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ぽかぽか春庭「2003年の地学巡検」

2015-12-10 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151210
ぽかぽか春庭知恵の輪日記>2003三色七味日記12月(1)2003年の地学巡検

 2003年の三色七味日記12月の再録です。
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2003/12/06(土)
日常茶飯事典>地学巡検

 光が丘に集合。車に分乗し茨城福島地学ハイキング巡検一泊旅行。

 初日最初の巡検地は「日鉱記念館」見学。世界の鉱物資料や、精錬の機械などを見た。鉱山ではたらく人々の生活。

 一番心に残ったのは、歴代の所長の業績などが紹介されているコーナー。歴代所長のほとんどが、東大や京大の「鉱山科」「工業科」などを出たエリートの中で、小学校卒で副所長にまでのぼった青山という人がいた。丁稚奉公として鉱山に入り、独自の研究を続けて精錬の神様とまでいわれるようになった人。

 そんなすぐれた人でも、所長にはなれず副所長だったことを考えると、戦前の学士様の威光もわかるが、日本の産業が、このような「たたき上げ」「学歴はなくともけんめいに努力し会社のために働いた人」の存在によって支えられていたのだろうなあということを忍ばせる人物だった。

 いわきの海辺で昼ご飯。それぞれが持参のお弁当のほか、みそ汁のサービスがあった。冬の海をながめ、海岸の地層を見る。

 化石掘りに挑戦。巻き貝の化石、二枚貝の化石を掘った。

 白鳥の群、ボタ山のあとなどを眺めてから宿泊地へ。山の一軒宿の鉱泉。
 夜は、先生方の勉強会。ドイツで行われた「クモヒトデ化石学会」(という名前だったか正確ではないが)に出席した先生の、スライドをうつしながらの報告。クモヒトデ化石では権威とされている大学者といっしょに写した写真などもあり、先生はとてもうれしそうに楽しそうに、クモヒトデについて語り始めたら一晩中でも話しているという感じ。

 化石の生跡をより深く理解するために、実際に生きているクモヒトデを水槽で飼育し、どのように砂の中にもぐっていくのか、一日中観察している。パワーポイントの映像でクモヒトデが砂に潜る様子が映された。
 「ほら、こういうふうにして、4番目の足は何もしないんです。123と5番目の足をつかうことがわかった」と、報告。たぶん、クモヒトデの研究者にとって、「砂にもぐるとき、クモヒトデは4番目の足を使わない」という発見はすごいことなんだろうなあ、と思う。わたしにはまったくわからない世界だけれど、このように夢中になれる分野があって、その研究に没頭できること。

 日鉱の青山さんは、製錬技術をあげるために、昼夜も忘れて精錬の向上を研究したろうし。
 私はこういう、「端から見たら何が楽しいんだかわからないことに没頭できる」って人が好き。うらやましく思う。

 つぎの報告者は、アマチュア研究家。多摩川河口でベンケイ蟹の観察を続けている人の報告。蟹の脱皮と月齢の関係を調べた。雄と雌、月齢がいつのとき脱皮した抜け殻が多く残されているか、を半年くらい毎日毎晩観察した記録。
 これもまた、貴重な報告だろうと思う。アマチュア博物学というのは、日本の伝統。根気よく観察を続けることが唯一の武器。でも、なまじっかな興味では続かない。対象への強い愛情が必要だ。

 ベンケイ蟹は、ものが動く気配に敏感に反応して穴に潜るが、ものの音だけでは反応しない。動かずにいて、大きな音だけ出しても、決して穴に隠れない、という実践報告もあった。蟹には音を感じ取る器官がない、というのを実践を通して観察した貴重な記録。

 鉱泉、最初に入ったときはぬるかった。温泉ではないので、わかし方が不十分。夜寝る前に入ったときはわかしてあったので、ゆっくりお湯につかった。
 女性の泊まり客は、相部屋になった3人だけ。おふろは、ひとりでゆっくり入れた。

本日のそねみ:夢中になってクモヒトデについて語れる熱さ


2003/12/07(日)
常茶飯事典>化石掘り

 地学巡検。二日目。
 アンモナイト館の見学と化石掘り。
 太平洋センターでの昼食と、化石掘り。最後は石炭化石館の見学。

 石炭化石館では、炭坑の町の暮らしが再現されていた。この中に企業が作った学校の資料もある。まずしい家の子どもでも、企業に入れれば、学ぶ機会が与えられ、企業の中という制約はあっても、自分の能力を伸ばしていくチャンスがあった。

 日本の底力とは、このような「底辺すみずみまで教育が及んだこと」に支えられていたのだろうなあと思う。

 娘と息子は留守番。息子は期末テストの最中だからと、今回の参加をパスしたのだが、結局旅行に行かないで家にいたとしても、勉強しているはずもない。どうせゲームをしているのなら、化石掘りでもやったほうがずっとよかったのに。
 娘は、金曜日が介護体験の養護学校見学だったから、疲れてしまったとパス。

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201512010
 熱く「クモヒトデ」や弁慶蟹を語れる人々、大好きです。
 私は何を熱く語れる?
 う~ん、日本語の面白さについてなら少しは語れるが、私なんぞ下っ端も下っ端、ちゃんと語れる研究者はゴマンといるので、私ごときが「日本語は、、、」なんて言い出したら、百年早いと叱られる。

