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ぽかぽか春庭「アイリッシュ・ハープ-あなたを抱きしめる日まで」

2014-09-09 00:00:01 | エッセイ、コラム


20140909
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>かあちゃん映画(2)アイリッシュ・ハープ-あなたを抱きしめる日まで

 2012年12月に、イギリスオーストラリア合作の映画『オレンジと太陽』を紹介しました。イギリス、アイルランドカトリック教会が関わって、児童施設の幼い子ども達をオーストラリアに移民させたことを告発した映画です。子ども達は強制労働やカトリック神父による性的虐待など、さまざまな過酷な運命にさらされ、心身やんでしまった人も数多くいました。そのような運命を持つ子ども達が成人後、自分たちの本当のルーツを知りたいと、ケースワーカーの女性とともに母親探しをした実話に基づくお話でした。

 ジュディ・デンチ主演の『あなたを抱きしめる日まで(Philomena)』も、できごとの背景は同様の事情を持っていました。原作のノンフィクション『フィロミナ・リーの失われた子どもThe Lost Child of Philomena Lee』は、マーティン・シックススミスによって執筆されました。映画では、。奪い去られた我が子を探すフィロミナの協力者として登場します。
 20140821に、飯田橋ギンレイで鑑賞。

 イギリスのアイルランド地方。
 親を失った子ども、貧しくて親が育児放棄した子ども、未婚の母が生んだ子ども。それらの不幸な子ども達を、カトリック修道院などの児童施設からアメリカなどへ「養子」として出国させていた陰には、さまざまな秘密がありました。

 その秘密は、教会が子ども一人につき1950年代の値段で1000ドルの寄付を要求してきたこと。つまり、1000ドルの値段さえ払えば、子どもを買うことができた、という事実です。

 私が『あなたを抱きしめる日まで』を見たのは、デイム(Dame)ジュディ・デンチの78歳の演技はどういうものになっているのだろう、という興味からでした。ジェームズ・ボンドの上司Mであり、エリザベス1世やビクトリア女王を演じて、女王らしい威厳と華やかさと細やかな心理を演じてデイムの貫禄を見せてきたデンチ。
 『ラベンダーの咲く庭で』のマギースミスとの「婆さん恋心」演技合戦など、見応えのある演技を見せてきたデンチが、「母」の情念をどのように画面に出すのだろうという興味が半分。『オレンジと太陽』のほかにも、アイルランドカトリック、いろいろやらかしてますなあという野次馬興味半分。

 映画は、とてもよかったです。
 アイルランドの女性フィロミナ・リーが、50年間、奪われた息子を探し続けた物語です。

 デンチの母心演技もよかったし、「カトリック教会を誹謗中傷する映画」というカトリック側の非難をはね飛ばす強い内容を持った映画であり、カトリックの説く許しと愛の精神は、教会の中にではなく、素朴な女性の中にあるのだという思いが伝わりました。
 以下、ネタバレ満載の紹介です。未見の方、ご注意を。

 あらすじ
 看護師として30年働き、今は娘と静かな生活を送っているフィロミナ。娘にも打ち明けなかった秘密がありました。
 10代で未婚の母として息子を出産したことがあるのです。父親によって家を追い出され修道院で洗濯婦として働きながら息子アンソニーを育ててきましたが、息子が5歳のころ、突然養子を探しにきたアメリカ人夫婦によって連れ去られます。修道院側に、「息子の親権放棄」の書類を提出させられていたフォリミナは、泣きながら息子を見送ることしかできませんでした。いつか、息子を探し出すと、心に秘めたまま、50年がたちました。

 フィロミナは50年間息子を忘れた日はなく、「どうかアメリカで幸福に暮らしていてほしい。でも、もしもホームレスとか不幸な目になっているのなら、探して手をさしのべたい」と、思い続けていたのです。同様の運命にあった未婚の母も数多かったのですが、何度フィロミナが修道院をたずねても、息子アンソニーの消息は手がかりをつかめませんでした。「記録はすべて失われている」というのが教会のいいわけでした。

 ジャーナリストのマーティンは、フィロミナの話に興味を持ち、息子捜しを手伝うことになります。「母と子の感動の再会」を売り物の記事に仕立てようという編集長の話にのったのです。
 最初は、テレビジャーナリストを失業した穴埋めの仕事と思っていたマーティンでしたが、しだいに、ジャーナリストとして真実を明らかにしたいという思いが強くなり、フィロミナをつれてアメリカへ旅立ちます。

