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ミンガラ春庭「ヤンゴン大学授業見学」

2015-04-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150409
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン出張(5)授業見学&ラングーンバー

 3月26日午前中は、バスに乗って外国人教員宿舎を見学しました。
 
 当地には市営バスとか鉄道会社営バスなどがなく、ほとんどのバスは一台ごとの私営。日本や韓国中国などから、廃棄寸前のおんぼろバスを輸入。バスの車体には輸入元のハングルやら漢字やらカタカナやらがそのまま書かれたままですが、市民には模様と同じですから、だれも気にしていない。日本から来たバスの中には「お降りの方はこのボタンを押してください」と日本語で表示してある下車ボタンがついていますが、むろんボタンを押しても鳴りません。



 お金のあるオーナーが、中古バスを購入。それを運転手に貸し出す。運転手は車掌をふたり雇って営業を始める。車掌のひとりは「スーレー、スーレー」などと、行き先を怒鳴る係。もうひとりは、客に下車先を聞いて、お金を徴収する係。
 最初に乗った一台は運良く座れましたが、どのバスもたいていは満員ぎゅーぎゅー詰めです。歩くと30分くらいかかる距離、停留所3つ分くらいで150チャット(約15円)~200チャット(約20円)外国人だからといって特別親切にもしてくれませんが、ボったりもしません。

 だいたい、ミャンマーの人は、他者に対してごく親切でおだやかにふるまいます。もし、人をだましたり嘘をついたりしたら、仏罰によって来世はゴキブリだとか芋虫に生まれ変わってしまいますから大変です。来世もちゃんとした人間に生まれ変わってくるためには、善行を積み、仏や僧に喜捨をしなければなりません。

 しかし、この考え方でいくと、身体に不自由をかかえて生まれてきてしまった場合、それは前世の行いが悪かったのだとみなされてしまうのです。市内には体の不自由な人がかなりいて、乞食をしていました。人々は報謝してお椀に小銭を入れていましたが、国の福祉政策はまだまだ行き届いていないようでした。

 市内には、街ごと角ごとにお寺があります。人々はお寺に朝夕お参りし、お経をとなえます。お寺は日本のように檀家を持ち葬式を司るということはしない。ミャンマー人にとって、信仰とは、ただ自分を高めるためにあり、釈迦という偉大な尊敬すべき人間を理想として、少しでも釈迦に近づける人間になるためにお寺参りをするのです。

 道ばたには、無料で人々に供するための水瓶がところどころに置かれています。これも、人に水を喜捨することが功徳になるからです。サンスクリット語がもとになっている功徳、ミャンマー語でもクドッといいます。


 歩道を歩いているときでも、まわりをきょろきょろなんどしていてはいけません。道は穴ぼこだらけで、穴に足を取られて転ばないよう、しっかり足下を見てあるかなければならないのです。


 道ばたは例外なく露店が出ていますから、ときに、人は車道を歩く。

 チャイニーズフードという店の看板の前で、店とは何の関係のない揚げ物売りの露店がでています。そのうち、こういう露店を出すには、どういう権利によるのか調べてみたい。日本の露店商組合のようなのがあるのか、街をしきって所場代とるような組織があるのか。


 町を歩く人は、男女ともロンジーという腰巻きスタイル。若い人の中にはジーンズスタイルもありますが、ロンジーが圧倒的です。車は信号を守りますが、道の横断は。みんなで渡ればこわくない方式。慣れないうちは、ひたすら他の人が渡るあとをくっついていく。


繁華街のひとつ


街の集合住宅


 ヤンゴン市は、ヤンゴン川のほとりにある下町が一番先に繁栄した地域で、ヤンゴン大学のあるあたりは市の中央地域。外国人教師宿舎は市のやや北部にあります。
 バスを降りてからの歩き方を教わったのですが、方向音痴の私、とうてい一度ではおぼえらません。これは赴任してから相当訓練しないと。

 午後3時から、最後の授業を見学。学生達はすでに帰郷してしまっていないのですが、英語科の先生3人が日本語授業を受けていました。先任のK先生「英語科の先生だけのクラスだし、何しようかしら。カルタを持ってきたので、最後にやろうとおもうけれど、これだけじゃね」というので、「買い物ごっこをしてみたらどうでしょう」と提案しました。初級のクラス、たいてい買い物ごっこが好きなので。

