にとっては、1年1度のたいせつな行事でした。
 糸をあつめて布を織る、編む。布をあつめて糸と針で身にまとう衣服を縫う。糸や布をさまざまな方法で色鮮やかに染める。
 布仕事は、人類が手によって成し遂げてきた仕事の中でも、「食べ物を手に入れる」という生存に直接関わる作業のほかの仕事では、もっとも古くから延々と続けてきた仕事と思います。

 日本には古来より、大陸からまた南方から、さまざまな染織方法が取り入れられ、友禅染など日本独自に発達を遂げたにすばらしい染め物や織物が生まれました。

 最近の織物情報、糸情報で一番興味深かったのは、「くもの糸」を蚕に作らせる方法が開発された、という記事。遺伝子操作であることはちょっとひっかかりますが、蜘蛛の遺伝子を蚕に移し、蚕の吐く糸が蜘蛛の糸と同じに強くしなやかな糸になるよう、遺伝子組み換えが成功したというニュースでした。お釈迦様がたらした一本のくもの糸に何万もの地獄の人々がつかまった、というのは「おはなし」であるとして、蜘蛛の繊維は、鉄鋼とおなじくらいの強度をもっているそうです。

 古い染織技法の復活もときおり話題になります。染織技法に興味があるので、吉岡幸雄らの「古代の染織技術復活」などのニュースに目をみはってきました、

 さまざまな「幻の技術復活」が試みられた中、「本当の復活ではない」と、染織の研究者が言うこともあります。「辻が花」のことです。
 近年になった復活されたのは、昔のものとはまったく異なる染法なのに、さまざまな染色法を各自が独自に「辻が花」と名乗っていて、混乱している、と、研究者が指摘しています。

 室町時代に大流行した「辻が花」は、麻の染め物を指しました。しかし、江戸時代の友禅染の大流行に押されてその技法が廃れてしまったのです。
 明治時代になって、室町時代の高度な縫い締め絞りのうち、染織技法がわからないものを「辻が花」と呼ぶようになり、「辻が花」といえば「幻の染め物」として関心が深まりました。

 今では、染織作家がそれぞれの独自の「辻が花」という名を名乗っています。
 研究者の中には「昔の染織方法にネーミング権がないからといって、勝手に辻が花を名乗るのは許し難い」と怒っている人もいます。私など素人は、「辻が花復活」ときくと、昔ながらの方法が復元されたのだと思い込んでいましたから、たとえば「一竹辻が花」は、染織家久保田一竹独自の方法であって、本来の「辻が花」とは別物、という話をきくと、なんだかだまされたように思うのです。

 絵や建物を見るのと同じくらい、染め物や刺繍など、糸と針の手仕事を見るのが好きで、東京国立博物館に行ったときは「着物のコーナー」を、近代美術館工芸館でも、近代作家の新しい染めや織りを楽しみに見てきました。新宿にある文化大学の服飾博物館もときどき見に行きます。
 
 以下、コプト織、「ミルフール(千の花)織のタペストリー」、「貴婦人と一角獣」などを紹介します。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「草間彌生の芸術チンチン」

2013-07-06 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/06/29
ぽかぽか春庭@アート散歩>春庭の現代ゲージツ入門(13)草間彌生の芸術チンチン

 色彩にあふれ意匠に富んでいて、やわやわと生ぬるい公募展現代美術を見て日本の豊かさを実感して、さて、so what?
 この「絵を見て索漠とした感に陥る」というのは何かと顧みるに、新国立美術館展示室や東京都美術館のいくつもの部屋を埋め尽くす数の油絵や日本画が皆、一大消費の見本市だからです。
 どれもこれも、日常生活に不自由なくなった人々がキャンバスを買い、絵の具を買い、絵画教室などにお月謝払って表現技術を身につけ、さて、お金をかけて一枚の絵を仕上げる。それは、悪い事じゃないのはわかっています。みんな、楽しく余暇をたのしみ、絵が好きな人は「絵を描く」という趣味を楽しむことができるようになった。そして、その絵を家族友人仲間に見てもらう。「私の絵、上野の美術館に出ているんだよ、見てね」とか「新国立美術館でうちの会の展覧会をやってるから」というお知らせもらって、知り合いの絵を見て楽しむ。それはとてもいいことなんです。私も舅の絵が東京都美術館の公募展に入選した時は、姑や娘と連れだって見に行ったことがありました。