 とりあえず、ヤンゴンの暑さについて。最高気温は30度ですが、朝晩は25度くらいに下がり、雨期のころの蒸し暑さに比べればずっと過ごしやすいです。
 日中、街中を歩けば汗ばむけれど、日陰にじっとしていれば、汗は噴き出さない。
 それほど暑くはないってことを熱く語るほどのことはなかったけれど、3月は当地に到着して3日目、8月は2日に下痢の洗礼をうけたことを思えば、今回は滞在2週間でまだ下痢になっていなことを幸いとしましょう。
 ただし、滞在翌日にホテルの階段を滑り落ちて尻を打ち、「尾てい骨打撲」の診断。まだ立ち上がるとき痛い。5日の夜は、アボガドのタネを掘り出そうとして自分の手のひらにナイフをさしてしまうという大ちょんぼ。日曜日もやっている外人向けクリニックで消毒してもらい、破傷風予防注射をして、もう、傷口もふさがりましたので、心配ない。

 思いもかけぬ大きな事態もあったのですが、報告はのちほど。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ダラの蛇寺」

2015-12-09 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151209
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴンの寺(3)ダラの蛇寺

 9月にバイクタクシーでめぐったヤンゴン市の川向こう、ダラ地区とトワンティ村。何カ所もお寺ばかり参拝したので、どれがどの寺だか、写真をみてもわからなくなってしまったのもあります。

 最初に行ったダラ地区のお寺


 蛇寺は、池の中にあり、水上寺になっていました。


蛇の餌売り。池の鯉にも餌を与えるのが「生き物供養」の功徳になる。人々がちゃんと功徳を積めるように、鯉のエサ(パンの耳)を買うまでついてきて離れません。


 どんな小さな村でも、「むっつ、村々鎮守さま」みたいなお寺があるのですが、小さなほこらなんぞが鎮守になっている日本に比べ、村ごとの仏塔は、とても立派。
 トワンティ村の焼き物工房を訪れたときも、壺を天日干ししている向こうに、村の仏塔が輝いていました。



 私のミャンマー仏教理解は、まだまだ浅くて、表層的なことしかわかっていません。
 原始仏教が分裂したとき、戒律をゆるくとらえて変更可能とした大衆部の大乗仏教と、あくまでも戒律をまもることをもって僧の本文とする上座部仏教に分かれました。そのため、ミャンマーの僧侶は、今も不妻帯、不金銭、午後の飲食禁止などの戒律を守っています。ただし、ミャンマーの僧は、清浄な肉なら食べてよいし、金銭を持たないと言っても、短期出家者などはごくふつうにケータイでおしゃべりしたり、金銭がなくては出来ない行動もしています。

 輪廻転生が続く限り生の苦しみが続く。
、釈迦牟尼は、生の苦しみは輪廻の中にいる限り続く、永遠に続く輪廻から逃れる方法が出家、解脱である、と教え諭しました。
 無明を断ち輪廻から解脱する方法は、戒律の厳守、瞑想の修行。上座部仏教では、僧は、この方法により、解脱をとげる。

 男子は、一生に一度は出家の期間を持ちます。それで功徳が積まれる。
 でも、出家が一番いいというのなら、短期出家で1週間ほど修行するより、いっそ仏教徒全員が本格的に出家すれば、全員が解脱でき、輪廻転生の苦しみは終わることになりませんか。

 短期出家期間以外にも、在家信者達は「来世がよいものになるように」と、功徳を積もうとします。功徳を積めば、来世は今よりちょっとはいいステージにいけるかもしれない。けれど、来世がよいものになるように功徳を積むと言うことは、輪廻のくりかえしを現時点では肯定することになる。そこがわかりません。

 経済発展が著しいミャンマーでは、高給取りもいれば、不動産や株利殖などで資産家も続々増えており、有力な僧侶は、不動産の寄進、高級車の寄進などもどしどし受けているそうです。エリート僧侶は、前世で功徳を積んだから現世で高僧となれたのだから、このような高額寄進を得る資格があり、どんな贅沢も「前世の功徳」のおかげ、という考え方に、まだなじめません。

 日本の大乗仏教は、原始仏教からは大きな変更が加えられ、空海らが導入した密教も、中国で変容を遂げた仏教のひとつでした。鎌倉仏教でさらに変わる。
 現在の僧侶は妻帯もするし、恋愛もする。

 ホテルのテレビで、ワクワクジャパンというテレビ局から、月9の『5→9(5時から9時まで)〜私に恋したお坊さん〜』を放映する、という予告を見ました。山ピー演じるお坊さんが石原さとみに恋する、というドラマらしいですけれど、こういうストーリーを当地で放映してだいじょうぶかしら、と、思います。僧侶が恋愛するなんて、とんでもない破戒行為ですから。

 もし、ドラマをミャンマーの人が見ても、山ピーを僧侶とは思わないのでだいじょうぶなのかもしれません。髪そってないし、袈裟は着ているけれど、夕ご飯も食べるし、破戒だらけ。 ドラマを見ているかぎりでは、山ピーは、なにひとつ僧侶らしい姿をみせていません。
 はい、日本の僧侶とは、葬式しきるマスターオブセレモニー=MCのことであって、修行を積み功徳を積んだ僧侶ではないのですから。千日回峰とか、本格修行のお坊さん、ごくわずかです。