 フィロミナ自身は、修道院を訪問するくらいしか息子を探す手立てを持っていませんでしたが、ジャーナリストとしてさまざまな取材の手段と人脈を持っていたマーティンは、養子縁組や移民の記録から、ついに息子アンソニーの消息をを探し出します。フィロミナにとっては、過酷な真実でした。

 かってのカトリック教会には、「お金さえ払えば、子どもを金持ちのアメリカ人に渡す」という方針がありました。教会には、「未婚の母が生んだ子どもは、貧しく未熟な母親と暮らすより、金持ちのアメリカ人に渡したほうが子どもの幸福になるのだ」という考え方があり、修道女には「未婚で子どもを産むなどという大罪をおかした母親は、汚れている」という信念がありました。

 若いフィロミナがどれほど息子を愛していても、修道院にとっては、そんな愛情は身勝手なものであり、教会の方針はまちがっていない、と考えていたのです。そして、教会がお金で子どもを売っていたという事実が明らかになることをおそれ、互いに探し合っている母と子を知っても「記録はない」と双方に言って、真実を隠し続けました。

 フィロミナは、息子はアイルランドで生まれたことや、生みの母のことなど忘れてしまったのだから、息子がアメリカで自分を曲げずに生きていたというそれだけを胸に刻めばいいのだ、と納得します。
 しかし、マーティンはひとつの小さな事実に気づきます。手に入れたアンソニーの写真の胸元を拡大すると、そこには小さなハープのバッヂがついていたのです。
 
 アイリッシュハープは、アイルランドの国章です。イギリス先住民族ケルト人の伝統楽器で、ケルティックハープとも呼ばれ、アイルランド特産のギネスビールのロゴマークにもなっています。どうりで、マーティンの飲酒シーンでは、ギネスビールばかり飲んでいたわけです。観客は、マーティンが飲むとき、グラスや缶ビールのマークが画面に出てきたことの意味がようやくわかります。

 アンソニーは、アイルランドで生まれ育った日々のことを忘れていませんでした。アメリカで成功を収めたのち、アンソニーもまた、生みの母親を探し続けていたのです。
 フィロミナとマーティンは、最後にアンソニーの真実にたどり着きます。アンソニーは、生みの母親のもとに戻ることを願ったのでした。いつか母が自分を見つけ出してくれると信じて。

 アンソニーと同じように、母親を探し続けた子ども、そしてフィロミナのように子どもを探し続けた母親は数多くいますが、カソリック教会は「子どもを金で売りさばいた」という非難を浴びないために、養子縁組の記録を隠し続けました。(カトリック教会は、神父が児童への性的虐待を続けてきたことや、マグダレン洗濯所で精神的虐待を含む強制労働を収容されている女性達に押しつけてきたことは、ようやく認めたのですが)

 オックスフォード大学出身のエリートジャーナリスト、マーティンは、理知的な無神論者。一方フィロミナは、信仰を持ち続け、ハーレクインのような「ロマンス小説」を愛読する素朴な女性です。最初は、自分自身がジャーナリストとして復活するためにフィロミナの息子捜しを手伝っていたマーティン。

 オックスフォードとケンブリオックスフォード出身のエリート層であるマーティンは、初めのうち、フィロミナを単純な信仰心の持ち主と思っていました。
 オックスフォードとケンブリッジをいっしょにしてエリート層であることを表すオックスブリッジというのですが、フィロミナはオックスブリッジという名の大学があると思い込んでいるような、エリートとは縁遠い田舎の女性、と、マーティンの目には映っていました

 しかし、フィロミナの人柄を知るにつけ、彼女が真の許しの心を持った深い愛情の持ち主であったことを理解していきます。
 フィロミナの息子を探し続けるうち、マーティンもフィロミナの人柄から感化を受けていたのです。

 過酷な運命を受けながら、自分を苦しめた人々をも許していくフォロミナ。デンチは、ユーモアに包みながら、繊細な演技で母の心を表現していました。フィロミナの深い愛情を知ることによって、映画は悲しくも充実した余韻を残して終わります。

 原作の『フィロミナ・リーの失われた子どもThe Lost Child of Philomena Lee』を、タイトルロール Philomenaだけにしたのは、主人公のデンチを引き立たせているからいいのだけれど、『あなたを抱きしめる日まで』なんていう日本語タイトルにするくらいなら、私なら「ケルティックハープが響く日まで」という題にします。ラストシーンにはアイリッシュメロディをながしてエンドロール。