 しかし、だれも知り合いがいないとき、公募展の一般入選作品とか、アンデパンダンのお金払えばだれでも入選という絵が「何一つ訴えてくるものがない」ということに、いささかがっかりし、なにごとかを産出したいという表現の絵と、消費し楽しんで描く絵が、プロとアマチュアの違いという以上に大きなものがあるのだなあと感じたのです。
 公募展、3・11ツナミやフクシマを題材にした作品を見かけました。でも、岡本の「明日の神話」をしのぐほどのインパクトを与える作品に出会いませんでした。これが現代ゲージツの今のチカラのほどなのか。

 岡本太郎の「明日の神話」ほども、人に感興を呼び起こす作品を持たない、イマドキの公募展。
 「アートも音楽も、つかのま消費されるだけで終わっていいのだ」という考え方もあるとは承知しているのですが、絵や立体作品、インスタレーションの間を駆け巡りながら、1枚の絵が時代を象徴し、ひとつの作品が長く人の心に残るということは、もはや得難いことなのだと確認するための「公募展めぐり」でした。

 現代ゲージツというのは、ショウウィンドゥのデコレーションになったり、駅の壁飾りになったりすればそれでおわりか。
 いえいえ、私が「アハハ、いいな、これ」と思える現代ゲージツもありますって。

 リニューアル近代美術館のモダンアートの部屋の目玉になっているのが、草間彌生(1929~)。すでに古典の部類になってしまったので近代美術館展示となったのでしょうが、いままだ現役作家であり、現在もなお「前衛」であろうとしているアーティスト。
 水玉作品といっしょに展示されているのが「冥界への道標」 です。


冥界への道標
このあと、もっと続く。

 草間彌生の水玉模様は、今やランコムのポーチ意匠になりケータイの模様となってワイワイと消費されています。私、水玉にはこれまで心惹かれたことなかった。
 けれど、東京近代美術館の横尾忠則のポップな絵と向かい合わせにデンと長~く続く草間の黒いオブジェがあって、こちらは好き。

 銀色のハイヒールなどが踏みつけている黒いものが、水玉と並ぶ草間のモチーフである男根であることに気づく。気づくの、おそいです。なにせこんなにいっぱいのチンチン、見たことないし。

 木下直之の『股間若衆:男の裸は芸術か』に評論されている「チンチンを隠そうとする近代彫刻や絵画の攻防」も面白かったけれど、こっちのわんさかあるチンチンは「すげえな草間彌生、と思います。小さな子どもだったら、すなおに「わ~い、おチンチンがいっぱいダァ」とか言えるのだけれど、こっちは婆さんだから、「うん、これはあくまで芸術なのよね」という顔をして眺めなければならぬ。

