浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

暑さへの怒り

2024-07-28 14:15:57 | 日記

 今日も猛暑である。戸外に出ている人はほとんど見ない。現在36.5度である。しかし炎天下では40度は超えているだろう。

 昨日まで、夕方には畑に立っていたが、今日は無理かもしれない。天気予報を見ると、夕方でも、37度の予想である。この温度は、日陰で風通しのよいところでの観測だろうから、炎天下の畑では38度や39度だろう。

 昨年夏も猛暑で、夕方畑で作業を10分間するだけで頭がくらくらした。

 暑さは、年々強化されている。地球温暖化を何とかしようと国際機関で強く訴えているが、しかし世界中の支配層は動かない。ロシアやイスラエルは、戦闘を継続し、破壊と殺りくを行っている。

 支配層の関心は、カネだけとなっている。庶民の姿も見えていない。見ていたとしても、カネ儲けの手段としてのひと、でしかない。

 新自由主義という経済思想は、資本主義の行き詰まりから生まれてきたものだといわれるが、確かに現在の経済のあり方を見ていると、資本主義の未来は見えなくなっている。このままだと、地球という惑星がもっている、生物が生きてゆく環境が食いつぶされて、資本主義だけではなく、人類が衰亡へのみちを歩んでいくことになるのではないか。

 食いつぶしている主体は、現在の支配層である。日本でいえば、財界であり、極右の自由民主党であり、政治家であり、官僚たちである。そしてアメリカである。

 庶民が苦しんでいる原因をつくりだしている者たちに、No!をつきつけていくことが必要なのだが、しかしその力は弱い。

 

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蜂が刺した!!

2024-07-09 20:11:25 | 日記

 わたしの実家は、槇垣根に囲まれ、なかにもたくさんの木が生えている。毎年夏になると、蜂が飛びまわり、どこかに蜂の巣がある。

 今日、最近植えた花の苗に水をあげようと如露を持ってうろうろしていたら、左のうでにチクッと痛さが走り、すぐに右手で払ったところ、蜂の野郎が腹を出してもがいていた。この野郎が刺したのだと思い、足でとどめを刺した。そのあと、槇垣根に殺虫スプレーをかけていったが、刺されたところの近くの槇垣根、その低いところに蜂の巣があった。スプレーをかけ、そこにいた蜂をやっつけた。

 わたしは歩いていただけで、蜂を怒らせるようなことはしていない。にもかかわらず刺されたのだ。すぐに蜂の毒を出すために水を流しながら毒を揉み出すようにして、結局ことなきを得た。

 今までの人生の中で、蜂には何度か刺されているが、何もしていないのに蜂に刺されたことは、幼い頃にいちどだけあった。家の窓から手を出してぼーっとしていたとき、蜂が飛んできて、さっと腕に刺してどこかに飛んでいった。

 家の周辺で、蜂の巣を見つけることは珍しいことではなく、子どもの頃から、蜂の巣を落とすことがある種の遊びであった。

 なお今日、わたしは黒いTシャツを着ていた。蜂は黒色に対して攻撃的になるのだそうだ。気を付けなければならない。

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立ち止まって、考えたい

2024-07-05 20:51:17 | 日記

 昨日も今日も、午後3時半頃から畑に行った。昨年夏はあまりに暑く、畑で10分程度動くだけでフラフラした。その結果、畑は背の高い夏草に覆われてしまった。夏草を少しもとることができなかったために、カボチャ、オクラをつくっていたところに行けなくなって、放棄した。

 だから今年は、通路をとにかく確保しようと、暑くても、除草に励んでいる。

 今つくっているのは、とうもろこし、なす、きゅうり、ズッキーニ、オクラ、さつまいも、枝豆、さといも、かぼちゃである。前三者はすでに収穫期に入っている。さつまいもは、伸びてきたツルを切って、土の中にさしている。さつまいものツルの値段は高いので、早く植えておいて、でてきたツルを切ってさしていくのである。

 また毎年小豆をつくっていて、今がまき時である。その準備をしなければならない。

 今年の夏も昨年同様か、それとも昨年以上の暑さだと言われている。

 私は庭でいろいろな花を咲かせ(種から)、また野菜もつくっているが、昨年頃から花や野菜の生長のしかたがかわってきているように思える。温暖化が、確実に植生を変えている。人間が酷暑だ、堪えがたい暑さだと言っているが、植物も暑さに耐えている。庭や畑の雑草も、今までみなかった種類を見つけることが増えてきている。

