20151210
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(1)2003年の地学巡検
2003年の三色七味日記12月の再録です。
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2003/12/06(土)
日常茶飯事典>地学巡検
光が丘に集合。車に分乗し茨城福島地学ハイキング巡検一泊旅行。
初日最初の巡検地は「日鉱記念館」見学。世界の鉱物資料や、精錬の機械などを見た。鉱山ではたらく人々の生活。
一番心に残ったのは、歴代の所長の業績などが紹介されているコーナー。歴代所長のほとんどが、東大や京大の「鉱山科」「工業科」などを出たエリートの中で、小学校卒で副所長にまでのぼった青山という人がいた。丁稚奉公として鉱山に入り、独自の研究を続けて精錬の神様とまでいわれるようになった人。
そんなすぐれた人でも、所長にはなれず副所長だったことを考えると、戦前の学士様の威光もわかるが、日本の産業が、このような「たたき上げ」「学歴はなくともけんめいに努力し会社のために働いた人」の存在によって支えられていたのだろうなあということを忍ばせる人物だった。
いわきの海辺で昼ご飯。それぞれが持参のお弁当のほか、みそ汁のサービスがあった。冬の海をながめ、海岸の地層を見る。
化石掘りに挑戦。巻き貝の化石、二枚貝の化石を掘った。
白鳥の群、ボタ山のあとなどを眺めてから宿泊地へ。山の一軒宿の鉱泉。
夜は、先生方の勉強会。ドイツで行われた「クモヒトデ化石学会」(という名前だったか正確ではないが)に出席した先生の、スライドをうつしながらの報告。クモヒトデ化石では権威とされている大学者といっしょに写した写真などもあり、先生はとてもうれしそうに楽しそうに、クモヒトデについて語り始めたら一晩中でも話しているという感じ。
化石の生跡をより深く理解するために、実際に生きているクモヒトデを水槽で飼育し、どのように砂の中にもぐっていくのか、一日中観察している。パワーポイントの映像でクモヒトデが砂に潜る様子が映された。
「ほら、こういうふうにして、4番目の足は何もしないんです。123と5番目の足をつかうことがわかった」と、報告。たぶん、クモヒトデの研究者にとって、「砂にもぐるとき、クモヒトデは4番目の足を使わない」という発見はすごいことなんだろうなあ、と思う。わたしにはまったくわからない世界だけれど、このように夢中になれる分野があって、その研究に没頭できること。
日鉱の青山さんは、製錬技術をあげるために、昼夜も忘れて精錬の向上を研究したろうし。
私はこういう、「端から見たら何が楽しいんだかわからないことに没頭できる」って人が好き。うらやましく思う。
つぎの報告者は、アマチュア研究家。多摩川河口でベンケイ蟹の観察を続けている人の報告。蟹の脱皮と月齢の関係を調べた。雄と雌、月齢がいつのとき脱皮した抜け殻が多く残されているか、を半年くらい毎日毎晩観察した記録。
これもまた、貴重な報告だろうと思う。アマチュア博物学というのは、日本の伝統。根気よく観察を続けることが唯一の武器。でも、なまじっかな興味では続かない。対象への強い愛情が必要だ。
ベンケイ蟹は、ものが動く気配に敏感に反応して穴に潜るが、ものの音だけでは反応しない。動かずにいて、大きな音だけ出しても、決して穴に隠れない、という実践報告もあった。蟹には音を感じ取る器官がない、というのを実践を通して観察した貴重な記録。
鉱泉、最初に入ったときはぬるかった。温泉ではないので、わかし方が不十分。夜寝る前に入ったときはわかしてあったので、ゆっくりお湯につかった。
女性の泊まり客は、相部屋になった3人だけ。おふろは、ひとりでゆっくり入れた。
本日のそねみ:夢中になってクモヒトデについて語れる熱さ
2003/12/07(日)
常茶飯事典>化石掘り
地学巡検。二日目。
アンモナイト館の見学と化石掘り。
太平洋センターでの昼食と、化石掘り。最後は石炭化石館の見学。
石炭化石館では、炭坑の町の暮らしが再現されていた。この中に企業が作った学校の資料もある。まずしい家の子どもでも、企業に入れれば、学ぶ機会が与えられ、企業の中という制約はあっても、自分の能力を伸ばしていくチャンスがあった。
日本の底力とは、このような「底辺すみずみまで教育が及んだこと」に支えられていたのだろうなあと思う。
娘と息子は留守番。息子は期末テストの最中だからと、今回の参加をパスしたのだが、結局旅行に行かないで家にいたとしても、勉強しているはずもない。どうせゲームをしているのなら、化石掘りでもやったほうがずっとよかったのに。
娘は、金曜日が介護体験の養護学校見学だったから、疲れてしまったとパス。
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201512010
熱く「クモヒトデ」や弁慶蟹を語れる人々、大好きです。
私は何を熱く語れる?