 草間は、少女時代に統合失調症を発症しました。自分の周囲に表れる幻覚幻聴の恐怖から逃れるために、その幻覚をぎっしり絵に描き込めた。そのモチーフが水玉や男根。

 草間は自伝『無限の網』の中で語っている。(初出2002作品社。私の読んだテキストは、2012新潮文庫『無限の網-草間彌生自伝』)
 「とにかくセックスが、男根が恐怖だった。押入れの中に入って震えるくらいの恐怖だった。それだからこそ、その形をいっぱい、いっぱい作りだすわけ。たくさん作り出して、その恐怖のただ中にいて、自分の心の傷を治していく。少しずつ恐怖から脱していく。私にとって怖いフォルムを何千、何万と、毎日作り続けていく。そのことで恐怖感が親近感へと変わって行くのだ。恐怖の対象となるもののフォルムを、いつもいつも作りつづけることによって、恐怖の感情を抑えていく。。」
  「なぜ、それほどにセックスに怖れを抱いたかというと、それは教育と環境のせいである。幼女時代から少女時代にかけて、私はそのことでずっと苦しめられてきた。セックスは汚い、恥ずかしい、隠さなくちゃいけないもの、そういう教育を押しつけられた。その上、門閥がどうだとかお見合い結婚だとか。恋愛に対しては絶対反対で、男の人と自由に話すことも許されない生活だった。
 そして、幼い時にたまたまセックスの現場を目撃してしまうという体験は、目に晴れた恐怖が大きく大きく膨れあがり未来が急激に不安になってくる。
。」

 草間の母は、長野で種苗業を営む財産家のあととり娘でした。草間家に婿入りした父親は、自分自身が素封家の出身であるというプライドと、婿養子という立場の狭間にあって、ひたすら「女遊び」を繰り返すという人でした。母親は末娘のヤヨイに父親の後をつけてどの女のもとに行くのかスパイするよう命じたり、ヒステリーを起こしたり、夫の行動に煩悶を続けました。ヤヨイが見たという現場も、おそらくは父親の女遊びの場面だったのでしょう。ヤヨイは幼いころから母親の愛情薄く陰惨な家庭環境の中で、小児ぜんそくにかかり、離人症を発症して、統合失調の症状があらわれました。

 京都で絵を学ぶことにしたのも、アメリカへ渡ったのも、家庭からとくに母親のしめつけから逃れたい一心だったと草間は書いています。アメリカへ渡ってからの草間は、絵画ハプニング&インスレーション、映画、ミュージカルなどあらゆる表現を行い、前衛芸術の騎手となりました。しかし、日本では「セックスを主題にしたりする、破廉恥な女」という報道のみが行われ、草間の出身校「松本第一女学校」では、「わが校の恥になるから、卒業者名簿から抹殺しましょう」という署名運動までおきたのだと、草間は述べています。
  70年代80年代はまだまだ「クサマというおかしな日本人女性の変なアート」というイメージでした。日本で草間彌生の再評価とブームがおきたのは、ようやく21世紀になってからだったと思います。

 ソフト・スカルプチュアの男根をいっぱい作って、その真ん中に寝ころんでみる。そうすると、怖いものがおかしなもの、おもしろいものに変わってくる。恐怖と嫌悪の対象である男根ファルス。それをぎっしりと箱の中に詰め込んでいく。靴で踏みつける。その中に寝転ぶ。ファルスは滑稽なものに変わっていき、怖くなくなっていく。10mほどの長さで、屹立したりしおたれたりして壁いっぱいに、黒いファルスはワラワラと並び哄笑し叫び、うなだれる。快楽を求めているはずなのに、廃墟の死の気配もただよう。
 いいな、草間彌生。

 自分にとって「いいな」と思えるものを見ていけばいいのであって、「ゲージツとは何か」というムツカシーことは、そういうことを考えていたい人におまかせしましょう。
 以上の13回シリーズでつくづくと私の美術館めぐりは、暇つぶしであるとは思います。ただ、やはり、見たことが消費のみで終わるのではなく、自分の中になんらかの種が植わり、何かが育てばいいなあと高望みをしてしまうわけで。

 日照りの夏もあります。しかし、何も育たないとしても、せっせと心にうるおいをもとめて、この夏も「ぐるっとパス」で美術館めぐりします。作品保護のために冷房ばっちりですから、家で「暑いあつい」と伸びているよりは気分いいし、家のエアコンつけない分、節電にもなるし。つまるところ、私の美術館めぐりは「もったいない節電セツデン」ということです。