アイルランドの国章アイリッシュハープをマークにしたギネスビール


 アイリッシュ・ハープは、イギリスにもともと住んでいたケルト人たちが大切にしてきた民族楽器。アイルランド出身のアメリカ人にとっても、ケルティック・ハープのマークは、心のよりどころになっている、ということを、英国米国人は皆知っていることだけれど、日本人にとっては、ギネスビールのロゴマークとして知られている程度ですから、映画の勘所であるケルティッシュハープを、もっと全面に出してもよかったのでは、と思います。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「我が大草原の母・額吉エージ」

2014-09-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140907
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>かあちゃん映画(1)我が大草原の母

 日本では劇場未公開だった中国映画、NHKの放映を録画しておき、夏休みに見ることができました。モンゴル族出身の寧才(ニンツァイ)が監督した「我が大草原の母」原題「額吉エージ(モンゴル語で「母」の意」


中央の漢字「額吉」とモンゴル文字エージが重なっています。
エージはモンゴル語で「母」です。

 中国では、毛沢東は今や神様の扱い。毛沢東の事跡への教育はしっかりなされていて、「失敗もあったが、現代中国にとっては、失敗面よりも功績面を大きくとらえるべきである」という「功績第一、誤り第二」という公的な評価は、中学生でも口にする。
 その「失敗」のひとつは、私も強烈な印象を持った文化大革命。1960年代末文化大革命によって数千万人、一説には1億人近くが粛正されたといいます。文化大革命とは、大躍進政策の失敗によって権力が弱まった毛沢東による権力奪回の大キャンペーンでした。

 1958年の毛沢東政策の失敗については、当時は海外への報道も押さえられ、私もこの「大躍進の失敗」についてあまり理解しないままでした。
 毛沢東が大号令した、無謀な人海戦術による製鉄と人民公社方式による農業経営の失敗によって、1960 年から数年の間に、中国全土に5000万人以上の餓死者が出ました。なかでも上海地域には、このまま飢え死にさせるよりは、孤児院で育ててもらいたいと考えて子を捨てる親もいて、多くの孤児が残されました。

 この大躍進失敗飢餓によって、親を失ったり親から捨てられたりして生まれた孤児が上海だけでも3000人に上ったこと、長い間国内外で大声では語られてきませんでした。
 中国映画『我が大草原の母』は、中国内モンゴル出身の監督ニンツァイが、この時代の漢人孤児とモンゴル族の母の実話を映画にしたものです。以下、ネタバレを含むあらすじ紹介です。

 1960年代のはじめ。中国共産党支配下の内モンゴル地区。人々は昔ながらの遊牧を続けていましたが、草原の村は共産党の幹部が支配していました。幹部はさまざまな命令を下し、子どもの進学も個人の希望ではなく、すべて党の命令によって決められていく、という時代でした。

 ある日、党幹部は村人を集めて告げます。「乳の出る牛を飼っている者は、上海から連れられてくる孤児を引き取って育てること。それが、国家のためになる」と。
 もともとモンゴル族は、遊牧民のならいとして、自分の子と他人の子を分け隔てなく育ててきた人々です。国家への忠誠などといわれずとも、人情として、親がいない子があれば、育ててやる人々なのです。

 孤児達が列車に乗せられて内モンゴルに到着すると、乳児を持つ母親達は、いっせいに自分の乳房を出して孤児の赤子に含ませました。粉ミルクを飲めない赤子がいると聞くと、モンゴル族の母たちは、我が子を置いて、漢族の孤児のために自分の乳房を与えたのです。だれに命じられたのでもない、ただ、子どもは大地の子、天からの授かりものとして、だれの子であれ大切にしたいと、遊牧民の母たちは乳を飲ませてやったのです。

 チチクマ(其其格瑪 演:ナーレンホア娜仁花。ニンツァイ監督夫人)は、夫と息子バトル(巴特爾)、姑といっしょに、羊を飼ってつましく暮らしていました。村の集まりに行って幹部の話を聞き、孤児を引き受けようと決心します。親のない子がいるなら、育ててやるのは、当然のこと、と。しかし、党幹部は「乳牛を飼っている者でなければ、子を渡さない」と言います。

 チチクマは、夫の反対を押し切って、大切な羊や家の中のめぼしいものを売り払って、牛を買いました。姑は、大切にしまっておいた婚礼の飾りを、「売ってこい」と、チチクマに渡します。

 こうして、上海の孤児がふたり、チチクマのもとにやってきました。ふたりは、血のつながりはありませんが、孤児院でいつもいっしょにいて、兄妹のように離れずにいたのです。チチクマは、ひとりもふたりもひきとるなら同じ、と、ふたりいっしょに育てることにしました。