 K先生、絵カードをつかって、日本の食べ物や果物名を復習。それから買い物ごっこ。事務室にあった本屋雑誌に適当に値段カードをつけます。本屋さんでは値引きしないので、日本の公園のフリーマーケットという設定で。
 先生方、「これ、いくらですか」「やすくしてください」などのフレーズを楽しそうに練習していました。

 最後に私がお菓子屋さんになり、日本から持っていった「たけのこの里、きのこの山」小袋のお菓子を架空の日本円で売り、そのままお菓子をプレゼントしました。
 楽しんでもらえてよかったです。

 26日夜は、外国人宿舎近くの「ラングーン・バー」で、ヤンゴン日本語教師会の先生と面会。外国語大学で日本語を教えているT先生、ヤンゴンは2年目に入ったところで、その前はインドで4年間教えていたというエネルギッシュな男性でした。ごいっしょした先任のK先生と私とT先生の共通点は3人とも中国に赴任した経験をもつことでした。海外での日本語教育の苦労をそれぞれに持ち、日本語教育への情熱をわかり合えるおふたりのお話をうかがうと、老体の私でもなんとかがんばれるのではないかという気がしてきました。

 ミャンマーのビールをいただきながらの歓談。楽しかったのですが、このとき食べたおつまみは、どうも私のおなかに悪さをしたようでした。
 27日の朝、おなかが痛くなったのです。日本では賞味期限が1週間くらいすぎたものでも平気で、「鉄の胃袋」を誇っていたのですが、どうもヤンゴンの食べ物に鉄の胃袋もまけてしまいました。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴンの朝ご飯」

2015-04-08 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150408
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン出張(3)ヤンゴンの朝ご飯

 ミャンマーの一般の人は、自宅で朝ご飯を作る人は少なくて、仕事に出る前に、道ばたの食堂で麺やチャーハンを食べる人が多い、というのを聞いて、さっそくホテルの朝ご飯の前に、ホテル周辺をひとまわりしてみました。ヤンゴン3 目、3月26日の朝のこと。

朝ご飯を食べる人々が集まっていた店
奥のおじさんが麺をゆでて、背中をむけているおばさんがボールの中で麺と具を混ぜ合わせてつくります。


台の上に調味料や薬味を並べ、ボールの中で麺と具、調味料、油を混ぜ合わせる。おわんに一杯のうどんが約50円。


これで500チャット(50円)


おいしくいただきました。このあと、ホテルにもどって、トーストと目玉焼きの西洋ブレックファストも食べたのですが。


ヤンゴンの街あるきには、いただいたシャンバッグを肩にかけて。

 
<つづく>
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ミンガラ春庭「ヤンゴン大学」

2015-04-07 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150407
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン出張(3)ヤンゴン大学

 3月25日26日は、大学内を見学しました。試験期間が終了したあとだったので、学生の姿は少なかったのですが、先生方は試験の採点などで忙しい時期。大学の学部教育が再開されて2年目に入ったところです。

ヤンゴン大学の正門のプレート


英語学科の建物


 日本語教育の教室は、ヤンゴン大学文学部英語学科の中に居候させてもらっています。
 英語学科長、副学科長にあいさつし、英語学科の先生方にひきあわしていただく。名前を教わったけれど、名前と顔がまったく一致しません。
 みな、アウンとかマウンとかいう名前で、耳で聞いただけでは記憶に残らない。名刺ももらったのだけれど、文字と顔が一致しなくて。

 学科長さんにおみやげの日本酒を渡したら、ミャンマー民芸品のシャン族の肩掛け鞄をお返しにプレゼントしてくれました。

英語学科中庭


 大講義室、教室。なんとなく昭和ムードの講義室です。


学食
 

25日に学食で食べた120円の麺
 
26日に食べた学食ランチセット230円


 日本語の事務室に書棚を入れる作業があるので、業者を待つ間、大学周辺を歩きました。
 昨夜、乾期の終わりを告げる雨が降った、とのことでしたが、私はまったく気づかずに寝ていました。でも、この雨のおしめりで、日中少しは涼しくなったということです。日本の真夏の猛暑日くらい暑いですが、これでも涼しくなったというのなら、日中の街歩きはできそうもありません。街の人々も11時ごろから夕方までは昼寝をしているか家の中や木陰で過ごし、歩き回ったりはしないそうです。