 以上のシリーズ「春庭の現代ゲージュツ入門」をお送りしました。

 ぐるっとパス買って、美術館巡りして暇つぶし。安上がりな趣味で、私ひとりが楽しくて、「ああ、いいもん見た。いい時間がすごせた」と、逸楽のひとときを堪能する。それでもいい、とは思う。でも、やはり私はアートの力を信じたい、旧式な人間であるのです。

 私のアート散歩をずらずらつづっても、たいしたことは言えなかったので、最後に「無限の網」の最後につづられている草間彌生の詩を引用しておきます。

草間彌生「落涙の居城に住みて」
やがて人の世の週末に めぐり合う時がきたら
年を重ねた月日の果てに
死が静かに近寄ってくる気配か、
それにおののいているとは、私らしくないはずだったのに
最愛の君の影に 悩みはまたしても夜半に訪れて
わが想いをあらたにす
君をこそ恋したいて「落涙の居城」の中に
こもっていた私は 人生の冥界の道標の
指し示すところへ さまよい出ていこうか
そして空が私を待ち構え、たくさんの白い雲をたずさえている
いつも私を元気づけていた 君のやさしさに打ちのめされて
心の底から私は「幸福への願望」を道づれに
探し求めてきたのだった
それは「愛」という姿なのだ
あの空を飛び交う鳥たちに叫んでみよう
この心をこそ 伝えたい
私の久しい年月を芸術を武器にして
踏みしだいてきたのだったが
その「失望」と「虚しさ」を そして「孤独」の数々を胸に秘めて
生きながらえてきた日々は
人の世の花火が 時として「華麗」に空に舞い上がっていた
夜空に降って行く 五色の粉末を全身に
散りばめている感動の瞬間を 私は忘れない
人生の終末の美しさとは すべて幻だったのか
あなたに聞きたい
美しい足跡を残したいという祈りを
受け取ったあなたへの愛のことづけ


<おわり>
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ぽかぽか春庭「NTTアノニマスは無名してる?&アンデパンダンは独立してんのin新国立美術館」

2013-07-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/07/04
ぽかぽか春庭@アート散歩>春庭の現代ゲージツ入門(12)NTTアノニマスは無名してる?&アンデパンダンは独立してんのin新国立美術館

 公募に入選した作を並べる絵画展をときどき見ます。無料で見られる場合や招待券を貰ったときだけですけれど。
 3月23日、六本木アートナイトというイベントで、新国立美術館が無料になっていたので、18:00~20:00に、アンデパンダン展、カリフォルニアデザイン展、企画展「アーティスト・ファイル2013―現代の作家たち」を駆け足で見てまわりました。

 無料だし、一晩中すごせる森美術館もあるしで、新国立美術館もデートカップルなんかで大賑わい。まあ、安くデートを楽しむためには、六本木アートナイトというイベント、よい選択と思います。

 一番よかったのは、カリフォルニアデザイン展で、デザインの美や用やらが若い人にもわかりやすく伝わったと思います。「アーティスト・ファイル2013―現代の作家たち」も、いつもの、「ま、ゲンダイゲージツってのはこういうもんなんだろな」と感じる作品が並んでいて、So what?から一歩抜け出ていないもどかしさ、っていうところだった。

 おまいら、ほんまに独立してんのか、と思ったのは、アンデパンダン展。一般参加作品を、10000円で1点13000円で2点展示できる。お金さえ払えば、無審査。
 いくら無審査だと言っても、「○○市シルバー文化祭」とか「小中学校秋の美術展」よりもレベルが低い作品もかまわず平等に展示されている。そこがいいところなんだろうけれど、ゆっくり見ている時間がないので、駆け足で通り抜ける。無審査なんだったら、もうちょっと、せめて会田誠よりもスキャンダルを巻き起こす作品を出展してもいいんじゃないかと思うが、どれも大人しく、既成の美術概念から飛び出す絵も彫刻もインスタレーションもない。