 温暖化の危機が叫ばれてからもう長い時間が経っている。その対策が急務だといわれながらも、支配層はそんなことを顧慮することなく、カネ儲けに励んでいる。

 わたしには、人類は破滅へと向かっているように思える。新自由主義が席捲するなかで、その速度が速まっているのではないかと思う。

 立ち止まること、そして考えることが必要ではないか。

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丸山真男

2024-07-02 20:44:50 | 日記

 わたしが会員となっている研究会で、丸山真男をとりあげるという。

 今パソコンを打つ右側の書棚には、『丸山真男集』全巻があるし、『戦中と戦後の間』、『現代政治の思想と行動』なども並んでいる。それだけではなく、座談、回顧談などもある。もちろん、『日本の思想』(岩波新書)もある。とにかく丸山真男に関する本は、『現代思想』の臨時増刊号など、たくさんある。なぜそんなに揃えているのかというと、丸山真男の「「である」ことと「する」こと」に、青春期に読み、考えさせられたことがあるからだ。

 それは高校時代、「現代国語」の教科書に載っていた。『日本の思想』にもそれが載っているが、わたしはそれを何度も読んできた。かなり影響されたといってもよい。そしてそれからは、「「する」こと」を重視しながら生きてきた。

 昨年わたしは、歴史講座のなかで、丸山真男について話したことがある。そしたら、丸山真男ってどんな人なんですか、という質問がなされた。丸山真男を知らない人がいるのだと、その時わたしは驚いた。しかし、よく考えてみると、丸山を知っているのが当たり前という世界と、丸山なんて聞いたこともないという世界があるということ、なのだ。

 ある種の「知的世界」(丸山の語彙でもある)に生活している人と、そうでない人がいて、その世界は併存している。本来なら、それぞれの世界は溶けあっていなければいけないのであるが、なかなかそうはいかない。逆に現代は、それぞれの世界が大きく乖離しているのではないかと思う。

 その乖離状態を見据えながら、わたしは歴史講座で話をしている。

 わたしも会員である研究会は、当初、市民生活の場と「知的世界」との融合を図るためにつくられたと記憶している。

 丸山真男をとりあげるなら、丸山真男という人間を知らない、という人びととどのようにつながるのか、ということも問わなければならない。しかし研究会は、おそらくアカデミックな議論で終始することであろう。

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景色

2024-07-01 19:36:12 | 日記

 子どもの頃、学校から帰るとすぐに遊びに出た。家の前には寺があり、そこにはたくさんの松が生えていた。ぼくらはその松にのぼった。すべての松を征服した。

 寺の前には、ずっと田んぼや畑が広がっていた。冬になると、稲の藁が乾いた田んぼにまかれた。ぼくらはその藁の上で遊んだ。

 目に映る景色は、広く感じた。また空も広かった。

 だが子どもの頃目に映った景色は大きく変わった。まず寺から松の木が切られていった。残っている2本の松も、これ以上のびないように上の方で切られてしまった。

 そして田畑が広がっていたところには、家が建てられ、景色は狭くなった。空も狭くなった。

 わが家の裏には、父が生まれた家があった。しかしその家には跡継ぎがいなくて、近年土地を売った。そこには5軒の家が建った。新しい家だ。その家とわが家との間には、高い槇垣根があったが、それはなくなった。

 時代の移り変わりと言えばその通りであるが、しかしどうにも寂しさが募る。

 子どもの頃、ぼくらはその景色のなかにいた。景色はぼくらの生活そのものだった。しかしそうした景色はもう消えていった。

 学生時代、六大学野球を、たまに見に行った。神宮球場のまわりにはたくさんの樹木があった。いちょう並木を歩いたこともあった。学生時代をふりかえるとき、ぼくは、ぼくを包んだ景色の中にいる。

 新自由主義が席捲するなかで、カネ、カネ、カネ・・・・を求める企業が、公的権力と手を結び「開発」という名の景色破壊を進めている。

 東京に住んでいる人は、それでよいのか、と思う。

 東京に行くたびに、高層ビルが増えている。そのなかに高層のマンションがある。あの高いところの窓から、住人は眼下を行く小さな、小さな人びとを眺めているのだろうか。人間観が変わるのではないか。