 のんびりゆったりすごすのが一番よさそうです。そのかわり、なにかものごとを推し進めようとしたとき、日本の感覚で進まないからといって、いらいらしないこと。書類ひとつ決済が出てひとつ前に進展するのに、日本なら一日ですむことに1週間かかるのは当然と思っていなければならないと、O教授のおさとしがありました。

 事務室に入れる書棚も、14時に業者が来るというので待っていたのですが、実際に到着したのは17時近くになっていました。このくらいは誤差のうちみたいです。

<つづく>
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ミンガラ春庭「マジェスティホテル」

2015-04-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150405
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン出張(2)マジェスティホテル

 ヤンゴン市内には、英国領当時の1901年にオープンしたというストランドホテルほか、由緒正しきホテルやら五つ星ホテルがあります。が、むろん私はそういうところには縁がない。一般国民の年収が$1000くらい、といういう国で、一泊500ドルの部屋に宿泊するのは気がとがめてしまう、小心者の貧乏性です。

 宿泊したのは、先任のO教授が投宿しているマジェスティホテル。大学近くの大通りから一歩中に入った住宅街のなかにあるプチホテルです。ここは一泊50ドルくらい。それだって、私には贅沢な部類です。元バックパッカーとしては、一泊10ドルくらいのゲストハウスで十分なのですが、今回は自分で宿を決めたのではなく、派遣元の大学が指定した宿なので。

マジェスティホテルと住所表示板
 

 1階は玄関受け付けと客室1室。2階4室3階4室の合計9室。4階はキッチン&食堂と、経営者家族の部屋、という家族経営のB&Bホテル。若主人が受け付けと渉外。若奥さんは赤ちゃんの子守りをしながらたいてい1階にいました。大奥さんは朝食の調理担当。大旦那は、何をしているのか、赤ちゃんを連れてぶらぶらしているところをたまに見たくらいで、めったに顔を見ませんでした。

 それに、従業員のボーイさんが3人くらい入れ替わり立ち替わりで掃除や調理手伝いなどの下働きをしています。1階の従業員部屋は、物置兼用のようなごちゃごちゃした2畳くらいのスペースにベッドがある部屋です。ドアが開いているときにのぞいちゃいました。
 ケニアでも中国でも、下働き従業員の生活環境は似たようなものです。

 宿泊した201号室。
      

 4階の食堂


 朝ご飯。だいたい毎朝定番メニューは、トースト目玉焼き。日替わりオムレツ。日替わりで、おかゆ、麵、チャーハンなど。果物。

  

 食堂のベランダから近所の住宅街を眺める。コロニアル風というか、門番付きの高級住宅街。高級車が出入りするときは、門番が開け閉めする。
 
              

しかし、
一歩路地に入ると、庶民の家もある

    

 マジェスティホテルにタクシーで帰るときの目印は、ふたつ。ゴミ箱が並んでいるところに、大きな看板があり、なんて書いてあるのかまだ読めないのだけれど、とにかくこれが目印。





<つづく> 


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ミンガラ春庭ミャンマー「ヤンゴン到着」

2015-04-04 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150404
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン出張(1)ヤンゴン到着

 ヤンゴン出張、ちょっと風邪気味の体調で出発しました。3月23日まで教科書編集ミーティングがあり、のどが痛い咳が出るという体調のまま、ばたばたと成田に向かったのです。
 
 3月24日午前11:45のANAヤンゴン直行便エコノミークラスは、搭乗率50%もいかないくらいで、私の隣の席も空いていました。

 飛行機に乗り付けている人は、通路側がいいと言いますが、たまにしか乗らない私は、空から地上を眺めるのが大好きなので、必ず窓側に席をとります。千葉から種子島まで、航空写真のように広がる景色を楽しみました。
 雲海の上に出てから、ディズニーアニメ「アナ雪」と、松坂桃李主演の「マエストロ」を見ました。
 窓の外を見るのにも映画を見るのにも飽きたあとは、真ん中の3列席をひとりで占領して足を伸ばして寝ることができて助かりました。