 漢名ユーション(雨生)と妹のジェンジェン(珍珍)。
 シリンゴフ平原(錫林格勒草原)からとって、シリンフ(錫林夫)、シリンゴワ(錫林高娃)と名付けます。



 やさしい養母のもと、ふたりの子は、チチクマの実の子と分け隔てなく大草原で成長して行きました。ふたりとも頭がよく、シリンゴワは教師として地元の学校で働いています。シリンフには、党幹部から大学進学の推薦がもらえるかもしれない、という希望がでてきました。

 チチクマは誰にたいしても心やさしく、他家の家畜を盗んだ罪に問われた村人が引き立てられてゆくのを見ると、一杯のお茶をふるまおうとします。ところが、これが党幹部に知られ、国家への反逆心を持つ、と解釈されてしまいました。シリンフの大学進学推薦も暗礁に。  

 1980年代になると、上海の経済は大きく発展していきました。
 「捨てた我が子を取り戻したい」と、親たちが「我が子捜し」を始めます。シリンゴワの実の親も会いに来ます。チチクマは、シリンゴワの将来を考え、都会に出て実の親と暮らすよう説得します。
 やがてチチクマの実子バトルも、将来を考えて軍人になろうと草原を出て行きます。

 シリンフはただひとり母を助けて働き、詩を書くことを唯一の心のなぐさめにしていました。そんなシリンフのもとにも、上海の実の親が判明したという連絡が入ります。
 「飢えに苦しんだあげく、親のもとにいるよりは、孤児院のほうが生き延びられるかと思って捨ててしまった。毎日捨てた我が子を思って泣き暮らしていた」と、実の両親は言います。しかし、シリンフは草原の母こそ自分のほんとうの母、と、実の親との同居を承諾しませんでした。

 婚礼の飾りを売って里子を迎えた養祖母も老いて死んでしまいます。自分の死をさとったおばあちゃんは、孫達に言います。「死は特別なことじゃない。人は大地に生き死せば大地に戻っていく」
 
 シリンフを育て上げた母も、やがては大地に帰って行くでしょう。その目をとじるとき、実子と里子ふたりを育てた愛情は、大草原に広がっていくのです。

 シリンフが上海から帰って行く現代の内モンゴルには、発電用の風車が立ち並んでいます。時代は変わっていきます。
 内モンゴルでは、定住化がいやおうなく進められ、私が教えた内モンゴル出身の留学生たちもそのほとんどは、都会定住の暮らしでした。「夏休みには祖父母のいる大草原で暮らすのが楽しみだったけれど、自分は遊牧民として生きていくのは難しい」と、留学生達は言っていました。

 このような映画を見ると、果てしない草原で、はかりしれない愛情を持って子を育て、大地の一部になっているかのように自然の摂理に従って生きていったモンゴルのかあちゃんが、今も大草原に生きていてほしいと思うのです。

 日本映画の母ものだと、「母性のまったき肯定」には、いささか反発を感じてしまいます。あまり「よい母」ではなかった自分に負い目を感じるからかもしれません。
 しかし、遠いモンゴルの話なら、こういう母のあり方をすなおに受け入れられる気がします。遠ければ遠いほど「母ファンタジー」を受け入れられるという心理なんでしょう。
 日本だと、24時間テレビの中のドラマくらいしか、「母もの」は受けなくなっているんじゃなかろうか。たとえば、三益愛子の母物を今放映したとして、「三倍泣けます」というキャッチフレーズのとおりにハンカチ手ぬぐいを三つ用意する客がいるだろうか。

 「我が大草原の母」は、2011年NHKアジア・フィルムフィステバル優秀賞受賞作品ですが、いまだに劇場公開はされていないのは、残念です。

 ナーレンホア演じるチチクマはモンゴルの大地神に祈りを捧げつつ、いとしい育て子を産みの親に返してやる。

 う~ん、そんなすばらしい母を映像で見ながら、私は今日もごろごろと「夏休みなのに、遠出もできない」とかいいながら、テレビを見てすごしました。息子が「我が母」を描くなら、「クウネルごろごろ我が大腹の母」ということになるかも。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「旧東京医学校(東京大学総合研究博物館小石川分館)」

2014-09-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

2014年9月4日の旧東京医学校

20140906
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(4)旧東京医学校(東京大学総合研究博物館小石川分館)

 文京区小石川にある旧東京医学校の校舎は、何度も紹介してきました。
 四季折々に小石川植物園を散歩します。花や木を見ながら歩いたあとは、たいてい植物園の北の端に建っている博物館に寄ることにしていましたから、ツツジの時期、ハンカチの木の白いハンカチが広がる時期、桜の時期、植物園を散歩し、旧東京医学校を見てきました。