 上座部仏教が、釈迦時代に決められたことを2500年間守っていることのもうひとつ。女性は出家できないこと。
 ヤンゴンの町のなか、お寺でも、ピンクの僧衣をきて髪を剃っている女性修行者を見かけますが、女性は出家することができないので、修行はしてよいけれど、身分は一段と下、というところは、私には納得できないところ。

 この先、ミャンマー仏教について、さらに学ぶ折があるかもしれません。どうも、「ゆる~い」大乗仏教が身についている私は、日夜釈迦に祈りを捧げ、僧に供物を届け、1羽100チャット払って小鳥を放生し、池の鯉に餌をやり、、、などの功徳を積む当地の勤勉なる仏教だと、たちまち落ちこぼれてしまいそうです。

<おわり> 
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ミンガラ春庭「夜明けのシュエタゴン・パヤー」

2015-12-08 00:00:01 | エッセイ、コラム

夜明け直前のシュエタゴン・パヤー

20151208
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴンの寺(2)夜明けのシュエタゴン・パヤー

 ヤンゴン市の寺の中で最大であり、もっとも参拝客を多く集めるのは、なんといってもシュエタゴンパヤーです。ヤンゴンの小高いシングッダヤ丘の上に、燦然と黄金の輝きを見せている、ヤンゴンのシンボルであり、人々の信仰を集める祈りの場でもあります。
 6~10世紀に原型が作られたシュエタゴン・パヤー。何度も災害や国をめぐる争いの中で、建設と破壊が繰り返されて、現在の仏塔が建てられたのは、18世紀後半。でもミャンマーの人に尋ねると、たいてい、「創建は2500年前、釈迦牟尼入滅のすぐあと」と、伝説のほうを紹介します。

 私は、3月にヤンゴンに来たとき、夜のライトアップされたシュエタゴンパヤーを訪れました。煌々と輝く仏塔(ストゥーバ=卒塔婆)。高さ100mの仏塔は、圧倒的な存在感があり、お参りにきた人々の背景で輝いていました。

 3月の夜。タバウン満月の仏教行事の日。


 「夜のシュエタゴンパヤーもいいですが、夜明けもいいですよ」というおすすめにより、9月には夜明けに訪れました。
 5時に家を出て、まだ渋滞が始まらない市街をタクシーですすんで、南門に着きました。四方向にある門のうち、どうして南門かというと。ヤンゴンお寺は、カバエー・パヤーもそうですが、ご本尊や仏塔のある中心部は一段と高いところにあり、長い階段が参道となっています。シュエタゴンパヤーの南門は、階段を上らなくてもエレベーターがついています。御利益は階段のぼっていったほうがあるのかもしれませんが、私はエレベーター。

 観光客の入場料は8000チャット800円ですが、5時半に来る観光客はいないので、私も「地元の信仰篤き参拝者」と見なされました。肩にお参り用のスカーフを垂らして、スタイルは地元民です。

 夜明け前、ライトに輝くシュエタゴンパヤー


 だんだん明るくなってきます。




すっかり明るくなりました。


 仏像はほとんどがお釈迦様ですが、月曜日生まれの人のお釈迦様、火曜日生まれの人のためのお釈迦様、水曜日午前中生まれの人のためのお釈迦様、水曜午後の、、、と、八方のお釈迦様がおわします。
 釈迦を守護するかわいい顔のナーガや象もいます。

 まだ暗いなかの仏像。手前の暗がりのなか、ぼんやり白い背中を見せている僧の大きさと比べると5mほどの大きさの大仏かと。 


 ほとけ様は金箔できんぴかにするか、白塗りお顔に金色の衣。鎌倉の大仏も開眼供養のおりは金ピカに輝いていたそうですが、現代の日本で「当初の金ピカに復元するから金箔を張り直そう」という提案があったとしても、賛同者はどれくらいになるものか。私は美男におわす鎌倉大仏が好きですが、金ピカに輝くと違和感があるかも。



 寝仏は、いつでも人気があります。寝転んで説法するお釈迦様


 釈迦の説法を聞く弟子(?)の像


 かわいい守護動物。人面獅子?


 象に乗るブッダ


 供物をささげる信者の像と、「いやあ、まいどドーモ」と言っていそうなブッダ


 ひと部屋にぎゅうぎゅうに立ち並ぶ仏像。全部お釈迦様だと思いますが、「やあやあ、月曜日のお釈迦さん」「おやまあ、金曜日のおしゃかさんじゃありませんか。近頃の信者はドーデスカ」「いやいや、ぼちぼちで、、、」なんて会話しているのかも。していないか。