 ヤンゴン近くなると、デルタのようす畑のようすがよくわかり、楽しかった。俯瞰図鳥瞰図が見られるってすごいなあといつも思います。


工業開発がされるらしい地域

中央に金色のお寺が見える


 8時間のフライトで、ヤンゴン到着は日本時間の8時過ぎ。しかし、ヤンゴンと日本の時差は2時間半なので、現地時間は5時半。

ヤンゴン空港

 手配してもらってあったタクシーに乗り、空港から30分ほどで無事、市内のホテルに入ることができました。

 晩ご飯は、先任の先生おふたりとの顔合わせで、ハッピーカフェ&ヌードルズというレストランへ連れて行ってもらいました。インレー湖という市内の大きな湖とヤンゴン大学の中間にある店で、ヤンゴンのグルメ情報にはたいてい載っている店らしいです。
 中華料理ミャンマー料理とりまぜて注文。ミャンマー名物の麺とエビチャーハンのほか、青菜の炒め物、揚げ豆腐料理など。
 先任の先生のお話をうかがうのに一生懸命で写真を撮り忘れました。

 ヤンゴンでは4月5月は長期休暇で、大学は閉鎖されます。6月~9月は後期授業。10月11月にまた長期休暇。12月に新学期が始まります。
 ほんとうは、私が後期の6月から赴任すべきだったのですが、私は私立大学の授業を担当することを決めていたため、8月からの赴任を許可していただき、6月7月は、臨時代講の先生が着任することになりました。

 ヤンゴン大学の近くには、外国語大学があり、各国語と並んで日本語教育が行われています。現在300人の学生が日本語習得を目指しています。日本の国際交流基金から派遣されている日本人教師やミャンマー人教師が日本語教育を担当しています。
 また、名古屋大学は、ミャンマーで「日本語による日本法教育」をめざし、2013年にヤンゴン大学に事務所を開設。
 日本の企業がミャンマーに目を向けると同時に、ミャンマーにおける日本語教育日本学教育がスタートしています。

 このような教育事情の中で、私はいったいどこを目指して日本語教育を実施していけばいいのか、まだとまどいがあります。
 当分は大学の卒業単位には含まれないオプションの授業を担当するということになるのです。先任の先生の話によると、2月にスタートした日本語授業も3月半ばになると大学正規科目の試験期間になったために、学生は授業に来なくなってしまった、ということです。学生にとっては、卒業単位にならない授業よりは、今後の人生に影響してくる試験が大事、というわけです。
 オプションの日本語クラスをどのように運営していくのか、カリキュラムも再考しなければなりません。

 前期の終わりにちょこっと日本語を学んでみた、という学生達、後期の授業がはじまって、どのくらい日本語学習を継続していくのか、学生がいなければ、授業も成立しません。
 できるなら単位認定される授業として、きちんとしたカリキュラムを立てての授業を行いたいのですが、それらの教育行政は、ヤンゴン大学の方針にまかせるしかなく、日本語教師は日本語の授業を担当する以外に大学運営に口を出すことはできません。
 
ハッピーカフェ&ヌードルのテラス席、なかなか気持ちのよい店で、麺もおいしかったのですが、いかんせん体調不良のままなので、先任者お二方から授業についてお話を伺えば伺うほど、いったいこれからどういう日本語授業を展開していけばいいのか、不安になりました。

 派遣元の大学は、グローバル拠点を世界各地に展開する方針を出しており、ヤンゴンがその第1号です。第1号が試金石となるため、失敗は許されない。かといって、まだ教育の基礎もできていない段階で、どうやったら「第1号は見事に失敗」を免れるのかもわからず、おろおろしながらヤンゴン第一夜をすごしました。
 何か新しいことに首をつっこむのが大好きなおっちょこちょいの私ですが、寄る年波と体調低下のせいで、猪突猛進にブレーキがかかったのかも。