 わたしは歴史の研究をしてきたが、その際に心がけていたことは、底辺から視る、ということだ。それをぼくはエラそうに「底辺の視座」と呼んでいた。底辺から視れば、社会全体を見わたすことができるのだ、と。

 どの視点から景色をみるのか、その際、自分はどこにいるのか。人文科学は、「視座」が大切だ。その「視座」がぼけている。

 なかには、高層ビルから視る景色、あるいはその社会に君臨する国家権力の「視座」から社会をみつめる人が増えているような気がする。 

 ぼくは、幼い頃の景色がなつかしい。

 ほんとにほんとに幼い頃、ぼくは親戚に泊まりに行き、その家のまえに広がる田んぼを眺めている。その田んぼには、牛がいた。牛が田んぼのなかをゆっくり進む。もちろんそのうしろにはお百姓さんがいた。

 そうした景色をみながら、ぼくは育ってきた。

 幼い頃、ぼくがいた景色がなくなっていくなかで、その景色を覚えている人びとが、去っていく。だからよけいに寂しさを感じる。

 おい、勝手に、カネのために、ぼくの景色をかえるなよ!!!

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墓がなくなった

2024-06-05 12:54:55 | 日記

 今日午前中、寺から完全に墓を撤去した。父の墓は、三段になっていて、もちろん上は字が彫られている。それはそのまま、愛知県の山寺に運ばれる。下二段は、重量があるので割った。ドリルで穴を開け、そこに楔を打ち込む。すると、パシッと割れるのだ。

 御影石で、なかなか綺麗な石だったが、もう墓のあとはあたらしい小石を入れて跡形もなくなった。

 菩提寺には、墓じまいされたところがあり、歯が抜けたようになっている。

 仏の教えは、万人救済のはずであったが、現在の日本仏教は、多くのカネ儲け坊主が「活躍」しているため、万人からカネをとることだけを考えている。そのため愛想を尽かした人びとが寺院、仏教から離れている。こうした姿は、かなり前からみられているが、仏教界はあまり関心がないようだ。

 今からしばらく団塊の世代がこの世から去っていくから、坊さんや葬祭業者、霊園経営者はウハウハだろう。しかしそのあとに来るのは、人口減少の世界。宗教法人の名を借りているのだろうが、民間の霊園経営はいずれ破綻することだろう。

 石屋さんが言っていたが、現在の墓石は中国から輸入されるようで、墓石の字はコンピューターが刻むのだそうだ。

 時代は変わる。宗教意識も変わっていく。寺院は廃れていく。

 

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墓の撤去始まる

2024-06-02 20:49:29 | 日記

 今日10時から、墓の撤去に着手した。墓は、1971年に新しく建立したもので、その際、骨壺にあった遺骨は墓石の下に埋められた。その時の業者(御嶽教の行者でもあった)が、遺骨は土に還すものだという意見から、骨壺から出して土の中に埋めた、と母から聞いていた。

 それから50年以上が経過している。土の中の遺骨はおそらくないだろうと思っていたが、掘ってみると、バラバラではあったが、残っていた。土と一緒に掘り出し、木綿の袋におさめた。遺骨は、水で洗い、骨だけを集めることになる。

 もし遺骨が残っていなかったら、墓石の下の土を一部でも掘り出して実家の庭にもってくることを計画していた。

 この墓の撤去に関して、三枚の書類を作成した。ひとつは「改葬許可申請書」である。これには埋葬されている者の本籍、住所、氏名、死亡年月日を記すのだが、もちろん申請者の住所氏名も必要である。そして現在埋葬されている墓地(納骨堂)の管理者の住所、氏名、法人の場合(当然宗教法人が多い)、記名、代表者の押印が必要である。墓地の管理者の記名、押印が必要で、これをしてもらわないと書類が整わないことになり、これを楯にして、記名、押印をしてほしかったら、離檀料を払え、といわれるのである。

 私は墓からの魂抜きの読経の代金として3万円を支払っただけで終わったが、通常この離檀料の支払いをめぐって争いになる。

 そしてその他に、「焼骨の自宅保管について」(これにも、墓地管理者の記名、押印が必要である)、「焼骨の自宅保管証明申請書」が必要になる。

 これらの書類は、遺骨の改葬先が確立した段階で役所に届け出て、埋葬許可証を得るということだった。

 母の遺骨はいまだ自宅にあり、また父の遺骨も、行き先が確定するまで自宅保管することになる。

 いずれにしても、寺院とはこれで縁を切ったことになる。

 「子孫に墓を残さず」である。私がこの世を去ってからも、私の遺骨は墓には入らない。それでよいと思う。

 

