応桑地区の万騎峠は、長野原町役場の南約5kmのところです
西側を長野原町、東側を東吾妻町の境いにある万騎峠へは、
西側からの林道が工事の為、東吾妻町側からのアプローチになります
2020年に運用が開始された八ッ場ダムの工事によって周辺は大きく変貌しました
国道145号線も吾妻川右岸(南側)に付け替えになり快適のドライブコースとなりました
村役場前から国道145号線を東へ約1km(信号機無し)で、右(南)の国道406号線へ
つずらおりの国道406号線で6.5km須賀尾峠を越えます
*須賀尾峠越えの国道406号線ルートは、八ッ場ダムが出来る前には、草津や菅平方面への高崎市側からの抜け道として良く使っていました、現在はほとんど使われていません
*このブログ2013年3月25日投稿の「丸岩城址」で須賀尾峠を利用しています
下り始めて2,7kmで右に戻るように万騎峠への町道矢竹・万騎峠線入口です(右の道路が須賀尾峠からの国道406号線です)
林道入口から5.2km万騎峠まで登って来ました、峠の境い西側に目的のブナの木です
町道矢竹・万騎峠線の終点票柱です、標柱までは東吾妻町です
万騎峠の説明版です
万騎峠 (長野原町)・(吾妻町)
吾妻郡吾妻町と長野原町の町境にある峠、菅峰南方1.2kmほどの尾根にあり、標高1281m。
かつては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、白根山や万座山から幕府の火薬製造原料となった硫黄の搬出などで人馬の往来も多かったが、明治26年信越本線の開通によりさびれ今は訪れる人もほとんどいない。頂上にはブナの古木があり、旅人の目印となったと言う。(歴史の道調査報告書/信州街道)
ここからの展望は素晴らしく、東は榛名山、西は白根山・四阿(あずまや)山から鳥居峠まで一望できる。
この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある建久4年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩の際、狩宿の地に宿泊ののち、頼朝が万騎の兵を従えて峠を越えたことに由来する。
また別名を万字峠とも言われ、前記狩りの峠越えのときに、山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、陣笠に卍の印をつけて越したことから、卍(まんじ)峠といったのが、いつのまにか万字・万騎となってしまったという伝説がある。
*吾妻町は2006年に東村と合併して東吾妻町となった、人口約1.2万人です。
昭和16年(1941)に国鉄長野原線郷原駅(現JR吾妻線郷原駅)建設時の調査で見つかった「ハート型土偶」は国の重要文化財に指定されています。(東京国立博物館に寄託されている)
峠から西側へ1.6kmが工事のため通行止めです
東側から見上げました
南側から、目通り幹囲3.9mの大木です
更に南側にもう一本のブナの木です
では、次へ行きましょう
西側を長野原町、東側を東吾妻町の境いにある万騎峠へは、
西側からの林道が工事の為、東吾妻町側からのアプローチになります
2020年に運用が開始された八ッ場ダムの工事によって周辺は大きく変貌しました
国道145号線も吾妻川右岸(南側)に付け替えになり快適のドライブコースとなりました
村役場前から国道145号線を東へ約1km(信号機無し)で、右(南)の国道406号線へ
つずらおりの国道406号線で6.5km須賀尾峠を越えます
*須賀尾峠越えの国道406号線ルートは、八ッ場ダムが出来る前には、草津や菅平方面への高崎市側からの抜け道として良く使っていました、現在はほとんど使われていません
*このブログ2013年3月25日投稿の「丸岩城址」で須賀尾峠を利用しています
下り始めて2,7kmで右に戻るように万騎峠への町道矢竹・万騎峠線入口です(右の道路が須賀尾峠からの国道406号線です)
林道入口から5.2km万騎峠まで登って来ました、峠の境い西側に目的のブナの木です
町道矢竹・万騎峠線の終点票柱です、標柱までは東吾妻町です
万騎峠の説明版です
万騎峠 (長野原町)・(吾妻町)
吾妻郡吾妻町と長野原町の町境にある峠、菅峰南方1.2kmほどの尾根にあり、標高1281m。
かつては信州街道の須賀尾宿(吾妻町)と狩宿宿(長野原町)の中間に位置し、草津への湯治客、善光寺参りなどの旅人のほか、北信州の飯山・須坂・松代藩の江戸出し城米をはじめ、信州の特産物であるソバ・大豆・小豆の輸送、白根山や万座山から幕府の火薬製造原料となった硫黄の搬出などで人馬の往来も多かったが、明治26年信越本線の開通によりさびれ今は訪れる人もほとんどいない。頂上にはブナの古木があり、旅人の目印となったと言う。(歴史の道調査報告書/信州街道)
ここからの展望は素晴らしく、東は榛名山、西は白根山・四阿(あずまや)山から鳥居峠まで一望できる。
この万騎峠の名は、「曽我物語」にも記録のある建久4年(1193)の源頼朝の三原・那須の狩の際、狩宿の地に宿泊ののち、頼朝が万騎の兵を従えて峠を越えたことに由来する。
また別名を万字峠とも言われ、前記狩りの峠越えのときに、山中の狐や狸が勢子に化けて行列にはいって邪魔をするので、陣笠に卍の印をつけて越したことから、卍(まんじ)峠といったのが、いつのまにか万字・万騎となってしまったという伝説がある。
*吾妻町は2006年に東村と合併して東吾妻町となった、人口約1.2万人です。
昭和16年(1941)に国鉄長野原線郷原駅(現JR吾妻線郷原駅)建設時の調査で見つかった「ハート型土偶」は国の重要文化財に指定されています。(東京国立博物館に寄託されている)
峠から西側へ1.6kmが工事のため通行止めです
東側から見上げました
南側から、目通り幹囲3.9mの大木です
更に南側にもう一本のブナの木です
では、次へ行きましょう