 夜になっても、暑い。ヤンゴンの3月は、乾期の最後にあたり、日本の8月猛暑日熱帯夜のような暑さです。熱帯の国なのだから、熱帯夜でもあたりまえなのですが、こんなのは暑さのうちには入らないとでも言うように、路上の露店はこんろの火でいろいろな食べ物を作っており、人々はさまざまな飲み物食べ物を楽しんでいます。

道ばたの露店


ミャンマーのお金「チャット」日本円に一桁足した額と思って使っていました。5000チャットは500円、100チャットは10円くらい。くちゃくちゃ、よれよれのお札が流通していて、コインはなし。バスは20円、うどんは小どんぶり1杯50円。


<つづく>
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ミンガラ春庭「ミャンマーの教育事情」

2015-04-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150402
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ミャンマー事情(2)ミャンマーの教育事情

 ミャンマーはアジアの最貧国のひとつといわれています。しかし、民衆の識字率は高く、95%の国民が、ミャンマー文字を読むことができます。
 人々の多くは敬虔な仏教徒で、従来からお寺による無料の寺子屋教育によって、ミャンマー文字の読み書きが指導されてきました。識字率が高く、教育への意欲も高い。

 軍事政権下では、幼稚園1年、小学校4年、中学校4年、高校2年の教育が実施されました。教育は無償でしたから、多くの子ども達が学校教育を受けることができました。ただし、従来の寺子屋を看板だけ小学校に掛け替えた所が多かったということですが。
 寺子屋教育は広く普及してきたミャンマーですが高等教育においては、まだまだ広く門戸を開かれているとはいえず、貧しい層が高等教育を受ける機会は少ない。

 ヤンゴン大学は、1878年にイギリスによって創設されました。しかし軍事政権は学生運動などを警戒してヤンゴン大学を封鎖しました。
 博士課程を持つ大学はヤンゴン大学のみなので、大学院教育のみを残し、学部教育は行われなかったのです。ヤンゴン大学の学部教育が再開されたのは、2013年12月。大学学部の教育が再開してから、まだ1年半ほどなのです。現在の在学者は、2年生と1年生のみ。

 民政移行後、現在は教育にも格差が生じてきました。政府高官や軍部高官の子弟は、授業料の高い私立学校やインターナショナルスクールに通い、大学もシンガポール、オーストラリア、イギリスへなどの留学が盛ん。

 国内で最高水準の大学は、現在ではヤンゴン医科大学だそうです。やはり、医者養成の学科は強い。
 英国領だった地域の大学教育において、大学、大学院教育では英語が共通語として用いられるところが多く、英語熱は高い。
 しかし、残念ながら日本語教育はヤンゴン大学ではまだ開講されていませんでした。民間の日本語学校はありますし、ヤンゴン外国語大学には日本語学科があり、300人の学生が日本語を学んでいます。しかし、ヤンゴン大においては、大学教育としては行われてきませんでした。
 
 2014年10月にはミャンマー政府により、みずほ銀行、三菱東京UFJ銀行、三井住友銀行に、国内商業活動の免許が発給されました。その他の日本企業も、ミャンマーでのビジネスチャンスをうかがっています。日本語を覚えれば、日本企業で働くチャンスもできるとあって、日本語教育への要望も高くなってきました。 

 新しい体制を整えて歩み始めて日が浅いミャンマー。そんなときに、一から教育を行える機会を与えられたのです。
 ミャンマー語はまったくわからず、英語も上手ではない私が、どれだけのことができるのかわかりませんが、なんとかミャンマーの日本語教育に貢献できるように希望を持って赴任したいと思っています。
 封鎖されていた大学、再開後の教育はまだ端緒についたばかりですが、微力な私でも日本語教育、日本学教育に少しでも役立つようがんばりたいです。

 そして、古く豊かな文化を持つミャンマーのさまざまな面を楽しみたいと思っています。織物染め物などの技、民族舞踊、陶芸や漆工芸、人々の暮らしの中に根付いている文化を吸収しつつ、ミャンマーの生活が楽しめるよう、下見も教育ばかりではなく、広くミャンマー社会を見たいと望んでヤンゴンに行きました。