2,010年の桜のころ

2,011年のツツジのころ

 私がはじめて旧東京医学校の姿を見たのは、1985年か86年。娘の保育園の遠足先が小石川植物園でした。広い園内でお弁当を食べて楽しく過ごし、園内散歩のおりに見かけた旧東京医学校の校舎は、1,970年に重要文化財に指定されたとはいっても、何も利用されておらず、絵に描いたような「幽霊が出そうな洋館」といった趣でした。このころ館内に忍び込んだ近所の悪童がいたなら、きっと「明治時代に解剖授業なんぞが行われた教室」と言われるあたりから、青いぼうっとした光が出ていくのを見た、とかの噂を信じたに違いない。

 それから15年たった2,001年、ようやく東京大学総合研究博物館小石川分館として公開されました。私が中を見学したのは、公開されてからしばらくたってからだったと思います。入場無料というのを知らなかった。

 博物館の見学を楽しむようになってから以後、そうとうたって、この建物が、全国に残る明治の擬洋風建築の嚆矢であり、全国の擬洋風校舎のお手本にされたことを知りました。
 昨年、山形などの擬洋風建築を見たとき、地元の大工さんたちは洋風の校舎を建てるよう要請されると、すぐに上京し、東京医学校や開成学校を見学して、洋風建築というのがどういうものか、外観や内装、木組みなどを見て研究した、ということを知りました。

 洋風校舎を依頼された宮大工たちがお手本にしたのが、1,876(明治9)年竣工の東京医学校と、その翌年の開成学校でした。
 1,877年に東京医学校と開成学校は合併し、東京大学となったため、医学校は東京大学医学部と名称を変え、1,911年に赤門前に移築。その際に山口孝吉が移築設計をほどこし、窓枠、手すりなどに改築を加えらました。
 1,965年まで本郷キャンパスで史料編纂掛として利用されました。1,969年に本郷から小石川の理学部付属植物園内に移転。1,970年に文化財指定がなされましたが、公開はされていませんでした。

 博物館として公開されてから、大学の教育設備(古い顕微鏡などの教育機材や、学術標本)などの展示をしていました。2,006年にこれらの教育設備を「驚異の部屋」として常設展示するようになって、とても展示方法が垢抜けて見学するおもしろさが増しました。

 入り口側から

 2,013年12月のリニューアル以後は、「建築博物誌アーキテクトニカ」の展示をしています。旧医学校の建物自体が建築史上の重要な建築物であることを生かし、「アーキテクト」を展示の中心的なコンセプトにしています。
 アーキテクチュアarchitectureとは、構成原理、統括原理、設計思想、設計仕様、建設、建築という幅広い意味を持つことばで、アーキテクトニカとは、それらをすべて含んだ意味での展示をしていく、ということだそうです。

 リニューアル前はそうではなかったと思うのですが、古い柱をそのままむき出しにして、明治時代の建物のようすを展示しています。また、天井をはずして、棟木、梁などが見られるようにしてあります。

柱の展示


天井の展示


 最初に校舎を設計したのは工部省営繕局に所属した技師たち。施工は本郷近辺の大工たちだったことでしょう。江戸の名残もまだ消えていない本郷近辺。宮大工が選ばれたのか、藩邸の仕事を失った大名屋敷お抱えの大工だったか、名前は残されていません。柱の一本一本、天井の梁を見ていると、明治9年にこの建物を建てた大工や、1,911年に赤門前に移築したとき屋根を吹き直した瓦職人たち、壁を塗り直した左官たち、それぞれの声が聞こえてくるようです。

ベランダ


<おわり>
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ぽかぽか春庭「旧松本高校」

2014-09-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20140904
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(3)長野県旧松本高校

 昨年の夏、長野新潟山形の近代建築探訪の旅をした記録のなかで、旧松本高校の写真をまだUPしていませんでした。

 北杜夫の「ドクトルマンボウ青春記」を読んで自由闊達な校風だった旧制松本高校を知ったも、ずいぶんと昔のことになってしまいました。
 私の卒業した女子高校は、旧制女学校時代の良妻賢母教育を受けた卒業生がそのまま母校で教鞭をとっているような時代で「私の目の黒いうちは、生徒に勝手なことをさせぬ」と教壇から見下ろしていました。早く自由のない高校を出て、自分なりの生き方を見つけたいと願っていました。