う~ん、日本語の面白さについてなら少しは語れるが、私なんぞ下っ端も下っ端、ちゃんと語れる研究者はゴマンといるので、私ごときが「日本語は、、、」なんて言い出したら、百年早いと叱られる。
とりあえず、ヤンゴンの暑さについて。最高気温は30度ですが、朝晩は25度くらいに下がり、雨期のころの蒸し暑さに比べればずっと過ごしやすいです。
日中、街中を歩けば汗ばむけれど、日陰にじっとしていれば、汗は噴き出さない。
それほど暑くはないってことを熱く語るほどのことはなかったけれど、3月は当地に到着して3日目、8月は2日に下痢の洗礼をうけたことを思えば、今回は滞在2週間でまだ下痢になっていなことを幸いとしましょう。
ただし、滞在翌日にホテルの階段を滑り落ちて尻を打ち、「尾てい骨打撲」の診断。まだ立ち上がるとき痛い。5日の夜は、アボガドのタネを掘り出そうとして自分の手のひらにナイフをさしてしまうという大ちょんぼ。日曜日もやっている外人向けクリニックで消毒してもらい、破傷風予防注射をして、もう、傷口もふさがりましたので、心配ない。
思いもかけぬ大きな事態もあったのですが、報告はのちほど。
<つづく>
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(1)2003年の地学巡検
2003年の三色七味日記12月の再録です。
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2003/12/06(土)
日常茶飯事典>地学巡検
光が丘に集合。車に分乗し茨城福島地学ハイキング巡検一泊旅行。
初日最初の巡検地は「日鉱記念館」見学。世界の鉱物資料や、精錬の機械などを見た。鉱山ではたらく人々の生活。
一番心に残ったのは、歴代の所長の業績などが紹介されているコーナー。歴代所長のほとんどが、東大や京大の「鉱山科」「工業科」などを出たエリートの中で、小学校卒で副所長にまでのぼった青山という人がいた。丁稚奉公として鉱山に入り、独自の研究を続けて精錬の神様とまでいわれるようになった人。
そんなすぐれた人でも、所長にはなれず副所長だったことを考えると、戦前の学士様の威光もわかるが、日本の産業が、このような「たたき上げ」「学歴はなくともけんめいに努力し会社のために働いた人」の存在によって支えられていたのだろうなあということを忍ばせる人物だった。
いわきの海辺で昼ご飯。それぞれが持参のお弁当のほか、みそ汁のサービスがあった。冬の海をながめ、海岸の地層を見る。
化石掘りに挑戦。巻き貝の化石、二枚貝の化石を掘った。
白鳥の群、ボタ山のあとなどを眺めてから宿泊地へ。山の一軒宿の鉱泉。
夜は、先生方の勉強会。ドイツで行われた「クモヒトデ化石学会」(という名前だったか正確ではないが)に出席した先生の、スライドをうつしながらの報告。クモヒトデ化石では権威とされている大学者といっしょに写した写真などもあり、先生はとてもうれしそうに楽しそうに、クモヒトデについて語り始めたら一晩中でも話しているという感じ。
化石の生跡をより深く理解するために、実際に生きているクモヒトデを水槽で飼育し、どのように砂の中にもぐっていくのか、一日中観察している。パワーポイントの映像でクモヒトデが砂に潜る様子が映された。
「ほら、こういうふうにして、4番目の足は何もしないんです。123と5番目の足をつかうことがわかった」と、報告。たぶん、クモヒトデの研究者にとって、「砂にもぐるとき、クモヒトデは4番目の足を使わない」という発見はすごいことなんだろうなあ、と思う。わたしにはまったくわからない世界だけれど、このように夢中になれる分野があって、その研究に没頭できること。