 観光旅行では、ヤンゴン市内のパゴダのほか、古い王朝により建てられたバダン仏教遺跡群を見て回ることが多いでしょうが、今回はとにかく、教育と生活状況の視察が中心です。

 3月31日のニュースで、ミャンマー政府と少数民族反政府軍との間に停戦協定が結ばれ、政府は少数民族の自治権を強める方針を出しました。それでも、シャン州などの少数民族は戦闘を継続する構えを見せており、今後の情勢もわかりません。
 万が一政権が変動し、大統領が替わったり大学学長が替わったりした場合、教育行政も一変してしまう可能性があります。
 心配してもしかたがないので、まずはこの国の文化にふれるところから。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ミャンマー事情」

2015-04-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
20150401
ミンガラ春庭ミャンマー便り便り>ミャンマー事情(1)ミャンマーの歴史と文字

 3月24日~30日、ヤンゴン市へ行ってきました。出張報告はまたのちほど。まずは、出発前のミャンマー事情探索から。

  ミャンマー文字を始めて見た人は、「これは視力検査表か」と思うのではないかしら。
 私にもそう見えました。
 以下、ミャンマー文字で「ミャンマー連邦共和国」と表記してみますが、ウィンドウズの場合、バージョン8以後のみミャンマー文字が表記されます。(バージョン7以下だと文字化けするようです。すみません)


 ပြည်ထောင်စု သမ္မတ မြန်မာနိုင်ငံတော်

 ミャンマーについて、ざっと歴史や教育情勢を勉強しました。
 1989年までの国名はビルマでした。ビルマを植民地にしていたイギリスが、主要部族の名前であるバーマという現地発音を英語表記に変え、ビルマと呼んで植民地の名前にしたのです。
 2010年以後、日本での公式国名(外務省による)は、ミャンマー連邦共和国。通称はミャンマー。

 現在の首都はネピドー。ビルマ中央に位置する新しい都市です。旧首都はヤンゴン。もとはラングーンという発音で呼ばれていました。
 中国語でのミャンマー国を表す漢字は「緬甸ミィェンディェン」。
 緬甸の存在は、江戸時代後期には蘭学者を中心に知られていましたが、日本が緬甸と関わりをもつようになったのは、明治以後です。

 国民の70%がミャンマー族ですが、その他の少数民族がいます。7つの主な民族は、カレン族、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、ヤカイン族、シャン族。そのほか細かく分けると100以上の少数民族に分かれます。(ミャンマー政府公式発表で135部族ですが、民族学者により、説はそれぞれ)

 ミャンマー北部には中国系の住民のコーカン族がいます。2015年3月14日には、コーカン族居住地域で反政府ゲリラと政府軍の間に紛争がありました。
 少数民族の独立運動にミャンマー政府は神経をとがらせています。もともと少数民族は「自分たちはミャンマー族とは別の民族であり、ミャンマー族支配下に入ることはない」と考えており、イギリス統治時代には、ミャンマー族よりも政府に重用された、という意識があります。

 この地域は、古くからさまざまな民族が居住し、それぞれが古い王国を作ってきました。国内に残る仏教遺跡はこれらの王朝によって寄進されたものが多く、現在もミャンマー族を中心に仏教信仰が根付いています。

 次にミャンマー近代史。1824-1852(日本では江戸時代後半にあたる)イギリスとビルマの間で英緬戦争が起こり、ビルマが敗れると、1885年以後、イギリスはビルマをインドの州のひとつとして植民地にしました。(英領インド)
 その際インドからの移民を金融業を中心に経営をさせ、中国系の華僑には商業を、ミャンマー族に対立する少数民族は、軍人として採用。多数をしめるミャンマー族を支配しました。ミャンマー族が圧倒的に仏教徒であることに対抗して、イギリスは少数民族をキリスト教に改宗させたうえで利用したのです。

 少数民族とミャンマー族の対立は、もとはといえば宗主国イギリスがもたらしたもの。
 (パレスチナのイスラム教とユダヤ教の対立も大英帝国のパレスチナ政策を原因として起こっています)。帝国主義の覇権争いが、現在まで地球のさまざまな場所に禍根を残しているのです。