 田舎町では、女の子が大学なんぞに行くと今期が遅れると言われていて、1クラスに55人も詰め込まれた団塊時代、8クラスのうち、4年生大学進学希望は1クラスだけ。2クラスは短大、専門学校進学クラス。あとの5クラスは、高校を出て数年おつとめしたら結婚という、「女の幸福は結婚にある」という学校方針に逆らわないクラス。
 それが、今では県下でも有名大学進学率を競う進学優先校になっている、とは、クラス会幹事のひさちゃんの報告によります。

 それに比べると松本高校では、北杜夫たち、戦時下であっても、ずいぶんとのびのび青春をすごしたように思えました。自治と自由平等という理念を、軍国主義が強まっていく中でも持ちこたえていた、というところが多くの人材を育てたゆえんでしょう。

 北杜夫のほか、文学関係だけあげても、臼井吉見、唐木順三、辻邦生、中島健蔵などそうそうたる人々が輩出しています。
 かれらが、語り合ったであろう校舎、本館と講堂が現存しています。
 現在は、松本市あがたの森文化会館として、地域交流の拠点として利用されています。重要文化財指定は2007年。

 中庭を囲むコの字型の校舎。


 本館は、1920(大正9)年竣工の洋風建築、講堂は1922(大正11)年に竣工。
 明治大正の学校建築の保存でも、移築復元の建物が多い中、旧松本高校は、当初の場所にそのまま残されており、貴重です。設計は、文部省大臣官房建築課が担当。

 復元された旧校門から


 中庭。生徒達が将来の夢をかたりあったこともあったかもしれません。


階段室と廊下
  

復元された校長室


   

 私が見学したときも、本館では[「サロンあがたの森」という集まりの講演会や子供中心のイベントが行われていて、市民の利用は活発なようでした。
 

<つづく>
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ぽかぽか「旧睦沢学校(藤村記念館)」

2014-09-03 00:00:01 | エッセイ、コラム

旧・睦沢学校

20140903
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(2)旧睦沢学校(藤村記念館)

 8月2日、中央線で小淵沢に向かう途中、甲府駅を通過するとき車窓から見かけたのが、「旧睦沢学校校舎」。
 2010年から甲府駅北口で公開されているのですが、去年2013年に電車で甲府を通過したときは、3度とも寝てしまい、気づきませんでした。「乗り鉄」は本来、車窓を眺めることこそ電車に乗る喜びを感じるものなのに、電車に揺られるとすぐに眠くなるのも事実。
 2014年8月3日は、ちゃんと甲府駅の外を見ていられました。

 山梨県内に現存する藤村式建築の学校は5校。睦沢学校(甲府市藤村記念館)、尾県学校(尾県郷土資料館 都留市)、室伏学校(牧丘郷土資料館 山梨市)、津金学校(須玉歴史資料館 北杜市)、舂米(つきよね)学校(富士川町民俗資料館 富士川町)。
(舂米の「舂」は、「春」の「日」が「臼うす」です。米を舂いて精米するのが「舂」。校正者泣かせの漢字のひとつ。「柿かき」の旁は市「いち」だけど「杮こけら」は「市」じゃない、みたいな、留学生ならずとも、どこがどう違うんじゃ、と言いたくなる漢字もあります)

 山梨県の藤村式建築をめぐる散歩もいつかコンプリートしたいけれど、8月3日に行った津金学校と、8月26日に見た旧睦沢学校校舎の紹介から。

 8月26日火曜日、甲府市へ行きました。山梨県立美術館でミレー展を見るのと、旧睦沢学校を見るためです。
 甲府で下車するのは、40年ぶりくらい。40年前の甲府駅がどうだったか、まったく記憶にありませんが、駅の北口はきれいに整備され、北口広場には、旧睦沢学校が移築復元され、「藤村記念館」として公開されていました。

 睦沢学校は、1875(明治8)年、睦沢村(現・甲斐市亀沢)に建てられました。1960年代になると、老朽化のため、解体後、廃棄されることになっていました。当時は「古い木造建築でなく、コンクリ製の新しい校舎こそ子ども達のためになる」という意見が主流。しかし、歴史ある建物を惜しむ人々によって、いったん解体された校舎を移築復元しようという運動が起こり、武田神社境内に復元され、公民館として利用されてきました。
 旧睦沢学校校舎は、1967年に重要文化財指定。



 さらに、甲府駅北口整備の際、武田神社から駅前広場へ移転し、これらの藤村式建物を主導した県令藤村紫朗の記念館として残されることになりました。

塔楼

 旧睦沢学校は、1875(明治8)年、藤村式学校の中でも、もっとも早い時期に建設されたもののひとつです。
 手がけた大工棟梁は松木輝殷(てるしげ)。
 山梨県旧下山村で「下山大工」と呼ばれたる大工達の頭領のひとり。下山大工は、大工集団として知られ、早くは鎌倉時代から大工として活動し、各地の神社仏閣武家屋敷などの建築を担ってきたそうです。