 釈迦像以外の仏像は少ない。この仏像は、釈迦を守る像のひとつだと思うけれど。釈迦像はたいてい「おめめパッチリ」顔なのですが、こちらは細めのおめめで醤油顔。


 参拝客たち、思い思いに祈りを捧げます。

 僧とともに熱心に祈るご夫婦。


 仏像にささげる供物を朝一番に届ける行列。


 仏像に金箔を貼ると功徳になるので、坊やもお父さんから金箔もらって貼っていました。


 女の子の「修行者」集団が、引率されて参拝に来ていました。





 参拝客のひとり
 

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ミンガラ春庭「ヤンゴンの寺」

2015-12-06 00:19:38 | エッセイ、コラム

カバエー・パヤーは、修理中

20151206
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴンの寺(1)カバーエー・パヤー

 12月5日、6日は、掃除洗濯料理で終わりました。9月の退去時に冷蔵庫など掃除したつもりでいましたが、かびていました。日本だと気にもせず拭き掃除など汚れたヶ所をちょちょいとふくだけでしたが、それでは不足でした。
 雨期の終わりに電気コードを抜いた冷蔵庫、ドアパッキンと本体のすき間にひそんでいたカビが広がってしまった。
 
 冷蔵庫を水拭きし、塩酸を使わない次亜塩素酸洗浄スプレーをかけて再度水拭き、アルコール綿で拭き掃除、なんて手間暇かけ半日かけて徹底冷蔵庫掃除。

 来週、新学期が順調に始まって、週末に町歩きができるようになるかもしれません。

 ヤンゴン観光名所、なにはともあれお寺めぐり。っていうか、お寺以外に名所はごくわずか。私は、ダウンタウンの古い建築、英領時代の建物を見て歩きたいと思っていますが、建物探訪趣味でもなければ、お寺以外には、動物園一ヶ所、博物館数カ所(おみやげ屋が主体の宝石博物館とか、軍人の偉業をたたえる軍事博物館とか)。湖二ヶ所。
 さて、そこを回ってしまえば、当地の商社駐在員などは「ゴルフする以外に時間のつかいようがない」ということになっているらしい。

 私はゴルフもしないし。やっぱりお寺巡りになるのかな。
 9月の週末にお参りをした数カ所のお寺、これまで写真をUPしていなかったので、載せたいと思います。

 9月の週末に、教員宿舎に割合に近いカバーエー・パヤーにお参りしました。正式名はティリミンガラ・カバーエー・ゼティ。
 1952年、独立まもないころ、ウー・ヌー首相が世界平和を願うために建てた新しい仏塔です。高さ36m、直径68.6m。

 ピンクの僧衣は、女性修行者。上座部仏教では、女性は出家できません。正式な僧侶ではなく、「修行者」という扱いです。


 男性出家者が、たとえ1週間だけの短期出家であっても、出家中は尊敬を受け、「人間を越えた存在」として大切にされるのに比べると、女性修行者は、掃除などの下働きが中心。掃除も修行とは思うのですが、尊敬のされ方は、格段にちがう。フェミニストには、釈然としない扱われ方です。

 お参りといっても、私は、手を合わせて、ひとこと「南無釈迦牟尼」と唱えればお参り終了ですが、ミャンマーの人々は、ひたすら来世がよい生まれになるように、熱心に祈りを捧げています。

 どのお寺も、本堂は高いところにあり、お寺本堂へ続く階段には、仏具その他を売るみやげ物屋がの両側びっしりとお店を構えています。

 木彫りで、釈迦を乗せる聖象や、仏像を彫って売るおっちゃん


仏像仏具店。仏像はほとんどがお釈迦様。たまに観音様もおわします。






 カバーエー・パヤーの北側に続くのが、「聖洞窟」。1954年に洞窟が人工的に掘り進められ、広い洞窟の内部(長さ139m、幅113m)がお堂になっています。

 聖洞窟の入り口。
 短期修行者は、連日お寺巡りをするのだそうです。観光を兼ねた修行?




 お寺の鐘の前で写真をとる参拝客。寺巡りをしてちゃんと参拝した証拠写真?


この建物は、僧侶の修行する場。


 カバーエー・パヤーの外には、「放生供養」のための小鳥がカゴの中に。
仏教徒は、生き物を大切にする。そのため、捕まえられている小鳥を空に放つ「放生」を行うと、功徳が積まれたことになるのです。一羽100チャット。

 逃げた小鳥をまた捕まえてくる仕事もあります。何度でも放生。何度でも功徳。

<つづく>
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ミンガラ春庭「教員宿舎ひっこし」

2015-12-05 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151205
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし11月12月(4)教員宿舎お引越し

 3日木曜日の朝、宿泊していたホテルをチェックアウト。大学が予約した日にちより延泊した分の2泊分は、実費支払い、帰国後の精算、ということで、$100の支払い。朝食とベッドのB&Bとしては、妥当な値段ですが、当地の物価水準から考えれば、労働者ひとりの月給に相当します。

 午前中にインターナショナルSOSというクリニックを受診しました。
 若い日本人女性医師でした。ご主人の赴任に伴って当地へ来て1年。半年前からこのクリニックで仕事をしている、ということでした。
 80代か70代後半と思える高齢のレントゲン技師さんが撮影現像してくれた画像は、とても不鮮明で、尾てい骨もはっきり写っていない。え、これで診断ができるのか、と思っていると、ヒトエ先生は、「ちょっとデジタル画像のほうを見て確認してきます」と、レントゲン室へ行きました。

 先生の診断では、「臀部打撲による尾てい骨周辺の筋肉等損傷」ということで、骨にはヒビなどが入っていないということでした。ほっ。
 どちらにせよ、自己治癒頼みで、もらった薬は、湿布かわりの塗り薬と痛み止めの内服薬ですが、少なくとも骨折よりは治りがはやいだろうと思います。