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菩提寺との別れ

2024-05-31 22:25:39 | 日記

 2月に母が亡くなった。晩年を過ごした娘(私にとっては姉)のところであった。住民票を移してあったので、その地で葬儀を営んだ。家族葬であった。

 さて遺骨であるが、亡くなった次の日、浜松へ帰って菩提寺の世話人と話をした。そこにはすでに父の墓があった。菩提寺に遺骨を納めたいなら、浜松でも葬儀をしないと、つまり菩提寺の住職を中心とした葬儀をしないと納められないといわれた。

 亡くなった地での葬儀は、母の遺影を無数の花(それも母の好きな花)で覆い、葬儀後の棺の中は花でいっぱいとなった。花の好きな母であった。花代は消費税を含めて66万円であった。そのほかを含めて、葬儀費用は100万円をはるかに超えていた。もう一度葬儀をすることは考えられなかった。

 父の法事の際、菩提寺の住職は、いつもカネの話をしていた。法話なんて聞いたこともなかった(法話が話されることは、親戚の法事に参加してはじめて知った)。そんな住職一家に、母の戒名をつけてもらう、また読経をお願いする気持ちはさらさらなかった。亡くなった地での葬儀と戒名は、坊さんドットコムの僧に依頼した。とても良い僧だった。

 父の墓を撤去すること、つまり菩提寺から離れることを決断した。

 菩提寺は、私の祖先が室町時代に建立した寺で、子どもの頃は住職がいたが、檀家が少なく生活できないということから、他寺に移っていった。そこで、住職を近くの寺に頼み、その住職を兼務住職とした。しかし余りにひどいので、世話人代表であった私の叔父を中心にして、排斥運動を行ったが失敗した。かなりの金額をよこせと言ったようだ。

 さて、菩提寺を離れるということは、離檀するということである。いろいろ調べると、その際には高額な離檀料が要求されるということであった。私のもう一人の叔父の墓も、子ども(私にとってはいとこ)が関西で生活することとなったために、離檀し撤去されたが、その際高額の離檀料を求められ大もめにもめたと聞いていた。しかし、離檀料には、法的根拠はない。

 私は、もし請求されたら、徹底的に抗戦するつもりでいた。そのことを周囲にも洩らしていた。

 そして今日の朝、住職が読経をしにきた。わずか10分程度のそれであった。事前に3万円ときいていたので、その金額を納めた。読経が終わって一時間ほど経ってから、住職から電話があった。本日いただいたおカネの領収書はありません、ということだった。私は、それで結構ですと答えた。

 数日後、墓は撤去される。すでに石屋さんとは話をつけてある。「◎◎家先祖代々霊位」とある石と、姉と私との間に生まれ亡くなった水子の地蔵は、どこかの山寺で引き取って供養されるということである。その供養料も含めて約28万円である。

 すでに市役所へ行って、改葬の手続きは済んでいる。さて、父と母の遺骨はどうするか。最終的には決まっていない。しかしもう墓をつくらない。私のも含めて、である。墓があってもなくても、死んでしまったら終わり、再生はないのだから。人の一生は、はかないものだ。

 ずっと昔読んだ本に、「はか」という語は、「狭い場所」を示すということが書いてあった。「はかなし」とは、生きる「狭い場所」すらない、ということらしい(今、大野晋の『古語辞典』をみたら、そのような記述はない。日本語をさかのぼって研究した大野晋が書いていないのなら、この説は少数説かもしれない)。

 死ぬということは、生きる「場所」を失い、「狭い場所」である「はか」に入れられる、ということでもある。私は「狭い場所」は好かない。手塚治虫のまんがに「百物語」という作品がある。亡くなると、宇宙の大生命に合体するというような内容であったと記憶する。そのとき、死がそういうものであってほしいと思った。