 第二次世界大戦中、アウンサン将軍がビルマ独立義勇軍を率い、日本軍と共にイギリス軍と戦いました。日本軍のビルマ敗戦の後も、ビルマ独立戦争を支援する日本人がアウンサンらに協力しました。ミャンマー政府は、1981年に、独立に協力した日本軍人ら7人にアウンサンタゴン勲章を授与しました。

 戦時中の日本軍の行動は、インパール作戦失敗により多数の日本人兵士をむざむざと死においやったほか、ビルマ人を労役によって酷使し死なせたなど、痛ましい出来事も数々ありました。ミャンマー独立に日本人が関わったことも事実ですが、多数のアジア民間人を死に至らしめたのも事実。元日本人軍人へのミャンマーの勲章授与をもって「日本人がアジアの独立解放に貢献したのだから、日本が行った戦争は正しかった」と、述べる人もいますが、それは違うと思います。

 毎年3月27日は、国軍記念日。この日は、アウンサン将軍が抗日戦争に立ち上がった日であり、最近までは「抵抗記念日」と呼ばれていましたが、名称変更されたのは、日本に対する抵抗という内容だと日本との友好関係に影響があると思われたのかも知れません。
 1947年7月19日(殉難記念日)にアウンサンは暗殺されました。アウンサン将軍は今でも国父として尊敬を集めており、その娘がスーチー女史です。
 ミャンマー人には家族名(氏)はなく、他のスーチーと区別したいときには、「アウンサンの子どものスーチー(アウンサン・スーチー)」と呼びます。

 1948年、イギリス植民地より独立。ウーヌーが首相となる。
 1962年3月2日にネ・ウィン将軍が軍事クーデターを起こし、以後は社会主義軍事政権を樹立、1988年まで軍事独裁体制を維持しました。
 2007年に新首都ネピドに遷都し、悪化した経済の立て直しをはかりましたが、民主化運動が強くなっていきました。
 2007年9月27日、APF通信社の長井健司が反政府デモ(サフラン革命)の取材中に射殺されました。
 2011年に新憲法に基づく選挙実施。スーチー女史の軟禁を解きました。テイン・セインはミャンマー大統領に就任。現在まで政権を維持しています。

 以上がざっくりとした植民地化以後のミャンマー史ですが、現在も政権が完全に安定しているわけではありません。
 中国北部での中国系の少数民族と政府軍との抗争により、2015年3月14日、少数民族の反政府軍を追って中国領土内に深入りしてしまったミャンマー国軍が、中国の農民を殺傷したというニュース、肝を冷やしました。中国政府はエネルギーや資源をミャンマーから調達したいという理由があり、ミャンマーとの関係を良好に保ちたいので、今回は中国軍との衝突はしませんでした。しかし、国内に紛争や動乱の火種はたくさんあります。

 旧ビルマ国と日本は、1954年11月に平和条約締結。以来関係は良好でした。現大統領のテイン・セインは、大規模な開発を日本に要請し、上水道・下水道・道路・光ファイバーケーブルなどの開発が日本企業の請負で行われています。
 私が読んだ「ミャンマーで儲ける5つの真実」も、この開発利権をどう金儲けにつなげるかという人々を見越した出版です。

 
 開発により不動産所有などでお金儲けに走る人も出ているミャンマー。しかし、まだまだ一般の人(多くは農民)は貧しく、国民のGDPも世界でも低い方です。2013年のひとりあたりの年収は、869ドル約10万円ほど。一般的なミャンマー人給与生活者は、日本人の月給の約40~20分の1だそうです。
 日本から派遣されている商社ビジネスマンは、一泊50ドルのホテルに泊まり、一回の食事に40ドルかける。一日に100ドル使う。農民の年収分、ミャンマー給与生活者の1ヶ月分のお金を一日で消費しています。

 そんな中、教員の給与も世界的に見て低水準です。大学教員も低給与のために、男性は教員になりたい人は少なく、優秀な人材はビジネスへ行ってしまいます。大学教師も女性が中心になってになっているそうです。
 次回、ミャンマー学校事情を。

<つづく>
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