 仕事を終えて、学科長先生が教員宿舎まで連れて行ってくださるというので、待っていました。6:30になっても迎えにこないので、ボスが電話をすると「やあ、やあ、忘れていた」ということでした。
 当地のアポイントはこのようなことが多いので、ボスも気にしていません。当地には校務分掌という組織はなく、「外国人教員の宿舎入居」というような些末なことでも、学科長の判断処理によって行われるのです。事務員は、ほとんど事務能力を持たず、お茶くみ程度の仕事をするのみ。

 たとえば、事務室のエアコンが壊れたので、修理してほしい、というようなことでも、大学内に施設管理部署はないので、これも学科長に訴える。学科長がたまたま時間があって、思い出してくれると、顔を見た教員に伝える。教員がそれを忘れていない場合に業者に連絡してくれる、という手続きになる。どこかで話が行き違うと、エアコンは永遠に壊れたまま。

 ボスの話では、これは、大学だけでなく、どこの官庁も同じで、かっての軍事政権が独裁体制を作るために、イギリス植民地政府が築いてきた官僚制度をすべてぶちこわして、一部の軍人だけが権力を掌握する、という国のしくみにしてしまったことの後遺症だそうです。
 今後、この体制がかわっていくのかどうか。

 学科長先生の車に乗せていただき、渋滞の道路3kmを30分以上かかって教員宿舎に着きました。着いたら、管理人がいないので、鍵がないという。管理人に電話をして来てもらうまでさらに15分ほど待つ。大学を出る前に管理人に電話をして、宿舎で待機するように、という連絡はしないのです。到着してから、電話する。みな、待つことには慣れている。まあ、これが当地のやり方です。

 まずは、清掃。冷蔵庫も衣料ケースもカビていました。掃除をして退去したのですが、やはり雨期の終わりの時期に部屋を閉めたので、部屋がかび臭い。
 とりあえずの拭き掃除をしました。適当にしておいてであとは週末に、と思ったら、エアコンから水が落ちてくる。ふぅ、何から何まで、たいへんだ、と、拭き掃除をしていると、突然停電。毎日停電は何回かあるのですが、こんなときに、と、思います。

 幸い今回の停電は、手探りで懐中電灯を探している間に復旧しました。
 こうして宿舎の引っこしも済み、定住生活開始です。

12月4日(金)
 日本から来ているビルマ語学習のふたりの女子留学生をボスが招いて、大学近くのハッピーカフェでランチ。ボスは若い学生にミャンマーについて講義をするのが大好きなので、12時から始まったランチ講義は3時までつづきました。ビルマ学50年の大家の講義、ビルマど素人の私にも参考になりました。
 先生は、「専門家になれ、専門屋になるな」と、女子学生二人を啓蒙していました。専門家とは、専門について習得したことが世界へ寄与するような目を見開いた人で、専門屋とは、専門については詳しいけれど、いわゆる専門バカのことらしい。

 帰宅時。タクシーに乗ると、座るときはいいけれど、立って外に出るときがつらいので、バスで帰ることにしました。かなり重たいリュックしょって満員混雑のバスに立っているのもきついけれど、この際、立つことを選択。タクシーは宿舎まで2000チャット200円。バスとサイカーだと200チャットプラス300チャット50円。タクシーより150円分の節約になります。
 バスに乗ってから気づいた。降りるべきバス停の名前を忘れてしまった。なんだっけなあ。とにかく、英国インターナショナルスクールを過ぎたら降りるのだから、外の景色をじっと見つめていれば、大丈夫。

 節約したお金1500チャットで、炭火焼きの魚を買って帰りました。いつもは2000チャット200円の魚は「高い!と感じてしまうくらい、ミャンマー物価感覚になっているのだけれど。 女子留学生にも、彼女らが得ている日本の奨学金7万円は、当地の労働者の平均月収をはるかに超えているので、女子寮の学生達の生活水準に合わせるようにと伝えました。ふたりとも、意欲的で利発そうな女性で、きっと10ヶ月の留学生活でよい経験をすると思います。

 私も、今回の経験、よいものになるよう、気をつけてすごしたいと思います。1,階段から転げ落ちぬよう。2,交通事故に遭わぬよう。3犬にかまれぬよう。4,食べ過ぎぬよう、、、、(4)につき、、、守れるといいな、、、、

<おわり>
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ミンガラ春庭「もっとドタバタヤンゴン生活」

2015-12-03 00:00:01 | エッセイ、コラム
20151203
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし11月12月(3)もっとドタバタヤンゴン生活

 ドタバタと始まったヤンゴン暮らし。

 リヤカーに椰子の実を積んで、ヤシジュースとココナッツを売っているおっちゃん。


 ヤシをカットしてもらい、椰子ジュースを立ち飲み。中身の白い果肉ココナッツはホテルのにいちゃんに渡した。街中ではいろいろな果物のジュース屋が出ているのだけれど、どうも心配が先立ち、椰子なら直接中身を飲むので、衛生面では一番安心できます。