 フランス語のアンデパンダンとは、英語ではインディペンダント。日本語では「独立」。そうだよね。いまや「独立」っていうのは、「アメリカ占領下の日本オキュパイドジャパンが独立して、アメリカの属国になったお祝いをしましょう」と政府の音頭取りで祝う日のことで、「独立」という語の意味が「depends on U.S.A.」の意味になったんだもの。アンデパンダン=インディペンデントが、 これくらいの独立度でちょうどいい生ぬるさなんだろう、きっと。

 日展とか二科展とかの応募作が無審査で展示されるまでに出世して、次は審査する側になって、号いくらで売れるようになって、美術雑誌にのって、美術界ボスになって、あがりは文化勲章。という出世コースを望む美術じゃないアートを見たいのです。私は。

 これは、NTTコミュニケーションセンターで開催された「アノニマス名を明かさない生命」展(展示期間:2012年11月17日~2013年1月14日)でも、展示のほとんどに感じた感想。「無名=だれでもない私」という衝撃はなく、みな既成のゲンダイゲージツの枠の中に大人しく組み込まれているもどかしさがあった。
http://www.ntticc.or.jp/Archive/2012/AnonymousLife/index_j.html

 「アノニマス」のリポートは、こちらのサイトにうまくまとめられています。
http://www.art-inn.jp/tokushu/003235.html

 「アノニマス」で面白かったのは、米朝アンドロイド。

 米朝のロボットが落語を一席おうかがいするってのが、リアルだけど不気味。平日の、観覧者がだれもいない状態でも、ロボ米朝師匠は、せっせと語り続ける。石黒浩の作品。
 石黒は、大阪大学で平田オリザにアンドロイド一体を提供して、アンドロイドを出演者の一人(一体?)とする演劇作品を作っています。

 もうひとつ、アノニマスの展示作品。元パラリンピック選手で美人モデルのエミー・マランスの映像や写真がよかった。エミーはビデオの中で、彼女が持つ12足の義足について語ります。身長が20センチ高くなる義足とか、おしゃれでキュートな義足とか。彼女にとって、義足は「ハンデキャップド」を克服するものではなく、カツラやつけ爪と同じようなおしゃれの道具であることがとても気持ちよく感じられます。エミーは「身長を毎日変えられないとは、なんて不自由な生活でしょう」と語るのです。

 「ハンデキャップはもはや克服するものではなく、自分自身を拡張し、より豊かな個性を発揮するもの」というスピーチは、「そりゃ、恵まれた人にだけ通用する説」と思う人もいよう。でも世界中がエミーのようになればいいのです。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/aimee_mullins_prosthetic_aesthetics.html

 4月4日には、上野の東京都美術館で、「モダンアート展」と「国際交流展」を見ました。どちらも公募展。モダンアート展は、ほとんどが抽象画で、ずらりとならんだ大作が何部屋もつづきました。国際交流展は、西欧と韓国の人の展示が一室あったほかは、抽象具象とりまぜての素人の公募作品。

 どちらも、あらまあ、こんなに大勢の人が、「絵を描く」という趣味を楽しめる時代、なんて日本はひまがあって豊かな人が多い国なんでしょう、と感心しながら見て歩きましたが、そういう感想のほかは、「アート」や「美」に関しては、なんの感想ものぼってこないのです。なんの驚き衝撃もなく、ただ、きれいだな、じょうずだな、で終わりました。とても平和でした。

 中に何点か、海岸の瓦礫の山やフクシマの炉心融解をテーマにしているものもありましたが、あまり心に響かなかった。去年みたなら、そういう作品も多かったのかも知れませんが、2013年の公募展を見た限りでは、日本は飽食と忘却の「豊かな国」なのでした。中高年が絵筆をにぎり、自由に絵を描ける国。美を楽しめる国。 