 とにかく、「子孫に墓は残さず」である。子どもたちに、この問題で苦しませない、ということである。

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久しぶりに・・・

2024-04-08 17:19:52 | 日記

 昨日、もうじき定年になる、テレビ局に勤めている友人が来た。久しぶりである。彼とは、二つドキュメント番組をつくった。静岡市に行ったときにはしばしば会ったが、コロナ以降はほとんど行かなくなったので、時々電話で話すだけとなった。しかし実際にあって話すことは貴重だと思った。

 例えば、今のテレビ局はコンプライアンス(法令遵守)が徹底していて、車で後部座席を映し出すときにシートベルトが写っていないと「上から」おとがめがくるそうだ。些細なことでも、クレームがきてはいけないということから、様々な制限がかけられるという。テレビ局に「自由」がなくなっていると感じた。

 「自由」な雰囲気がないと、ユニークな発想も生まれず、創造的ではなくなってしまう。テレビ局は「表現の自由」(「報道の自由」)の担い手であるはずだが、「自由」がなくなれば面白くなくなるし、真実も遠のいてしまう。

 いろいろな話をしたが、やはり裏金問題で混乱を極める、腐臭を放つ政治の話が主であった。そうした、否定すべき政治を良くする方途がみつからないということで一致してしまった。希望がない、ということである。

 政治の話を、今では局内で話す人はいない、ということだった。

 すでに私は働いていないので、日々話す人は限られている。きわめて少数の人と話すだけである。となると、新しい情報は、本や新聞から得るしかない。テレビは見ない。ただYouTubeで、テレビのニュースは見ることはある。

 今日、『世界』5月号が届いた。そのなかの「事件に「飢えた」公安警察と司法の歪み」は、大川原加工機事件について、弁護士の高田剛と青木理の対談。いかに警察、検察が狂い、また裁判官が頽廃しているかが話される。こういう事件の警察官、検察官、裁判官は実名を明らかにすべきであると思う。唯一、塚部貴子という検察官が実名ででている。彼女は、「大阪地検の証拠改竄事件」の関係者であり、また「問題検事」として知られているという。また経産省の貿易管理課の課長補佐もこの事件に大きな役割を果たしたようだ。この人の実名も公表すべきである。

 今日は雨が降っている時間が長かった。畑に行くと雨が降り・・・という一日であった。

 

 

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ことば

2024-03-22 17:13:14 | 日記

 ことばは、魅力的である。いろいろな文章を読んでいると、ことばに関しての新鮮な知識を与えられるし、また刺激を与えられる。

 『世界』4月号で、韓国の作家・翻訳家であるチョン・スヨンさんと、日本の翻訳家である斎藤真理子さんが「往復エッセイ」をはじめた。斎藤さんは、韓国の文学を翻訳したりしている。斎藤さんについては、このブログでも書いたことがある。だから、関心を持って読みはじめたら、「蚊」のことが記されていた。あの「蚊」である。

 チョン・スヨンさんは、日本に留学しているとき、谷中霊園で「蚊」にであった。「蚊」を、日本では「文を読む虫という漢字をつかう」とある。なるほど、「蚊」の野郎は、耳元で「ブンブン」と羽音を立てる。「蚊」の野郎は、耳元で「文を読んでいる」のであろうか。そんなことはあるまい。「文を読む」のではなく、血を吸いに来ているのである。

 この字、中国からきたのか、それとも「凩」や「颪」のような和製漢字なのか。調べてみたら、そうでもないようだ。漢和辞典を調べたら、中国発祥の字である。「正字」は虫二つを並べて、その上に「民」という字が来る。「民」は「「か」の羽音の擬声語」だとのこと。私は“虫に苦しめられる民”という意味ではないかと思ってしまう。

 「正字」であるその字がなぜ「蚊」になったのか。やはり、「ブンブン」という羽音の擬声語として使われるようになったのだろう。

 「蚊」の読み方は、漢音では「ブン」、呉音では「モン」だそうだ。

 韓国では「蚊」のことを、모기(モギ)というそうだ。呉音の「モン」から来ているのではないだろうか。

 「蚊」とよく似た字に「虻」がある。「正字」は虫二つの上に「亡」がくる。「亡」は、あぶの羽音の擬声語だとのこと。

 山口誓子の句に、「虻翔(か)けて静臥の宙を切りまくる」がある。私は「蚊翔けて静臥の闇を切りまくる」としたい。

 ちなみに虫偏に工をつけた「虹」(にじ)という字がある。この場合の「虫」は蛇の意だという。「工」はつらぬく、という意味だそうで、「天空をつらぬく蛇」。虹はきれいだが・・・・・