 昼ごはんも、食堂にいかず、パンとバナナをお弁当にして、立って食べる。
 晩ごはん、レストランに行くと、食事を終えて立ち上がる時、ものすごくおかしな姿勢でたつのをウエイトレスや近くの席の人に見られて恥ずかしいという経験をした。28日のYKKOレストランでヌードルを食べただけで、29日30日、12月1日2日は、シティマートスーパーで買ったパンと、グリルドチキン、道端で開業している屋台のおかずなんぞを買って、おなかの足しにしました。チキンは700チャット(70円)、チリソースもいるかというのでうなずいたら、200チャットとられた。

炭火焼きの屋台。小さいジャガイモの串を焼いてもらいました。


 屋台の食べ物、9月の終わりごろに蒸しトウモロコシに当たって2日寝たのでこりたのだけれど、やむを得ず、茹でたポテトを串に刺して炭火で焼いたのを3本300チャット(30円)で買ったり、揚げたポテト1個100チャットを3個買ったり。柿は、とても小さいのに、1個600チャットもして、日本より割高でした。
 2日の夜は、道端の八百屋でカリフラワーとキャベツを買って、ホテルの電子レンジでチンして、日本から持って行った小袋のポン酢をかけてたべました。道ばたおかず屋の豚肉煮物、100グラムくらいで500チャット50円。

 3日木曜日は、午前中、インターナショナルSOSというクリニックを受診して、午後は、ホテルから教員宿舎への引っ越し。4日は、日本からヤンゴンにきて1年間ビルマ語を学ぶ留学生とのランチ。

 ドタバタとすぎた最初の1週間。
 新しい経験をすれば、新しい学びがあります。今回の尾てい骨骨折さわぎで学んだこと。
 1)尾てい骨骨折をすると椅子から立ち上がるときに痛い。歩くときはそれほど痛くない。
 2)尾てい骨が曲がってしまった人は、直腸が抑えられてしまい、お通じが悪くなる。
 3)夜、眠りが浅くなるので、普段以上の睡眠時間をとっても、昼間も眠くなる。
 4)洋式便器を使って立ち上がる時痛いが、和式しゃがみ込み式便器だと、それほど痛くない。

 1~3は、医学情報サイトや患者の経験談として出ていたこと。私の場合もそっくり同じです。(4)は、新発見。しゃがみ込みからお尻を後ろに突き出して、それからゆっくり立つと、あまり痛まないのです。でも、こんな新発見をしたからといって、今後の人生になんの役にもたたないと思うけれど。

 せめて、全世界の尾てい骨骨折患者に啓蒙しよう。お尻の骨を打ったときは、洋式便器でなく、和式あるいはアジア式のしゃがみこみ型便器で用をたしましょう。

 一度椅子に座ってしまうと、立つのがたいへんだから、足が疲れるまで、たったままで仕事をしようとしています。パソコンも立ったままキーボードを打つ。これはそれほどたいへんではない。

 おしりが痛いんだよぅ。泣き!
 泣きながらも、明日の引っ越しに備えて荷造りしている間、普段は見ることもないサッカー試合をライブでみました。ワクワクジャパンというテレビ番組。ガンバ対サンフレッチェ。後半シーソーゲームで、最後、ロスタイムでサンフレッチェ広島勝利。選手の名前なんぞひとりも知らない私でも、なかなか楽しめるゲームでした。

 まあ、どちらが勝とうが、今の私には、私の尾てい骨の痛みだけが関心の的なんですが。あしたのインターナショナルクリニックでは、木曜日ちょうど、日本人先生が診てくれるというのですが、何科の先生だろうか。イケメン先生だったらどうしよう。おしり診てもらうんだよ。ま、いいか。

<つづく>
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ミンガラ春庭「さらにドタバタヤンゴン生活」

2015-12-02 00:00:01 | エッセイ、コラム
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし11月12月(2)さらにドタバタヤンゴン生活

 ヤンゴン到着後、もドタバタが続きます。 

・11月28日(土)
 今回も、教育省の外国人教員宿舎に入居するまでは、大学近くのマジェスティホテルに数日間泊まります。ボスはずっとホテル暮らし。下っ端の私は、見てくれはきれいだけれど、問題アリアリの宿舎住まいです。

 ホテルの部屋、今回は3階。
 フロントまで降りようとして、階段をすべり、したたかお尻をうちました。お尻の肉布団のおかげで、打ち身程度ですんだとおもうのだけれど。奥さんがタイガーバームのような塗り薬を持ってきてくれたので、すり込んでおいた。ミャンマーの伝統薬、効くといいのだけれど。

 ボスとタクシーで大学へ。土曜日なので文学部校舎の入り口が開いているかどうかわからなかった。出入り口は鍵がはずしてありました。でも、12月1日の新学期開始前だから、トイレへ通じる廊下が閉鎖されており、水を汲みにいくこともできない。

 2か月間閉鎖していた事務室。部屋の中は砂ぼこりとカビ。
 箒でボスの事務室と私の事務室を掃く。なんでこういう掃きづらい作り方をする箒なんだろうと、掃除するたびに思う。ミャンマーの人たちにとっては、こういうのが掃きやすいのかもしれないけれど。
 洗面器を持って、カンティーン(大学食堂エリア)へ行き、水まきをしていたウェイターにたのんで、ホースの先から水をもらう。ほこりだらけの机やカビがついている椅子を拭く。
 水が不自由なので、十分なことはできないけれど、今のところ、しかたなし。