 コンテンポラリーアートのいいところ。まだ評価が定まらないでいるのがコンテンポラリーだから、いくらでも自由に悪口が言えるところ。悪口は、愛です。アート愛。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「虹のずっとずっと彼方in府中美術館」

2013-07-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
府中美術館「虹の彼方」展

2013/07/03
ぽかぽか春庭@アート散歩>春庭の現代ゲージツ入門(11)虹のずっとずっと彼方in府中美術館

 今年初め、2013年1月には府中美術館に出かけました。「ぐるっとパス」にチケットが入っていたので、仕事帰りに「タダが損しないように」出かけていったのですが、展示されていた「虹の彼方」展は、ぐるっとパスで100円割引きになるだけだと言われました。常設展だけならぐるっとパスで見ることができるんじゃないの?と訊ねたら、常設展も特別展も同じフロアなので、常設展だけ見ることはできないという。なんだかだまされた気もするが、ショウがないので一般700円から100円割り引いてもらって入りました。

 10人の「現代ゲージツ」を見たのですが、まあ、おもしろいっちゃおもしろいし、ナニコレ?と思えば、全部「なにこれso what?」
 現代美術ってのはそういうもん。

 常設展示のひとつ。三木富男(1937-1978)「耳」
 ナニコレ?と思うまでもなく、耳です。三木富男は、いろんな耳を彫刻で表現したけれど、全部左耳。ドーシテ右耳は彫りたくなかったんだろう。
三木富男「耳」

 一番面白かったのは、入り口ホールの床に敷いてあった敷物で、平らな床にただ広げられているんだけれど、これをカメラで写すと、あら不思議、モニターに映るのは、立体に見えるのです。
 Rocca SPIELEによる「府中でRocca」

平面の床が
モニターの中では立体に見える


 館内撮影禁止ですが、自分が映ったモニターを自分で撮影するのはお構いなしとのことで、写しました。平らなところを行ったり来たりするだけで、モニターには、高い台をよじ登ったり、低い台へ飛び降りたりするみたいに見えるのです。おもしろいから、しばらくこれで、遊んでいました。

 ここで遊ぶだけだったら、700円払わんでもよかったんだけど、「虹の彼方」展に入室する前、ここを通り過ぎたときは、この床が立体に見えるということに気づかなかった。「虹の彼方」展示の一画にモニターがあって、札幌だかどこかでこの床を展示して撮影したビデオを見て、実物が玄関ロビーにあることに気づいたのです。700円は、これに気づくための費用だったと思うことにします。あ、100円割り引いてもらったので600円でした。

 やっぱ、私にとって現代芸術は、虹のずう~っとずうっとと彼方にあって、近づけば近づくほど遠くに見えるもんだなあと、思って帰りました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「中ザワヒデキ展in吉祥寺美術館」

2013-07-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
2013/07/02
ぽかぽか春庭@アート散歩>春庭の現代ゲージツ入門(10)中ザワヒデキ展in吉祥寺美術館

 現代ゲージツ、う~んワカラン。
 で、済ませてきました。好きになる機会もなかったので、敬して之を遠ざけて。
 私が好きだと言えるのは、印象派以後は、キュビズム、シュルレアリズムくらいまでがせいぜいです。抽象画というと、ミロ、カンディンスキー、ドローネー、モンドリアンあたりまで。

 デュシャンの「泉」も、話には面白いけれど、便器を見てゲージツだと思ったかというと、まあ、それならばどっかの学校に忍び込んで学校中の便器に「R. Mutt」とサインしてまわり、「芸術作品を汚すな」と叫んで、学校トイレを使用不能に追い込むとかした方が、学校中の窓ガラス割って回るよりずっとゲージツ的でよろしい、なんぞと思うだけ。