 松木八三郎輝殷(1843-1882)は、下山の宮大工頭領松木運四郎宣絹の次男として生まれ、父の元で宮大工として修行をはじめました。10年ほどの修業時代に、宮大工の技のほか、建築の製図、積算、神社仏閣を飾る彫刻の絵様(デザイン)までを身につけました。
  明治維新後、父が亡くなると25歳で独立しましたが、明治政府の廃仏毀釈の時代となり、宮大工の仕事が激減していました。
 八三郎が独立したころ、山梨県に赴任してきたのが県令藤村紫朗です。

 藤村の命を受けて、小宮山弥太郎は津金学校を建てたあと、梁木学校、琢美学校、勧業製糸場を完成させていました。松木八三郎がどの時期から洋風建築に携わったのかは、正確な記録はありませんが、八三郎の父運四郎と小宮山の師匠が知り合いだった関係から洋風建築に関わっていったのではないかと推察されています。
 藤村から次なる学校の建築依頼を受けた小宮山は、裁判所などの官庁の建設に手一杯だったため、相弟子だった松木運四郎を継ぐ八三郎の腕を見込んで、日川学校を彼に託したのではないかと。

睦沢学校ベランダ


 八三郎は、1875(明治8)年に睦沢学校を完成させ、続けて祝学校などを建てていきました。
 睦沢学校大工支払帳には「輝殷」と記されています。洋風建築大工として転身した折に八三郎ではなく、輝殷と名乗ったと思われます。
  明治初期の廃仏毀釈が収まったあと、輝殷は寺や神社の設計図を書き、本来の宮大工として働こうとしましたが、惜しくも39歳でなくなりました。
 亡くなったのちも、松木輝殷がおこした図面をもとにした勝沼郵便電信局舎が1898年(明治31)年頃に建てられるなど、輝殷の仕事は受け継がれていきました。 

 このようなに、下山大工の残した仕事が明らかになったのは、松木輝殷の子孫が建築図面などを大切に保存し、公開したことによります。松木家文書により、江戸時代後期から昭和初期に及大工関係資料が広く知られ、山梨の建築文化研究が進展しました。
 
 甲府駅前の旧睦沢学校は藤村記念館となり、1階には藤村の事跡を知らせる一室があります。
 1880(明治13)年には、明治天皇の甲州・東山道東山道行幸が行われました。藤村紫朗は、さぞや得意な顔で彼が命じて完成した道路や官庁舎、学校校舎をお目にかけたことでしょう。
 藤村は、甲州街道青梅街道などを作り上げ「道路県令」と評されたことが、北村透谷の日記に書かれています。

 以下は、全国の県令について記された刷り物。藤村について挿絵つきで紹介されています。


 古い建物が残されているのを見学して、私の思いはいつも建築を命じた人以上に、実際に建築に携わった職人達に思いが至ります。彼らはものを作り上げること一点に生涯をかけ、名を残すことは気にもかけない人たちだったかもしれない。でも、柱にカンナをかけ、鑿で垂木にほぞをうがったその仕事のひとつひとつをこそ、私は顕彰しつつ眺めたいと思うのです。

 小宮山弥七郎や松木輝殷など、その事跡がしだいに明らかにされている大工だけでなく、屋根裏の棟木に密かに名を記したのみで記録からは消えてしまった大勢の大工や左官もいたことでしょう。
 腕一本をたよりに仕事をした人々がいたことを、誇りに思いつつ津金学校や睦沢学校を眺めました。

<つづく>
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ぽかぽか春庭「津金学校(須玉三代の学校)」

2014-09-02 00:00:01 | エッセイ、コラム

津金学校

20140903
ぽかぽか春庭@アート散歩>建物散歩学校校舎part2(1)津金学校(須玉三代の学校)

 一般に「擬洋風建築」と呼ばれている近代洋風建物、山梨県では特に「藤村式建築」と名付けられています。
 建築趣味の県令(現在の県知事)藤村紫朗(ふじむらしろう1845 - 1908)の号令のもと、1874-1887年に山梨県内の公共施設や学校の多くが、「洋風建築」として建設されました。

 明治初期、山梨県では、藤村紫朗が県政に辣腕をふるい、殖産興業・教育改革を実行しました。学校建築もその施政のひとつです。藤村のやり方は、官が命令を下して旗を振り、ただし、費用は地元に負わせる、という方法。そのため、後年には大きな反発も生まれ、反藤村勢力ができましたが、明治19年に藤村が愛媛県知事に転任するまでに、県内に100以上もの建物が建てられました。