 ボスは昔の教え子ふたりが今はえらくなって尋ねてきて、いっしょにランチに出て行きました。現在ミャンマーで活躍している方々なので、いろいろなミャンマー情報を交換できるとのこと。
 
 新学期開始前の土曜日だから、校舎内には、掃除係の人のほかは学生もいない。トイレにいきたくなったらどうしようか、カンティーンのトイレ、借りられるかなと思い、外にでようとして出入り口のジャバラ式のシャッターを開けようとしたけれど、開きませんでした。あらら、、、、私、外に出られないのか。閉じ込められたのか。ボスがランチから帰ってこなかったらどうしよう。不安はつのる。
 パニック状態で時計を見たら6時過ぎ。あらら、ボスはランチから直接ホテルに帰ったのかも。私はこのまま大学事務室で一晩過ごすことになるのだろうか。
 あせった私は、東京の派遣元大学への「ヤンゴン到着メール」に、新学期開始前の土曜日に事務室清掃に来たら、校舎から外に出られない状態になってしまい、ボスの帰りを待っています。という内容。

 そこから大騒動が始まりました。「ヤンゴンで校舎に閉じ込められて出られなくなってしまった先生を救出せよ」という指令メールが東京からヤンゴンに発せられ、鍵を持っていそうな人に次々メールが転送され、何人もの人を巻き込んでの騒ぎになりました。
 ボスがランチを終えて帰ってきて、ふと気づくと時計は4時。東京時間の時計をはめていて、6時過ぎても帰ってこない、と思ってしまったのは、冷静さを失って時計を見てもう夜だと勘違いした私のはやとちりでした。しかも、シャッターは古いゆえひっかかって開かなかっただけで、鍵がかかっていたわけでもなかったのです。

 学科長夫人は頭にカーラーを巻いたまま、鍵を持ってかけつけてくれましたし、鍵を持っている英語科学科長から指令を受けた先生も来る。もう大騒ぎの結果、「鍵がかかっていて閉じ込められた、というのは勘違い」というありさまで、私はオオカミ少年状態。
 もう、恥ずかしいやら申し訳ないやら、ほんとうにどうしましょう、と「穴があったらはいりたい」ヤンゴン初日になりました。
 なんぞコトあらば、大勢の人が動いて助けてくれる、というありがたい環境で仕事しているのだ、ということはよくよくわかりましたが、「コトあらば」が、不安からパニックになった老女の勘違い、では、どうにもおさまりません。

・11月29日(日)
 授業で使用するマイクを買いに行きました。大人数クラスで語学授業を行うのは、日本ではやったことがありません。国費留学生を中心としたエリートクラスの日本語授業で、15人クラスを受け持つと「10人以上のクラスだと、多すぎてやりずらい」と、文句を言っていた、恵まれた日本語授業を展開してきたのです。初日に学生の顔と名前を覚えられるのは、最大20人まで。

 でも、今回日本語入門カナクラスでは、100人までの登録を認めて、最初ふたつに分けてカナ文字を導入し、カナ文字テストの結果上位50名を一クラスにして入門クラスを運営する、という方針を決めました。50人を相手に、どのように授業をしたらカナ文字が定着するのか、試行錯誤です。

 12時に大学カンティーンでオン先生と待ち合わせ。彼女の車でダウンタウンの電気屋街に行き、スピーカー専門店で、ヘッドマイク、手持ちマイク、スピーカーで7万5千チャット(7500円)のセットを購入。
 2時半にホテルまで送ってもらいました。そのあと、3時半まで部屋で休憩。4時半から7時半まで、レーダンのスーパー2軒まわって、とりあえず必要なものを買いました。
 YKKOレストランで、シーフードヌードル(5400チャット)を食べて帰りました。途中、道ばたの店でりんご1個500チャット。コットンズボン3900チャット。今回、テキトーに衣類を詰めたら、パジャマズボンが入ってなかったので。 

・11月30日(月)
 どうやら階段落下おしり滑り込みは、セーフとはいかず、尾てい骨にヒビでも入ったようす。3日たっても、歩くのはなんとかなるけれど、椅子から立ち上がるときにものすごく痛い。ほんとうは病院に行って診てもらうべきでしょうけれど、2008年に足の親指を骨折したとき、レントゲンを撮って「親指の骨、骨折。全治3ヶ月」という診断を受けたあと、湿布薬を貼る程度で、治療と言うほどの治療はしなかった記憶があります。おそらく、今回、病院で診てもらったとしても、数ヶ月間の自己治癒力頼みということになるのでは、と思います。

 だったら、尾てい骨の診察は、できればしたくない。尾てい骨を人様にさらす姿、、、医者でもいやです。私、痔になったことないので、おしりを他人に診られたことないの。
 ネット検索の結果も、尾てい骨骨折は、自己治癒頼み以外に治療法はない、と出ていました。

・歩くとき座るときにはそれほど痛くない。
・立ち上がるとき、非常に痛い。
・あおむけに寝ると痛いので、横向きに寝る。
・尾てい骨あたりを触ってみると、骨が曲がっている。

 そ、そう。その通り。全部あてはまる。

 椅子から立つとき痛いのは、1ヶ月くらいで、激痛から「鈍い痛み」程度に収まってくるそうなので、しばらくは、顔をしかめながら立ち上がることにします。「鈍い痛み」は、半年、場合によっては一生続くのだと。