 

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社会的な倫理観

2024-03-21 21:16:59 | 日記

 『週刊金曜日』最新号の新刊紹介には、読みたくなるような本が並ぶ。

 まず『ケアの論理』(岩波新書)の紹介文を読み、これは読まなければならないと思った。というのも、ここに「リベラリズムの倫理においては、理性的で自律した個人が集まって普遍的正義に基づく社会を作る」に対しての「ケアの倫理」として、「誰もが生まれたばかりの時には他人に完全に頼りきっていたように、他人に依存するという形での「つながり」こそが人間の普遍的な条件であるという認識から出発する」が記されていたからである。

 私は、まさにその「リベラリズムの倫理」を意識的に追求し、それに沿った倫理観をつくってきたし、生きてきた。できうる限り感情や欲望をおさえて理性的に行動し、自律的に生きる、そのためには自立を図らなければならない、その自立には経済的自立はいうまでもなく、生活的自立(だから私は家事万般を行うことができる)も求められ、できうるかぎりあらゆる場面で他人に依存しないということ、それを実践してきた。学問的な面でも、他人に頼るのではなく(他人からはサジェスチョンしか受けない)、自ら学び理解する(自分自身が分かるまで学ぶ、考える)、思想的、学問的な自立である(だから多方面の書物を購入し読んできた)。

 しかしこういう生き方は、なかなか厳しいものであった。しかし近代的人間類型こそが民主社会の主体として存在可能であるという認識をもって、生きてきた。

 今になって、確かに「ケアの倫理」がいうように、他人に依存しながら生きていくことこそが「普遍的」ではないかと思うようになってきたが、いまだ「依存する」ことが体質的にできない。「依存する」のは、家族だけである。

 とりあえず『ケアの倫理』を購入しておこうと思う。

 

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考えること・・

2024-03-19 20:49:26 | 日記

 作家の立松和平に、一度だけ会ったことがある。某高校の記念講演会の講師として立松が立ったとき、ある人物と共にその仲介を行った。講演のあと、3人でいろいろなことを会話した。

 とても有名な作家であったけれども、驕り高ぶることもなく、楽しい会話であった。しかし立松も、62歳という若さで亡くなった。2010年2月であった。

 立松の本をたくさん読んでいるわけではないが、立松は好きだった。彼が田中正造(渡良瀬川鉱毒事件)や中国人の強制連行事件に関心を持っていたこと、会話の中でそういう話をした記憶があり、問題関心に共通するところがあったからでもある。

 最近、『現代日本人の「死生観」』という雑誌を入手した(アーツアンドクラフツ)。そこにはいろいろな人の「死生観」が記されているのだが、立松のそれもあった。

 立松は、死の予兆を感じたとき、そのときは元気であったが、こう書いている。

 私は幸福であった。いい人生であったなあと、心から思っている。思い残すことはない。もう一度いう。私は幸福であった。

 これを書いたのは2003年。2007年には、こう書いている。

 死ねば、もちろん書くことはできない。書くことが生きることだったのだ。

 生きているあいだは、生きるのだ、その人なりの日常を生きる、それしか死ぬ存在である人間の生きようはない。

 いつまで、こうして考え、読み、書くことができるのだろうか。

 

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音楽を聴く

2024-03-14 21:11:44 | 日記

 音楽を聴いている時間が長くなっている。今日は、ショパンのピアノ協奏曲第2番を聴く。

 この曲は、ショパンの初恋の人、コンスタンティア・グワドコフスカへの憧れを描いた作品だと言われる。とりわけ第2楽章にそれが現れているとされる。19歳ないし20歳の頃の作品である。

 しかし、芸術は、個性的であると同時に普遍性をもつ。

 この曲を聴いていると、初恋のひとへの憧れ、あるいは愛する人へのあつき想いを感じる。しかしそれは、憧れやあつき想いは、恋人だけに向けられたものではないように思える。

 すべての愛する人への、あつき想いというか、そういうものを感じる。

 ショパンのピアノ協奏曲は二つあるが、作曲の順序は、第2番が先である。第1番のピアノ協奏曲はコンスタンティア・グワドコフスカへの追憶だといわれる。ショパンによるピアノ演奏による初演であった。1830年10月のことであった。そして11月にはショパンはウイーンへと旅立つ。祖国との別離でもあった。