 8月3日、妹といっしょの清里ドライブ。
 妹と姪のお気に入り「森の雑貨屋」で木工製品の買い物をしたあとは、私の希望で「津金学校」を見学しました。津金学校は、三代の学校校舎が並んでいます。

 昭和校舎は元は津金中学校でしたが、建て直されて、パン屋、地元産の野菜を売る店、昭和の給食が人気メニューになっているレストランが運営されていて「おいしい学校」と呼ばれています。8月3日は予約の団体利用のみの営業で、残念ながら一般客は給食を食べられませんでした
 大正時代の校舎は、復元修復された木造校舎で、地域住民交流施設になり「ハーモニカ教室」など、地域の人たちの居場所です。

大正の校舎


 明治の校舎は須玉歴史資料館となり、古い音楽教育用の楽器などを展示しています。 
 明治津金学校は、藤村式学校の最初期の学校です。
 山梨県須玉町津金地区(現・北杜市須玉町下津金2963)に、1875(明治9)年に建てられました。藤村紫朗の号令により、村人達が寄付を集め、大工棟梁小宮山弥太郎が統括して完成しました。
 津金学校は、移転などがなされずに、地元にそのまま保存がなされたという点で貴重な擬洋風建築です。



 漆喰壁の校舎に大唐破風(おおからはふ)造りの玄関、西洋のチャペル鐘楼を模した太鼓楼など、在来の大工技術により西洋建築の外観を模した和洋折衷の作りです。ドアやベランダ手すり、鎧戸の窓は、当時輸入品で高価だった青いペンキで塗られ、村の人々は文明開花を実感しつつ、ハイカラな校舎を誇りにしたことでしょう。

玄関の唐破風


2階ベランダの菱組み天井

太鼓楼と始業終業を知らせる太鼓楼


青い鎧戸


復元された2階教室




 大工棟梁小宮山弥太郎は、1828年10月17日甲斐塩山(今の塩山市)に生まれ、15歳の時に島村半平に弟子入り、宮大工の修行に励みました。洋風建築については、独学だそうです。
 弥太郎は、藤村紫朗の号令のもと、梁木(やなぎ)学校、琢美(たくみ)学校、山梨県師範学校などの学校建築、甲府及び静岡裁判所、県立病院、山梨県庁舎などの公官庁の建物を手がけ、藤村が愛媛県知事に転任すると、愛媛に呼ばれて建築を任されています。それだけ小宮山の腕が信頼されていたのでしょう。

 愛媛での5年間仕事をしたのち山梨に戻り、後進を育てつつ、1917(大正6)年には宮大工棟梁として武田神社の新築を監督しました。1920(大正9)年93歳の長命を保った一生、大工として思い残すことのない生涯だったと思います。

 小宮山の建てた藤村式建築のうち、現在も保存されているのは、この睦沢学校だけです。
 山梨県だけでなく、明治初期の大工達は独学で洋風建築を学び、明治の文明開化を建物によって人々に見せることをやり遂げました。
 残念ながら、当時の建築図面などの記録類が残されていることはほとんどなく、担当した棟梁や左官の名も残されていないことが多いのです。解体修理のさいに、天井裏などから棟板が発見され、こそに大工左官の名が書かれていたのが発見され、ようやく大工棟梁名などが明らかになった、という例もあります。

 建築を命じた建築趣味の県令藤村紫朗は、男爵ともなり、記念館も建って顕彰されていますが、大工や左官も、もっと顕彰されるべきだと思います。
 もっとも、小宮山は、武田神社や睦沢学校がこうして現存しているだけで、満足しているのかもしれませんが。

 うれしいことに、展示品のオルガンや蓄音機は、「自由にお使いください」という表示が出ていて、小学唱歌の楽譜などがおいてあります。
 私と妹が、かわるがわる50年前に習ったバイエルの曲などをたどたどしく弾いて音を出してみたら、3月まで保育園の保母さんをしていた姪は、子供達と歌った歌を上手に弾いて聞かせてくれました。

 明治時代の田舎では、人々にとって学校は唯一の「文明文化に向かって開かれた窓」だったのだろうなあと、オルガンの音色に聞き入りました。
 すっかりと指が動かなくなっていて、バイエルさえ満足に弾けなかった私は、高所恐怖症の妹は上ってこられない太鼓楼に上って、「自由にたたいてください」とバチがおいてあるので、終業を知らせる太鼓をドンドンと打ち鳴らしました。




<つづく>
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