日鉱の青山さんは、製錬技術をあげるために、昼夜も忘れて精錬の向上を研究したろうし。
私はこういう、「端から見たら何が楽しいんだかわからないことに没頭できる」って人が好き。うらやましく思う。
つぎの報告者は、アマチュア研究家。多摩川河口でベンケイ蟹の観察を続けている人の報告。蟹の脱皮と月齢の関係を調べた。雄と雌、月齢がいつのとき脱皮した抜け殻が多く残されているか、を半年くらい毎日毎晩観察した記録。
これもまた、貴重な報告だろうと思う。アマチュア博物学というのは、日本の伝統。根気よく観察を続けることが唯一の武器。でも、なまじっかな興味では続かない。対象への強い愛情が必要だ。
ベンケイ蟹は、ものが動く気配に敏感に反応して穴に潜るが、ものの音だけでは反応しない。動かずにいて、大きな音だけ出しても、決して穴に隠れない、という実践報告もあった。蟹には音を感じ取る器官がない、というのを実践を通して観察した貴重な記録。
鉱泉、最初に入ったときはぬるかった。温泉ではないので、わかし方が不十分。夜寝る前に入ったときはわかしてあったので、ゆっくりお湯につかった。
女性の泊まり客は、相部屋になった3人だけ。おふろは、ひとりでゆっくり入れた。
本日のそねみ:夢中になってクモヒトデについて語れる熱さ
2003/12/07(日)
常茶飯事典>化石掘り
地学巡検。二日目。
アンモナイト館の見学と化石掘り。
太平洋センターでの昼食と、化石掘り。最後は石炭化石館の見学。
石炭化石館では、炭坑の町の暮らしが再現されていた。この中に企業が作った学校の資料もある。まずしい家の子どもでも、企業に入れれば、学ぶ機会が与えられ、企業の中という制約はあっても、自分の能力を伸ばしていくチャンスがあった。
日本の底力とは、このような「底辺すみずみまで教育が及んだこと」に支えられていたのだろうなあと思う。
娘と息子は留守番。息子は期末テストの最中だからと、今回の参加をパスしたのだが、結局旅行に行かないで家にいたとしても、勉強しているはずもない。どうせゲームをしているのなら、化石掘りでもやったほうがずっとよかったのに。
娘は、金曜日が介護体験の養護学校見学だったから、疲れてしまったとパス。
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201512010
熱く「クモヒトデ」や弁慶蟹を語れる人々、大好きです。
私は何を熱く語れる?
う~ん、日本語の面白さについてなら少しは語れるが、私なんぞ下っ端も下っ端、ちゃんと語れる研究者はゴマンといるので、私ごときが「日本語は、、、」なんて言い出したら、百年早いと叱られる。
とりあえず、ヤンゴンの暑さについて。最高気温は30度ですが、朝晩は25度くらいに下がり、雨期のころの蒸し暑さに比べればずっと過ごしやすいです。
日中、街中を歩けば汗ばむけれど、日陰にじっとしていれば、汗は噴き出さない。
それほど暑くはないってことを熱く語るほどのことはなかったけれど、3月は当地に到着して3日目、8月は2日に下痢の洗礼をうけたことを思えば、今回は滞在2週間でまだ下痢になっていなことを幸いとしましょう。
ただし、滞在翌日にホテルの階段を滑り落ちて尻を打ち、「尾てい骨打撲」の診断。まだ立ち上がるとき痛い。5日の夜は、アボガドのタネを掘り出そうとして自分の手のひらにナイフをさしてしまうという大ちょんぼ。日曜日もやっている外人向けクリニックで消毒してもらい、破傷風予防注射をして、もう、傷口もふさがりましたので、心配ない。
思いもかけぬ大きな事態もあったのですが、報告はのちほど。
<つづく>