 第1番の第2楽章もとてもきれいで、素晴らしい。音楽が、豊かな感情により作曲され、そして演奏が聴衆の感情を揺り動かす。

 第3楽章は、別離への決意のように聞こえてくる。

 

 

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蔵書の整理

2024-03-03 21:30:30 | 日記

 残りの人生の長さを考えると、もう新たな研究は出来ないし、神経を集中させての正確な歴史叙述はできそうもないと思い、蔵書のほぼ半分、とりわけ専門書の多くを処分している。先週の月曜日も多くの本を整理したが、明日も、古書店が私の蔵書をもっていくことになっている。

 幕末維新史の研究者であった故原口清先生、私に在日コリアン史の研究を促した故海野福寿先生は、ある時期からまったく書かなくなった。長生きした原口先生からは、歴史研究の方法論をなんどもうかがっていたので、ぜひそれを書いて欲しいと何度も要請したが、先生は書かなかった。

 海野先生から、ある時、はがきが送られ、そこにはもう書かないということが、いつもの端正な字で記されていた。

 名誉のために名前は記さないが、弱いを重ねた高名な歴史学者であるA氏に原稿を依頼したことがあった。送られてきた原稿はあまりにひどく、このままでは掲載できないと判断した私は、彼の多くの著書を読み込んで、何とか論文としての体裁を整えたことがあった。同じことは、別の歴史学者でも体験した。

 学問研究には、引き時があると思う。私は、みずからがまさにその時期にきていると思う。

 残されている仕事は二つである。2023年度ですべての責任ある仕事から離脱しようとしたが、二つだけが残された。継続を要請されたからであるが、晩節を汚さないためには、数年の内に「撤退」しようと考えている。

 あとどれほど本を読むことができるだろうか。

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ことばと音楽

2024-02-29 21:28:28 | 日記

 音楽を聴く。今は、ヴィヴァルディの「四季」、その前はチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲だ。

 母の死から、農作業や庭仕事のように身体を動かすことをしていないときには、ボーッと音楽を聴くことが多くなった。

 そんな状態の中、『週刊金曜日』最新号が届いた。最近、本が届いても落ち着いて読むことはできなかった。『世界』、『法と民主主義』、『選択』、『週刊金曜日』、そして寄贈されてきた本、眼が活字をとらえない。だが今日届いた『週刊金曜日』を読んでいたら、活字となったことばの力を感じた。

 まず「悪が勝つのはひとえに善人が何もしないから」。新進気鋭の学者である三牧聖子さんの「政治時評」のなかのことばだ。その通りだと思う。目の前にある現実を素直にことばにうつしたというものだろうが、心を撃つ。

 次は、土井敏邦さんのドキュメンタリーについて記された文に、これも事実を活写したことばだ。福島とガザに共通することは、

 人間としての尊厳を奪われていること。そして責任者が誰一人裁かれていないこと。

 別に福島やガザに限らない。あらゆるところで、この二つが渦巻いている。どうしたら、人間の尊厳が守られ、「悪事」を働いた政治家などの責任が問われることになるのか。

 そして次は古川美佳さんの山口泉さんと洪成潭さんとの対談を筆記した文。古川さんの『韓国の民衆美術』は素晴らしい本であるが、その古川さんのまとめた文だ。

 私は、現実に絶望感を抱いている。絶望感は、さらに無力感を引き出す。あらゆるところに目を凝らして見つめても、絶望感しか湧いてこないというのが、私の精神状況である。

 古川さんは「希望」を解体して、「希」(まれ)な「望」とする。そうか「希望」というのは、本来「まれ」なものなのかと、教えられる。

 しかし、古川はこう書く。山口さんも洪さんも、

日本や韓国で美化されてきた国家暴力を暴露するだけではなく、それを成り立たせている人間の本性への深い絶望に真っ向から分け入り、その暗闇で見出される一瞬の光という「希望」(それは暗さの陰りを帯びた白い光)を探り出そうとしてる

と。「絶望」の中に、「希望」の光を見つけることを語ったというのだ。絶望しているだけでは、何も前に進まない。教えられることばだ。

 ことばの力を感じる。ことばの力が、私の心の中にエネルギーとして注ぎ込まれるような気がする。

 読まなければならない。

 

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