 11月30日は、新学期前日の準備。ただし、週末などの勤務時間外に出勤しても時間外手当などはない。なぜならこの仕事は「業務委託」という形で行う、いわば「請負仕事」だからです。
 請負仕事は、ひとまとまりの仕事を完了してナンボ。時間外手当などはないけれど、1月に3日間欠勤して日本に一時帰国する場合、3日分の給与は減額するという連絡をうけました。勤務地を離れる、という理由によります。
 11月28日、29日、30日と3日間、無給のボランティア勤務。

 超過勤務には時間外手当なし、欠勤は給与減額。どこのブラック企業だよ。

<つづく>
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ミンガラ春庭「ドタバタヤンゴン生活開始」

2015-12-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
ミンガラ春庭ミャンマー便り>ヤンゴン暮らし11月12月(1)ドタバタヤンゴン生活開始
 
 ミャンマー出発前も、いろいろドタバタがありました。

・11月24日(火)
 年内の最後の授業。課題をたっぷり出して、12月は休講になるから、1月の補講2日間に提出発表する、という授業開始時に学生に通達しておいたことを確認する。1月には補講を行う2日間の前の日に一時帰国して授業の翌日にはミャンマーに戻る、というアクロバット往復を行います。そのため、今回はビジネスマルチビザをもらいました。

・11月25日(水)
 病院へ行って、医師の指示で採血検査。美容院へ行ってヘアカット。4カ月切らずにすむようにショートボブにしました。
夜は、お寿司。ミャンマーにも日本食店やすし店があるけれど、それほどおいしくもないのに高い、とぼやく母のため、送別会がわり兼息子の27歳誕生日1週間遅れの食事会として、寿司デリバリー。息子の好きな「マグロ尽くし」。おいしゅうございました。

・11月27日(木)
 大慌てでスーツケースに荷物を詰め込む。もうわけわからず、何がどこに入ったかもわからず、とにかく詰め込む。きちんと整理整頓して詰めればあとが楽なのだとわかっているのに、それができないのはいつものこと。結局、さがしたけれど、何より必要な『旅の指さしミャンマー語』という本がどこかに潜り込んでしまって出てこない。衣類などは、みつからなくてもヤンゴンでシャツでもなんでも買えるけれど、日本人旅行者向けのミャンマー語の本、とても便利なのに、出てこない。

 夕方、宅配便でスーツケースとキャリーバッグ成田空港あてに送り出す。
 そのあと病院へ行って、検査の結果を聞きました。先生は「こんな体でミャンマーなんて絶対に反対です。感染症にかかったりしたら、危険ですよ。すぐに派遣元に連絡して、後任を探してもらいなさい」という。私も「早く後任をさがしてください」と前々から頼んではいますが、パリだロンドンだというならともかく、だれも行きたがる人がいないヤンゴンだから私が行くことになったのであって、おいそれと後任は見つからない。先生は「万が一のこともあるから、英文診断書を書いてあげます。病院にかかるようなことがあったら、必ず医師に診せてください」と、書いてくださった。このことは看護師さんだったくちかずこさんから、英文診断書を持参するようにというアドバイスを受けていて、とっくにやっておくべきことだったのです。
 元気自慢のつもりでいたのに、自分の健康状態が悪化していることがわかって、落ち込む。

・11月27日(金) 
 娘息子に見送られて出発。背中のリュックにパソコンいれて、昨日詰め切れなかった残りのあれこれを詰めたらボストンバッグ2つ。さすらいの旅芸人といういでたちです。
 空港でスーツケースを受け取り、計量してもらうと、スーツケースのひとつはエコノミー制限を2キロオーバーしているから、減らせといわれた。もう片方のキャリーバッグは12キロなので、詰めなおせと。両方足して計量したなら、飛行機に対する負荷は同じじゃないですかと言ってはみたものの、決まりだから係員の指示にしたがって、スーツケースをあけて、2キロ分を手荷物のボストンバッグに詰めなおす。このとき、キャリーバッグの鍵をつけ忘れ、空港に置いてきてしまった。

 そんなこんなでイミグレーションを通ったのは予定時刻より30分遅れ。これまでエコノミーチケットばかりだったので、利用したことがなかったラウンジを利用していいと言われた。初めてラウンジに入った。貧乏性だから、搭乗開始まで20分しかないのに、セルフサービスのコーヒーをいただきました。せっかくなのに、なにも飲み食いしないのじゃもったいないと思ってしまったのが、運のつき。

 慌てて搭乗し、座席まで行こうとして、パソコン入れたリュックをラウンジに忘れたことに気づきました。取りに戻ろうとしたら、いったん飛行機に乗ったら、もう出国したことになるので、出ちゃダメと。ラウンジの人に電話して、リュックを届けてもらいました。すぐに見つかり、離陸時間が遅れるなんてことにならなくて、よかったです。無料のコーヒーに浮かれている場合じゃなかった。反省。

 空は晴れ。とても順調な8時間のフライトでした。座席がすいていたので、途中で3座席独占して昼寝。
 2時間半の時差があるヤンゴンに、現地時間4時過ぎに到着。ボスが「疲れたので、夕食は外に出ないでミャンマーの米緬を取り寄せるけれど、どうしますか」というので、同じにしてもらう。おいしゅうございました。

<つづく>
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