 現在は失われてしまった現物の「泉」が、実は保管されていたので、あなたに特別にゆずってあげようと言われたとして、本物かどうかは定かではない、ってところが、デュシャンの狙いなのだろう。ほんとに本物なら、むろん、美術館に寄付します。オークションにかけて、高値で売り抜こうなんて、かけらも思ったりしま、、、、、、
 TOTOのウォシュレットにサインして美術展に出したゲージツ家いるかしら。アンデパンダン展なら無審査で、出品料を1万円くらい払えば展示してもらえるのに。

 さて、現代芸術です。何度か木場の東京都現代美術館に行きました。ぐるっとパスの「タダで常設展みられます館」になっていて、タダが大好きな私、見ておかないとタダがソンした気になるので、見ました。何度か見ているうち、おなじみの作品も出てくるし、それなりに愛着がわいたりして、最近は、けっこう現代美術に抵抗がありません。 以前は、見ると水玉に酔って気分がクラクラしていた草間彌生も、近代美術館で「冥界への道標」を見て、あらためて、「いいな、草間彌生」と思えました。

 東京都現代美術館のリポートは、こちらに。
http://hal-niwa.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/09/post_fdd0.html

 中ザワヒデキ(1963~)は、美術家としては変わった経歴の持ち主です。東京ゲーダイとかタマビ、ムサビなんぞの出身者が多い中、中ザワは、千葉大学医学部出身の元眼科医です。新潟県生まれ、神奈川育ち。小学生時代に「平塚市風景画展神奈川県教育長賞(1974年」を受賞したということで、絵心は幼い頃からもっていた。医学部在学中も個展を開催し、眼科勤務医として仕事と平行してアート活動を続けてきました。

 吉祥寺美術館は、入館料100円なので、中ザワヒデキ展、2度見ました。2度みても、200円。
http://www.musashino-culture.or.jp/a_museum/exhibitioninfo/2012/10/post-104.html

 1月に見て、2月の会期が終わるとき「あ、今日で最後だから、もう一度見ておこう」と思う何かを、中ザワの作品に感じました。


 入り口のすぐ前に、碁盤上に白と黒の石を敷き詰めた作品が展示されていました。
『三五目三五路の盤上布石絵画第一番』1999


「盤上布石絵画」制作中

 新聞に碁の名人戦などの投了図が載っていることがあります。その白と黒の図を見て、碁がわからない私は、「模様がきれいだなあ、現代アートみたいだなあ」と思ったことがあります。二人の人が脳力を尽くして戦ったあとの布石が、きれいな模様になっていて、モダンアートに見えました。でも、最初からアートとして碁盤を扱った作品、1999年に中ザワヒデキが公開するまで、だれもアート作品にはしていなかったのではないでしょうか。

 碁盤の白黒を美しいと思って見て来た私も、視力検査表をアートと思って眺めたことはありませんでした。健康診断でだれでも一度は目にしたことのある視力検査表、眼科医中ザワヒデキにとっては、これもアートでした。視力表をアートモチーフとして使ったのも、おそらく中ザワが最初です。
 視力表をじっと見つめ(たいてい片目で)Cの字の開いている部分が上か左かと目をこらす。「見ること」を強烈に意識させる哲学的な作品でもあるのに、ポップで笑える絵。
 視力表シリーズは3点が展示されていました。ポスターになっているのは、「オヨヨカセイジンオヨヨ」とカタカナが書かれているもの。

「脳内で混ぜ合わせると灰色になるように」と、色彩が並べられた作品など、常に新しい表現方法をさがす中ザワの代表作が、展示数は少ないけれど見ることができました。
 脳波によって描かれた「脳波計絵画」とか、「目で見ること」をつきつめていく眼科医としての経験がどのように美術に反映しているのかも、とても興味深かったです。

 音楽分野やインスタレーションなど幅広く「現代芸術」にかかわっている中ザワヒデキ。うん、これから先、どんな奇想天外が飛び出すのか、たのしみです。

<つづく>
コメント (4)
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